2017年05月13日

【勝手句帳】104 29-5-9 静岡新聞掲載分から

↓5)向宜詠吟.2017/05/13

排水溝へ群るる若鮎光る波                 沼津市・千本プラザ俳句教室
小アユ跳ね命をつなぐ早瀬かな               沼津市・千本プラザ俳句教室



 ‥ネタ1は
 排水溝がどのような規模を想定しているのかがまるで分からないので
 評価のしようがありません。


> ‥リアルに描こうとして、そのままに言葉を盛る必要があるのか?
> その辺の線引きをどうするかが今後ともに課題でしょうね。


 ‥ネタ2は
 「命をつなぐ」が何を指しているのかが、思わせぶりなだけで、具体的な意図が不明です。
 この手の掴みは、鮎の生き様ということになるので


> 無理に春の季語に見合うように「小アユ」などと盛る意味があるのか?‥でしょうね。


 ということで、二つのネタをまとめてリスペクトしてみました。


|鮎光る群るる命の早瀬かな 激しく生くる穢れを流し


> 早瀬に群れる鮎の生き様は実に清々しい(すがすがしい)
> そりゃ、お互いに激しき流れに棲もうというのだ、穢れを流しつつ生きているのだろう
> (私たちも手本とすべきと‥そんな鮎に惹かれるのだろうよ)



1-5)1

|柳絮飛ぶ景は此処いらししばし待つ             沼津市・千本プラザ俳句教室


 *柳絮(りゅうじょ)‥白い綿毛のついた柳の種子。またそれが春に雪のように飛び漂うこと。
 *此処(ここ)


 ‥柳絮、知りませんでした。
 ちなみに、柳の花(花粉?)は黄色らしい‥(こっちも見たことねぇ)

 ということは

 江戸時代の春は、想定される景色が随分と違うんだな。(日本にはさほど綿毛を形成しない種が多い)
 菜の花の黄色に、柳の花の黄色で、柳絮の白にも染まったかもと‥
 なにしろ、水路が中心だったし、その水を浄める意味でも柳の木が置かれていたわけです。


> じゃ、どうして浮世絵は「松」しか描いてねぇの??‥不思議だな。
> 水墨画にしたって、そういう意味では、なんも写実観があったようには思われない。


 つまり、お仕事用の題材が中心だったので、ピンキリに表現することにはさほどお熱でなかった。
 そういう点は、創作表現のお馬鹿な自由性より、むしろ暮らし向きの要望だったのかなと。
 ‥どちらかというと仏教よりだったから、宗教絵画の世界観とさほど変わらないところがあったと。

 (パトロンにウケないと仕事にならなかったと)
 (日常的に評価の低い題材を持ち出されても、誰も感心を示さなかったと)
 (まだまだそういう時代だったと、変わってきたのは「撮り」が普及したから‥)

 (ここをひっくり返すと、現代の感覚に近いのはどちらかと言えば俳句の方だったと‥)

 (でも、当時のパトロンと言えども、俳句にそれほど関心が高かったわけでもないと)
 (そこはやはり商売っ気だったと、利休と変わらねぇノリだったと)
 (お抱えするにしても、換金できる技術だったと)
 (まぁ、武士ウケするような詠み手も居なかったわけでして、宮廷詩人向きの流れも無かったと)
 (その辺は平安とはノリが違ったと、でも商人らは俳句・俳諧をたしなんでいた向きがある)
 (話術あっての商いでもあるからな、粋な文句の一つも垂れられないようじゃ買いもそそらないと)


> 話がそれました


 ‥ネタを見てもそうですが、柳絮は五音なんで、その手の句を確認しても必ず字余りになります。
 で、「字余りするなら上五」とのクソ常識の筆頭になっとるようでーす。


 > やれやれ‥絶対に字余りでなんか詠むもんかい!!


 ‥ネタの「しばし待つ」が
 どうにも特徴的だったので、ググって見たところ、まぁスゲー量になるようです。(中華の風景
 是はもう、雪の如しでもあります。(それらが、またどこに行くのかが不思議な感覚っす)


|飛びぬれば柳絮つくばう路傍 ここもそこも浄めな忘れそ


 *つくばう‥@うずくまる。しゃがむ。
 *路傍(ろぼう)‥みちばた。


> 柳の絮が飛び交えば飛び交うほど、
> 道端には、その絮が這いつくばるようにして、そこかしこにとどまっている
> その雪のような光景は、まるで、ここもそこもちゃんと掃除しろと言わんばかりだな
> やはり川の浄化装置だけのことはあって、そんな柳だけに、綺麗にはうるさそうだな
> (川の浄化は私たちが頑張るけど、陸の掃除は人がちゃんとやれと‥)


 ‥ちなみに
 柳の持つ川の浄化装置としての能力はというと
 タバコ栽培が土壌の重金属を吸着する程度に近い感じかと。

 (まぁ植物ですから、土壌を介した吸い上げですから)
 (牡蠣が、その呼吸の度に水質を改善してしまうほどには及びません)




 ‥春の季語「柳」をお題にして、いくつかありましたが(千本プラザ俳句教室)
 どうにも柳=緑=風=吹く=揺れる‥というお約束のような詠みばかりだったので

 こちらで、手本とばかりに見繕ってみました。


|魚河岸でつぶやく柳 腰砕け 小池都知事の括りは如何に


 ‥ふむふむなかなか、手本らしくなりましたとさ
 (まさに絶妙の盛り加減でーす。一人でも、引っぱりレベルで詠めましたん♪うほッ)



1-5)2

遠き日の片恋の味蕗のとう                 静岡市・あけぼの句会


 ‥ネタは、つまり、↓こう言うイメージかい??

 


 戦時下なのに屈託のねぇ恋愛観‥もとい人間模様だな。
 まぁ戦時下にかようなおなごが居たのかどうか知らねぇが、心象として有りなんだろうな。

 で、実際的な暮らしぶりを想定すると

 恋路を甘いチョコレートで語る定番なんて無かったわけだし、
 物資的に無理だったから、
 「蕗のとう」に恋をしのばすなんて次第でもあったと。(斬新だな、目から鱗だな)

 しかし、そうなら「遠き日」をもう少し具体的に盛った方がイメージは広がろう。


戦時下の片恋の味蕗のとう お裾分けついでや顔さ見に




鬼瓦古都の行く春見据ゑをり                藤枝市・桑の実俳句会


 ‥ネタは、そつなくほどよくまとまってはいるのですが、どうにも平凡です。

 ‥どういうことかというと
 「古都の行く春」の視界が、詠み手ではなく、「鬼瓦」からの視界なので
 そこでピンボケしているのが痛いのと、それゆえに主張がからっきしだからです。


> 鬼瓦が何か見てますよ、京都の行く春のようですね。


 ‥て、それを詩とは呼ばんだろう。つぶやきのつぶやきの程度でーす。

 あと、どうにも三段切れにある点も見逃せず、痛いのですが、
 まぁネタは、助詞の「を」が省略されている形なんで、さほど気にはならない範囲です。


|鬼瓦 呉に来た春対空砲 一度で済むまいこの先も


 *対空砲(たいくうほう)
 ‥旧日本軍的には高角砲(こうかくほう)の呼称が一般的ですが、
 高高度からの空襲のイメージが濃くなるので、対空砲にしてみました。

 *呉軍港空襲‥ともなると、狙いはあくまで軍艦&湾港施設なので、
 B29による空襲とは明らかに異なります。
 あと米国パイロット的には、真珠湾の仕返し気分もまじっていたはずです。

 でも、京都、横須賀、厚木周辺には、爆弾を落としてないんだそうですよ。

 でも、なぜかそんな京都は、原爆の最初の投下目標だったんすよね。
 今じゃ世界中の王家の思惑が当時の世界大戦云々だったと囁かれているのに、
 京都が原爆の第一目標だったなんて、どうにもフェイク臭いように思われます。

 (小耳に挟んだ所では‥広島には、ムーの王様の転生者が居たからヒロシマが狙われたとか‥)

 そういう話が出てくると、始めから広島だったのを隠しているとしか思えません。
 (それとも彼の者が移動したのかな??‥透視能力者でも居たのかよ!?)


> ‥話がそれました


 呉の鬼瓦には、「やぶ瓦」という風習がありまして
 屋根に載せて飾り付けるのとは、多少向きが違うみたいですが、
 ‥守り神としての扱いは同じようです。(とくに鬼にこだわっていない模様)

 というインパクトで、上五(一句目)にポンと盛ってあります。
 ‥って、単にリスペクトのまんまですけどね。

 (ちなみに、リスペクトでは、「を」ではなく、助詞「に」が省略された形です。)
 (まぁ「に」の連続はクドいので「や」が普通です。どうやら三段切れ扱いでーす。)
 (でも、不思議とどうにかイメージは鮮明に伝わるかなと)
 (それはたぶん、鬼瓦が空に向けて置かれてある印象だからに思われます)


> で、結局、


 湾口に停泊中の軍艦は、概ね着水し、原爆実験用に修繕されて沈められた感じらしい。
 徹底的に破壊しないで、着水させて、修繕するとか、当時の日本人には絶対発想できなーい。

 (真珠湾での経験もあるとは思うけどな。原爆実験前提だからな、好奇心有りすぎだろう)
 (‥まぁその時点で、如何に米国が、戦争よりも兵器開発寄りだったかという事です)

 国家を護る為の戦争じゃなくて、兵器を発達させる為の戦争だったということです。
 ‥アメリカと組むと言うことは、その辺の狂気とお付き合いするということです。

 (言っときますけどね、それを正義とは言わんとですたいッ)
 (ただの殺戮兵器への邁進は、どうしたってキチガイです)



1-5)3

|ほっとする香に包まれさくら餅              浜松市・雄踏俳句会
|ほっとする香に包まれさくら餅 ほのかな春に招かれてをり   参考



> *包む(つつむ、くるむ)
> ‥さて、どっちで読むのだろうか??


 ‥「参考」をもとに考えてみると
 (つつむ)とすれば、香につつまれているのは、桜餅を食べようとしている側であり、
 (くるむ)とすれば、香にくるまれてあるのは、桜餅自体を指すことになる。


 参考の下の句の意味合いから問えば、どうやら(つつむ)とした方がしっくり来るようだ。


 ‥しかし、参考を上の句だけの俳句として鑑賞する場合
 (くるむ)と読んでは、桜餅が、何か別の香にくるまれているようにも聞こえてきます。
 また、斯様に捉えずとも、桜餅自体の美化表現にしか見えて来ません。

 そこを嫌えば、(つつむ)として読んだ方が、詩情らしく落ち着いてはいます。

 ‥というところで
 ネタの字余り「て」は、(つつむ)前提による引っ付けということになり、
 また、三十一音での下の句を前提にしないなら、そこはどうしても外せないところかなと。


> とはいえ、そのままでは、どうにもぎこちないのです。(参考も同じく)



|ほっとする薫りもてなす桜餅 仄かな春に佇まうらむ


 *佇まう(たたずまう)


 ‥ネタのように、桜餅をただの置物か静物のように扱うのではなく
 擬人化にも、呼吸する生物っぽく見立てた方が、
 下の句を、上の句の桜餅の存在感に対する所感として、ひとまとめにできるのです。


> 和歌・短歌は、リスペクトのように、上の句と下の句との阿吽が整ってこそでもあるのです。




|野仏のほほえみており土筆萌ゆ               浜松市・雄踏俳句会

|野仏の土筆に説法微笑みぬ 口にぼたもちあと付けており


 *土筆(つくし)


 ‥掴みは面白くも、下五がどうにも落ち着いていません。
 「土筆萌ゆ」の「萌ゆ」盛りでは、
 「仏」が、ただの凡人にしか、見えてこないのが問題なのです。

 そこで、野仏の扱いを少し変えて、直してみました。

 仏は仏なりに主張はさせても、中身は人とそう変わらないとしての盛りになっとります。
 ‥「野仏」を「野坊主」に解釈しても、なんら問題はないでせう。


> 野仏にお供えしてあったぼたもちを、通りがかりの野坊主がいただいて、
> 少々ご機嫌とばかりに、土筆どもに説法なんぞを始めたようです‥


 「是は、拙僧がこれの仏様よりいただいたぼたもちである。

  本来なら、腹ぺこの拙僧の腹に収まるはずだったのは、
  土筆であるお前さんたちの方だったかも知れんのだぞ。
  是こそが御仏のご慈悲であり、どのようなところにも降り注いでいる光なのだよ。

  いやぁそれにしてもうまいのう、こりゃたまらんのう、
  土筆の手前としても、にこにこして食べてやらんとのう、せめてものお裾分けにもならんのう

  いやぁ、ああうまい、ああ、ありがたい‥(これで茶なんぞあれば尚結構)」



1-5)4

|啓蟄や発禁の書が本棚に                  静岡市・あけぼの句会

啓蟄やちびくろサンボが本棚に 虎はなぜバターになったのか?


 ‥「発禁の書」のままでは引っぱりにくいので
 「ちびくろサンボ」を引き合いに出してみました。

 おっと、そのまんまネタバレっすね。


> それにしても


 「啓蟄や」一つで、どうしてこうも落ち着き払ったように整っているのさ??
 ‥そこんところが、どうしても解せないんですけど

 「啓蟄」と「虫干し」は全然違うわけでして、
 ‥脳内で親近感のある扱いでもされているんすかい??




せせらぎや土筆土筆の通学路       浜松市・雄踏俳句会

|せせらぎや土筆土筆の通学路 「またね」と北アルプス見上げつつ


 ‥ネタを見て、その辺の土筆と違うなぁと思ったのは
 「せせらぎ」が盛られてある点です。

 「せせらぎ」ってことは、どうしたって山間部をイメージしてしまいます。


> ということで、斯様な引っぱりになりました。


 (よう知らんけど、安曇野のイメージでーす)

 ネタがどこを想定しているかなんて、そんなのはわかりようがありません。
 敢えて想定しないのも有りということでーす。

 ‥それにしても、ええのう、斯様な風景の中の行き帰り
 ‥俺のその頃の行き帰りなんて、それこそ窒息しそうなだけだったぜ
 (ハッキリ言って、なんの未練もねぇ)


> ‥ということはだよ


 今や日本全国、街の作りなんて概ねどこも似たようなもんなんだから
 家ばっかりの密集地帯で、思い出なんてモノを感じてる輩なんぞ少数派だろうさ‥
 そこは、社会規模で自覚すべき危機的状況なんすよ。

 ある意味、古里なんてもんは、あったらイイネぐらいの願望にすぎないんすよ。

 そうですよ、今時の高齢者の「うるさい発言」からしてそうですからね。

 ‥あれらの態度のどこに、古里に生きてるらしさがあるんすか
 ‥まるで知らない町里に越してきた長者のわがもの顔みたいな言い草でーす


> その辺の地方と都市部での温度差はものスゲーって事でーす。
> テレビの洗脳染みた番組構成で無理に盛り付けたって、半分はシラけてるかもって事でーす。



1-5)5

|紫雲英に一人大の字夢うつつ               浜松市・雄踏俳句会

|紫雲英に一人大の字夢うつつ 冠添えたれうふふのキッス


 *紫雲英(げんげ)‥レンゲ草の別称。(春)


 ‥知らねぇとばかりにググって見ると
 紫雲英田のフレーズで頻繁に用いられる様でーす。(普通目に見て暗号だな)

 それにしても、「げんげ」って発音はどこから来たんでしょうかね??

 明治の頃の呼び名の地域差(なまり)って事ですか‥(まじ勘弁して欲しいっす)

 ‥だいたい言葉なんて奴は、訛って伝わるのが相場で
 意図的に作り出そうとすると和製英語とか批判されるモノの
 訛って伝わっちまってたり、輸入絡みの産地名で伝わっちまっていたりすると
 なぜか批判されねぇんだからな、どうなってんだよ。(まるで地球的意図があるような気配だな)

 じゃぁなに

 「レンゲ」じゃ蓮の花の「蓮華」と区別できんということで
 誰かが「ゲンゲ」を口にしだしたとでも??‥もしかしてその逆??‥レンゲに訛ったの?

 (当て字も考えたって事だよな)

 明治の頃はなんでそんなに器用に当て字の振りまでやってたんだろうね??

 その辺は、戦後昭和も平成もからっきしだし、
 どちらかというと、どうでも好いような横文字短縮が流行るだけで
 新しい漢字(国字)が造られるとした気運もない。


> さて、話がズレました。


 とりあえず、そのレンゲ草の咲いているのを「紫雲英田」と盛るそうです。

 それにしても、今時の耕作放棄地を見ても、きれいに紫雲英のお花畑になんてなりません。
 田んぼに咲いてるをよく見かけるにしても、それは、毎年の稲作が前提にあるからでしょう。
 放置しては、紫雲英にはそれほどの勢いがなく、それなりに駆逐されるように思われます。


 ‥ネタの詠みから推察するに
 そこは、相当の紫雲英畑ということのようですが

 音数がてらなのか「田」表現ですからね、
 どうにもその光景というのが、田んぼとしての枠で考えると、まったく以てよくわかりません。

 (相当に広い田んぼの広がりでもないと、無理なのでは)

 ‥「紫雲英畑」で考えるべきが
 そもそもの牧草として持ち込まれた紫雲英の趣に思われます。

 しかし、見慣れた光景で言えば、田んぼなんで
 「紫雲英畑(げんげだ)」と読むのもありにした方が無理がないかなと。


> それにしても、田んぼで大の字に寝転ぶとの発想自体がよくわからないのですが‥


 ‥普通、寝転ばんでしょう。
 田んぼなら、余計にごつごつだし、稲刈りの後に鋤き返してあるならそうでも無いと思いますけど
 たいていは、稲が残ってるのが稲刈りした後の田んぼのイメージなんで、寝転ばないと思います。

 ということで、ますます畑のイメージになるように思われます。


 ‥引っぱりは、ネタの詠み手が♀だったので、斯様にしてみました。



> うた詠み終わります、ありがとうございました。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 21:46 | Comment(0) | 名句にポン/2017 | 更新情報をチェックする
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