2017年05月13日

【哲学】現代社会と満足できない症候群

↓9)記稿.2017/05/13

 綾波レイは、生きているのか死んでいるのかよくわからない
 人間であるのかも‥おぼろで、やはり造られた存在に思われる。

 そんな綾波レイには、人間らしい感情というモノが無いらしい。


> それは本当だろうか?


 そもそもの生命の根っことして、否、
 ヒューマノイドタイプとして、知性を有していることは最低条件のようなモノだが

 それだけで、どうして、虫や獣のようにふらふらとどこかへ行ってしまわないのだろうか?

 そこにはすでに、その環境を受け入れているとした想い(感情)があるのだ。


 ‥よく見てみれば良い
 野生に生きている生きものの多くは、ふらふらとどこかへ行くにしても
 仲間を認識するのだ。仲間を認識するのは知性だろうか?感情だろうか?

 一緒に居ようとする意識とは、そもそも戦略だろうか?それとも親近感だろうか?

 人間的に表現しようなら、
 それは明らかに、そこに居ても好い・居たいと思わないのでは始まりようがないのだ。


 人間として、そこに居続ける選択として、立場が弱いから‥選択のしようが無いと言うのもあるが、
 人並みに扱ってもらえないのでは、衝突なり家出を繰り返すようになる。
 ‥その個人の内には、すでに、満足できる扱われようの想定があるのだ。

 それは知性だろうか?感情だろうか?

 (述べるまでもない、感情だ)
 (必ずしも知性と感情云々を分離して考えるには無理があるが)
 (裏を返せば、条件が薄くなるほどその感情には理由が知れず、人間離れして見えるモノだ)

 なら、綾波レイが、碇シンジのように逃走を繰り返さないのなら
 それは、感情が希薄だからと言うことだけでなく、ほっとして居られるからに他ならない。

 (理由がさして見当たらないなら、そういう見方も可能なのだ)


> では、感情として傍に居たいと思う気持ちは、親和性からのみ生ずるモノだろうか?


 ‥答えは'NO'だッ
 うらみ極まって、その者の一生をめちゃくちゃにしてやらないと気が済まなくなった場合でも
 その者の傍に居ないと気が済まない気持ちはMAXになる。

 つまり、その場所に居続けようとしている動機には、明らかに感情の要素の方が大きい。
 同じ状況を見ても、それぞれで異なる反応を見せるにせよ、それぞれの感情の有り様にある。


 ‥「ここに居て不満なし」
 若しくは、それに変わりうる「そこに居たき理由に夢中」であると言うことだ。
 気乗りしなければ、別の選択肢を探すことにもなろう。

 (それらを感情の反応と見るのは当然だろう)
 (濃い薄いの差はあるにせよ、少なくとも、知的判断だけとは言い切れないのだ)



1-9)1

> 私たちが、グラビアのような文化に飼い慣らされて抱く感情とは、好みのポイ捨てだ。


 ‥そのような文化での「好き♥」との感情は、どうにもガサツで大したことがない。

 本来的に云えば、
 相手を「一生の宝物♥」にしたいと思うぐらいの感情が恋愛に期待されるにしても
 まぁせいぜいが「自分のお気に入りの中の一つ」に慣れてしまっているがゆえに
 どことなく、本気で、押し入れにでもしまって置くべきと思うような錯誤を抱く場合もある。

 (無論、知的生命体として、相手の思考の要求通りに暮らせと云われても迷惑なだけである)

 ‥つまり
 猛烈に自分のモノにしたいとした感情程度を‥恋愛感情として勘違いしているとも言えようか。
 しかしだからといって、
 そこから少し毛の生えた程度の「一生の宝物♥」とやらも‥どうにも怪しいところがある。


> 所詮は、「モノ扱い」のレベルと云うことだ。


 ‥それにしても、感情の濃淡によっては
 どれほどに自覚して居ようが居まいが、そこに居るのが素晴らしく心地よく感じられもするのだろう。

 (綾波レイのような状況は、面白いぐらいに極端な形と言えそうだが‥)



1-9)2

> ここに居るべき、一緒に居たい‥と思い、それが成り立ったにせよ
> お互いの生き様の濃淡が見合っているかどうかでもある。
> 感情には、上質・下質/白黒などとした価値的性質の差は無い
> 有るとすれば、自分の位置する環境に対しての類似的濃淡だ。


 自分を最強の戦士だとして、備えが有り、チカラ漲っていれば、
 過酷な殺戮の世界でもタフに楽しく生きられるだろう。なにも困ることなどあるまい。

 ところが逆に、

 普通であれば、普通なりの選択肢ということになり
 自分より上質に見えているモノに、どことなく意味も無く憧れを抱き続けていたりするモノだ。
 その上で、リスクを嫌い、とことん引っ込み思案だったりとするのだろう。

 つまり、

 前者はクール環境でも生きられるが、後者はホット環境でないと生きていけない違いになる。
 自分に望ましき濃淡を本能的に察知して、そこに居ようとするのだ。
 ‥この反応は、綾波レイのそれで示してあるように感情としての反応である。

 (否、本能だとしても、感情こそが反応しているのだ)
 (あとあとの尾の曳き方にしても、感情の方が比較にならないぐらいに大きい)
 (本能、理性、知性には、感情ほどに尾を曳くような反応は見当たらない)

 しかれども、

 ‥条件しだいでは、お互いに(人生観の差は多少見られるにせよ)
 有利であれば有利なりに、不利なら不利なりに、誰しも似たように考える基本姿勢というのがある。

 当然、誰だって、絶対的不利は遠慮したいだろうから、より有利にありたいと考える。


> そうだ、考えるのだ!‥是こそが知性であって、感情になき反応である。


 ‥綾波レイが、私たちと圧倒的に異質に見えるのは
 有利にあろうとか‥全く考えていないからだ。むしろ、ただそこに居るだけとしか考えていない。
 それが、独特の「穏やかさ」を保っている様でもあろう。


 ‥ところが面白きは、私たちには、それが最もクール且つ知性的に見えてしまうことである。


 (人によっては、目の前にそんなのに居られると、それが鼻について鬱陶しくさえ思うらしい‥)
 (差別とかイジメとか関係なしに本能で拒絶しちゃうらしいぞ)
 (つまりそれは、無欲にも穏やかな気性の人が増えると死にそうだって事のようだな)

 ‥一般的には、逆に思われるわけだが、実際の統計など誰も知らぬ。
 まさかの真逆も想定内だろう。それもまた絶対資本体制の現実だろうからな。



1-9)3

 考えないと生きられない。
 考えないと生き延びられない。

 ここ近年において、圧倒的にそう言われている。
 そして、私たちの多くは、そう思い込み始めている。

 しかしそれは

 ‥時代がどうとかと云うことでなく、よくよく突き詰めていくと
 宇宙そのものが、敵か味方かの構造体にしか成り立っていないからとも言えそうだ‥
 (その都度の状況が、有利か不利かでもある)


> ではその時、味方を増やすのは大変でも、敵を増やさない手立ては見つけやすいだろう
> ‥どうすれば良いだろうか?


 まずは、自分の性格の濃淡を自覚することである。自分に関わる環境の濃淡を自覚することである。
 そこに見られるバランスを、その都度、十分たるとして悟ることである。たどり得ることである。


 (穏やかさを保つには、そこから掛け離れる次第を望まない姿勢こそが望ましい)


 他の選択肢を考えてみる分には無論構わない‥しかしその時、
 知性はお節介にも、変化に沿ってよりベストを選ぶべきだと言い始めるだろう。
 ‥そこが現代社会である。(絶対資本体制である)
 ‥そりゃ自分にしてみれば、生きるにより条件が良いに越したことはない


> ただし、そのような選択が、必ずしもすべてだとは限らない


 全体で同じようにしか行動しないのでは、似たようにしか進展しないからだ。
 (似たままにこそ安心感が得られるというのなら、それはそれだが‥)

 そもそも、常にベストを目指して、外との比較を基準に、選び始めては切りが無い。

 その時、そこに居続けたのは、
 結局はいつも知性の方だったことになる。(知性の戦略勝ちということになろうか)

 ‥それでは
 感情の豊かさを味わいたいはずだったなら、知性に出しゃばられたままだ。
 (個人の単位ですでに、心に平穏など訪れようがないではないかッ)
 (羨ましそうに他人の上質を価値あるとして、自分自身に強要したザマだ。まるでアホである)

 (‥そんなアホな人が増えてくれると、うれしくてたまらない人も居るようです)


> 感情から見た時、自分にとっての有利とは、己の気持ちと共に在る状況である。


 ‥それは、わざわざ無理に新しき選択肢など見つけようとしなくても
 今のままでも十分に成り立っているとした感謝たる気持ちのような落ち着きだ。

 それを差し置いて

 気持ちに添うかどうかも定かに無き新しきばかりを望んでは、
 折角の楽しむべき汝の現実との向き合いを、知性に乗っ取られると云うことだ!
 「もっともっとよりもっと」と云わんばかりの社会形態では、尚更に安堵など得られようもなかろう。



1-9)4

> 自分の知性が顔を見せたところで、退屈するわけでは無いのだが


 今在る自分の価値観(今の自分のままに穏やかにくつろごうとの欲求)が、
 新たなる何かの発見で、ひっくり返されないとも限らない。

 ‥それは

 他人の持ち物を見て、自分も欲しくなるようなどうでも良さではあるにせよ
 思い立ったが、それを体験しないでは居られなくなると云うことだ。

 ‥そしてその時

 それ以前の感情(過去的自分)から見たら、それは、
 かまってもらえない猫のようなもので、どうにも納得しがたいばかりだろう。
 (それは、一つ前の感情が、新顔にも現れた知性を敵と見なしている精神状態だよ)


> 述べるまでも無い
> その手の内的選択肢における不満(しんどさ)を作り出しているのは、汝自身である。



1-9)5

 ‥ずばり、私たち現代社会という奴は
 自分が自分に対して不満を抱いているのに、そこを誰かのせいにしようとしている文化色にある。


> なにしろそれが
> 競争だし、情報の津波だし、少なくとも人並みにポジションを構えようとの横並び意識でもある。


 ‥そこに疲れを抱いているのなら、まずは
 安易に、他人の持ち合わせたる何かを望まないことである。
 自分に備わるところからの何かを選択し続ける姿勢こそが
 内的にホットで在り続ける秘訣である。

 他人から見てそれは実にクールに見えるだろう。

 (なぜなら、少数派だからだ)

 ‥私たちがお互いに自分のスタイルを貫こうとする時、全体が多様化していくものだ
 ‥されど、競争という名の周りを気にせざるを得ない鎖は、
 ‥どうしたって枠で固めてしまう思考でしかなく、鎖ゆえにそれは連鎖し続けるのが相場らしい


> 多くの者らは、盆暗にも、他人の持つ何かに憧れて、そこを起点に人生を得ようとする


 (かような人生を得ようとしても、さした意味など無いにも関わらず‥)
 (有ったとしてもその多くは自己満だろう、否、自己憐憫か)

 どうして、他者と比べてわざわざ汝を卑下する必要があるだろうか?(逆も然り)
 そういう思考自体がそもそもにして洗脳だ。

 ‥だってそうだろう

 楽しむ順序がまず他人との比較からでは、そもそもの好奇心はどこに行ったのだ?
 汝自身の好奇心に価値を見いだすも見いださないも汝だろう?
 その汝は一体どこを見ているというのだ?
 つまり、自分以外に何か価値がありそうなモノでしかない。


> 客観的に見てそれだけだ。それはつまり、自己憐憫の創造でしかない。


 自分には、すでに必要は与えられている。
 もしくは、与えられるだろうと信じていれば、戸惑うことなど不要なわけだな。

 ‥ただし
 その端境を認識できているかかどうか
 認識できたかどうかだ、そこの次第の差にリスクが付きまとうのも仕方なかろう。


 ゆえに、無駄なモノは一切やって来ない。それが秩序というモノだ。
 不足が有ると思ったなら、まずは諦めろ‥それが賢明だ。
 (とにかく、気持ちが足りていない・噴き出て来ないとあっては、どうしようもないのだ)


> ‥斯様な心理前提の壁の前には、憧れなんて糞のようなものさ


 ならばこそ、他者から高揚エナジーを奪う謀をしなければならなくもなろう。
 それを可能とするには、どうしたって、洗脳もとい宣伝ということになる。

 (思い込ませた方が勝ちなのだ)

 ‥斯様にも何が何でもナイモノねだりを可能にしたい連中も居る事になる
 だってそれだけ流行ってんだろう、ナイモノねだり。


> ‥目立ちたいとか、有名になりたいとか、人気者になりたいとか


 注目されてみたいって欲求ばかりは、自分自身が努力してみたとて、どうにもできない要素だ。
 「いじめられた」なんてのは、そういう意味では才能なんだろうけどな。

 でも、その時、そこにしゃしゃり出る度胸も希薄では、本末転倒だろう。

 どうした、注目されたいのだろう、その場面にしゃしゃり出るのが一番に手頃で簡単だ。
 出れば好いだろう、それこそ注目の横取りのおいしいところじゃないか。

 そうでないというのなら、はじめっから、注目を得ようなんざ
 ‥望むだけ無駄ということだよ。(注目願望に踊らされていたというだけの事さね)


> だからこそ、なかなかに手に入らないとしたヒエラルキー構造にも据えおかれるのだ。
> だからこそ、お互いでも不思議なぐらい一つの価値に縛られて御輿を担ぐ一極化に見舞われるのだ。


 ‥なーに簡単だよ、取りあえずは、ナイモノねだりをやめれば良い
 必要は自分で見出すべきだと思考すれば良い。まずはそこからだ。

 何が一番に欲しかったって、そりゃ創造する力だな。
 サクッとなんでも作っちまえるテンションの高さだな。

 そこだけは、ナイモノねだりだなんて誰も言わねぇんだな。
 ‥お前には無理と言われたにせよ、不可能の意味ではない。
 ‥お前にその能力が授からないと俺がうれしいみたいな糞を告白されただけのことだ。

 (そいつにしたって、神でもあるまいし断定などできていないのだよ)
 (否、むしろ神なら、やる気の方を買うだろよ)



1-9)6

> 現代人の多くは、外との比較&情報収集に大忙しで、汝に訪れている変化を見逃しがちだ。


 ‥汝の内なる変化の訪れを、スルーしてしまったからと言って
 日々のうわべとしては、「だから何?」という程のことでしか無いにせよ

 満足できない蓄積からのダメージは、常に自らを不機嫌にさらすばかりだろう。

 (汝の内なる変化・推移こそが関心事なのに、そこを疎かに見逃していては、すべてが無意味だ)
 (どうして他人様ばかり優先なの?、そうしたいならそう生きれば良しというだけの話だが‥)

 ‥しかれども
 誰かのせいにして置きたいが如く
 どうでもいいようなイライラを、日常的に繰り返さんがばかりに人生を送るのだ。


> よく考えてもみた前、それら多くは、解釈次第でどうにでも成ることだらけだよ
> どうにでもなるからこそ、「見逃しがち」と言うことにもなっているのだが‥


 それにしたって、汝自身がイライラに向かって選択しているだけなのだ。
 いつも、同じにしか解釈していない(他の気付きを疎かにしてきた繰り返し)がゆえに、
 同じことの繰り返しの度に、ワンパターンにしか反応できていないだけなのだ。

 本気で改善したければ、汝のその反応からして改めるべきことだ。

 ‥そうでないなら
 ただ単に不満とばかりに嫌がらせを創造しているにすぎないのだ。(自分にな)
 そのワンパターンなイライラを誰かに当たり散らす様は、まさに、不満を創造したいだけの姿だよ。


> いいかね、事象に対して穏やかにすごす秘訣とは、
> 自分自身の反応を変える方が、一番に手っ取り早い近道なのだよ。


 ‥不満(無関心)を二十年蓄積し得た者と
 ‥満足(感心)を二十年蓄積し得た者との差は、おそろしい程に大きく広大だ。

 (格差云々関係なしに、それは起こり得ているのだ)
 (解釈の幅を多く持てる者と、そうに無き者との差など、火を見るまでもない)


 現代社会の常に、お得を得ていないと意識低いみたいな錯乱は、まさにそれで
 社会全体でGDPが伸びないと意識低いみたいな錯乱は、まさにそれで
 いつかは、一度は、「○○みたいな」願望は、まさにそれで

 それらは、どうにも知性に飼い慣らされるばかりの日常でしか無いのだよ。
 (今一度、すべてを放棄して、観察してみれば好い)


> まぁ人によっては


 ‥自分が感情よりも、如何に知性を重視して生きていたかという事実に
 驚愕することにも成るだろうけどね。

 まさに、「競争したい症候群」という己を始めて自覚し得たと言うことにもなるのだろう。
 それはそれで、有意義な発見だろうね。

 ‥このぐらいで勘弁してやって、いい人になろうとか、そんな中途を考える必要が全然ない
 必要なのは、その気になっていない中途な連中を、如何にしてその気にさせて邁進させるかだよ。
 そういう自分像に、改めて誇りを抱くんだろうね。


 (確かにそういう人は見られるよ、時代の波に乗ればさえ頭角を得られたという事にもなる)
 (でも時代の波が変わっているのに、同じ思考で波に乗れるか?と云ったら危ういよね)



1-9)7

> まずは、斯様な日常から募りくる「不満」を創造し得ているのは、
> 自らの解釈の不甲斐なさに気がつけていない自身であるのだよ。


 ‥自分自身(感情)からの不満(メッセージ)たるに気がつくべきである。

 不満は不満であって、情報としては、不満だけとは限らないのだよ。(満足の場合も然り)
 その不満の中身の解縮の仕方を知らないのでは、不満のままだと言うことだ。

 ‥感情が警告を示したればこそ、知性で対処を考えろと、まぁそういう事だよ。
 ‥知性がこれがお得と示したら、感情をヒートアップさせろはロボット同然と言うことだ。


 (人間のくせに、どうしてわざわざロボットに成り下がるかね?)
 (しんどいだけだろうがッ)


> 「進化」とか「革新」とか、そんなものはだねぇ‥


 物事の解釈が、○か×か、白か黒かなんて単純ではなく
 それこそ十人十色で自由で自在だって次第を、事実を、

 性格上のキチガイ性分(商いの都合)から認めることが出来なくて、
 シェア争いなどと、ナイモノねだりにも愚痴三昧を決め込んだ‥

 ‥バカタレどもらのハッタリなんだよ!!!
 (上から目線にも下を飼い慣らしておくためのなっ)


 本当に能力に優れていたら、多彩に溢れていたら、斯様に抽象な文言を口にせず、
 もっと具体的に手に足を動かして、あちらこちらに発破をけしかけているはずだ。

 そうでない時点で、「ああこの人は、本気ではない」と訝しがられても不思議はない。

 本気で動いている人からは、その熱意(感情)が伝わってきて当然である。
 そうでないと思ったら知性に泳がされているだけで、その出所を探すことを心掛けるべきだろう。
 出所がハッキリとすれば、そこを基準に判断すれば、関わる上でのリスク回避は平易になる。


 ‥知性で動いているからとて、否定することが前提ではない
 ‥熱意が見られるからとて、肯定することが前提ではない

 解釈次第では、いくらでも解釈上でのお宝が転がっているわけで、
 レッテルを貼るような見方しかできていないことの方が意外と損が多いのだよ。(思考としてのな)



1-9)8

 ‥まぁたいていは競争意識なんで
 固定概念よろしくに、「右より左だ」としたパターンでけなし合って、
 お互いに片寄った見方をススメ合ってる文化色ってことだ。

 (そんなとんちんかんで、物事が改善に向かうわけねぇだろうがッ)
 (益々酷くなりまして、地球環境最悪ですってなッ)


> まずは恥をよく知って、慎んでから、言葉を選びなさい。(行動しなさい)


 ‥恥を識らんからこそ言葉が乱れるのだ。(そこにある理解の必要こそ倫理観だよ)
 ‥何が日本の伝統かと言ったらね、やっぱり「恥」を心得えて、わきまえると言うことさね
 ‥他に「恥の文化」がどこにあるというのかね?


 「人の振り見て我が振り直せ」だよ。


 そこがお得ばかりにしか目に行かないから、
 今や、「人の得見て我が得にすげ替えろ」だよ。

 ‥それを恥に思わずじまいでは、日本人とは誇れんのだよ。


> どういつもこいつも、何が競争万能にしたり顔で居やがんだか‥
> 資本社会なんてなぁ、どうにも「癌との闘病暮らしのススメ」だよ。(ふざけるな!)


 普通には暮らせなくなったけど、便利には暮らせるようになった。
 でも、多くは無償にも無くなったので、下手をこいては生きていけなくもなった。

 下手をこいてしまった時の、救いに乏しいので

 自力で何とかしろと、ガチガチの競争結果を前に漂浪せざるを得ないので
 ウソを付いてでも生きることを選択せざるを得なくなった。

 ウソが回るように閉じ込めている政府の弱腰どもは

 ウソでそのイスに座っているので、ウソを取り除きたくないので、
 ウソが延々と蔓延したままだ。それが真実なのにどいつもこいつも
 今の便利なイスに安堵して居たいとばかりに、ウソを素知らぬ顔でスルーしている。


 ‥俺はそんな時代の中で
 不思議と競争だけはするまいと何気に頑なだったさ
 まぁどちらにしても「満足できない症候群」である点においてさして変わりばえはない。

 (なぜって、そりゃ、好奇心旺盛だからさ)
 (綾波レイみたいな訳には行かねぇと‥)



1-9)9

> 競争はしないでも、勝負は有りなんだな‥己との対峙ゆえに(ここ重要)


 自分との勝負と思っていれば、何を選択しようが、後悔などありゃしねぇ。

 (たいてい、後悔なんてのは、他人絡みだからな)
 (後悔ほど、思考的にも、くそあとに引いてしまう次第もないと思う)
 (俺にとってそれは、自身の思考なりワクワクを疎かにして生きてしまったってことだよ)


 ‥決して
 目立ちたいとか、役に立ちたいとか、そんなことは抱かない。
 考えたとしても、自分のモノにしようだなんて考えない。(おこがましいだけだろう)

 ‥それこそまずはあきらめておけって話さ
 何をやろうとも、注目ほどどうにもならない、あてにならない水物もないんだからな。

 (そしてまた、厄介な代物さ)

 やる気×人脈×具体的展望=成功イメージ(予感)が伴わないのでは、
 ただの思い込みの妄想というものだよ。

 そこを‥頑張れば付いてくるとか思い込んでは、DQNにも図々しいだけである。


> まずは、その図々しさが恥であることをわきまえろと、それだけの事だよ。


 「え?何?」それじゃ、活躍できないじゃん?って‥

 ‥何を言っているのだね
 競争社会なんて窒息させ合う社会なんだから、無理する程にクレイジーなんだよ。

 自分に備えがあると思えば、目指せばいいし、無いと思えば諦めてりゃ良いのである。
 (自分の枠の中で出来ることをすべきとして、意識を切り替えればそれで十分だろう)

 素直に諦める奴が多くなってきたから、行政があわててんだろう。
 (向こうの方が、ズレてんだから当然なんだけどな)


> ‥本音は、戦争気運にならねぇって事でさ‥


 戦争ゲームできねぇじゃんってな、戦争商売で儲けられねぇじゃんってな。

 (頑張っても、それが人殺しや洗脳の役にも立っていたなんて、それこそ後悔だろうがッ)
 (まぁ物事の半々は負にも作用するので、そんなことを考えすぎるのも野暮なんだけどさ)


 ‥敢えて、誰かがツッコまないのでは、誰も注目しないと

 おっと、「注目」か‥それこそ当てになんてならない代物だな。
 まぁまったく「予感」がないのでは、ただの「妄想」だからな。

 そこは「DQN」というわけには行くまいて‥(読者に対して不敬になっちまうからな)


 ‥「まずは諦めておけ」とは口にしても、「折れておけ」とまでは語っとりゃせんのよ
 そこの受け取り方の違いというか判断が出来ないのでは、それこそ満足なんてやって来やせん。

 大きな満足を得るにも、まずは、日々の小さな満足らしきをどう良きに解釈して蓄積するかだ。
 蓄積のないところに、大きな日柱は立たんということよの。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 17:32 | Comment(0) | 哲学/一般 | 更新情報をチェックする
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