2017年05月28日

【勝手句帳】109 29-5-20/5-23 静岡新聞掲載分から

↓6)向宜詠吟.2017/05/28

|太鼓橋藤満開に咲き満ちて           浜松市・三ヶ日俳句研究会水鳥発行所(5-23)

|藤越しに逆さと映える太鼓橋 渡りた先に亀戸の苑


 ‥「藤 太鼓橋」でググってみると、「亀戸天神の藤まつり」で画像が並ぶようです。 

 (これはもう、ネタは、それの詠みと断定できるかと‥)
 (それにしても、景色にアングルが見えてきません‥「満開に咲き満ちて」はクドすぎます)
 (ということで、↓画になりそうな見映えの好いのをチョイスしてみました)


 FUJI&TAIKOBASHI.jpg

 出典:亀戸天神の藤の花


 ちなみに‥江戸期の浮世絵に、その太鼓橋は朱に塗られておりません。
 そしてデカい‥(あれの半円状の橋の端と端は階段状なんだろうなと思わざるを得ず)


> 浮世絵のそのまんまがお目見えすれば、さらに名所になるのにな‥(見てえだろうし)


 * 神社の入り口に見られる半円状の架け橋を「太鼓橋(たいこばし)」と言います。

  亀戸天神社の太鼓橋は二つあり、
  手前を「男橋」、奥を「女橋」と呼び、「三世一念の理」がこめられているそうです。
  ‥簡単に述べると、池と橋を人の一生に見立てとるんだそうです。

 で、池の形状もかなり変わっておりまして、
 鳥居と社殿の間に池が縦長にまるを描いた様相です。(だから太鼓橋が二つ必要)

 で、池の内側を苑にしてあるという次第です。
 ‥江戸の当初から、「亀戸の藤」として知れ渡っていたそうです。


> にしても、ここは菅原道真&菅原家の祖神の社なんですよね。(その辺はさておき)


 ‥手直しからの引っぱりをどうしようかと、かなり悩みました。
 頭から短歌で詠むなら、五句目を「亀戸の藤」で括りたい向きになるところですが、
 俳句からの引っぱりなんで、すでに「藤」が出ちまっております。

 ‥仕方がないので
 社内側からのアングルで、藤越しに太鼓橋を見ながら、さらに
 それを渡って藤を見に入る流れになりました。

 (そうでもしないと、太鼓橋の句になっちまいます)

 ‥それにしても
 太鼓橋の上から藤の花は見えず、つたの緑で覆われているだけです。
 その辺の写真が見当たらないのですが、誰も注目してねぇって事ですか?

 (‥そうなんでしょうな)

 それで、この日まで、藤の花が、葡萄やキウイフルーツと同じく
 蔦を伸ばす樹勢であるということを知らずに居り、漸くにして理解しましたぜ。

 (少し考えれば判ることでも、思い込みがどこかにあって、すっぽ抜けていると)


 ‥要するに、藤の花とは
 人の手が加わらないのでは、あーもきれいに並ぶことが無いと言うことです。

 じゃ、藤原の「藤の原」ってのは、自然界には存在し得ないってことで良いのか?
 それとも、この藤原ってのは、「藤の花の上の景観」を指しているのか?

 とくに食べる系の栽培でも無いのに、花が見たいがゆえに、その栽培方法を見出すのだろうか?

 只でさえ稲作にしても里芋にしても、日本の農耕は伝来に由来するのだから、
 ‥藤の花を見て、それの栽培を思いついたのはやはり渡来人だったと考えられるかと
 ‥じゃ、「藤原」の姓を授かったもとい授けたって事は、どういうこと??

 (着想からして、渡来文化っすよね)
 (しかも葡萄栽培圏が絡むように思えてくる。葡萄以前にそれ系の植物栽培はあったのか?)


> 放置しておくだけだと、寄生植物にしかならないのに
> きちんと手入れしてやると、なんとも雅に様変わりするのは、
> 如何にも貴族体質としか言いようがない‥


 ‥さすが日本の貴族由来の姓の代名詞「藤」、目の付け所からして自覚があったと
 でも結局は、その藤原の栄華を支える羽目になったのは庶民でーす。
 どんなに雅やかに見えようと、寄生植物の弱さが克服されるわけではありません。

 「藤原」とは、実に因果な響きだったんですね。



1-6)1

|遮断機が降りて本音を閉じ込める        富士宮市・川柳芙蓉会(5-20)

|遮断機が降りて時間に閉じ込める 残りタイムをスマホで示せ


 ‥ネタの「本音」の意図がまるで判りません。
 どうにも、面白さだけ目立ってるのが遮断機の着想かなと。

 ‥まぁ考えてみた結果‥
 残念ながら句としてはまとまらず、アイデアネタになりました。
 (何が本音かを引っぱってみた感じかなと)


 路上の信号でイライラする事もありますが
 踏切の遮断機が降りては、イライラ所ではありません。

 とにかく、「あとどのぐらいで」開くのかが、嫌と言うほど気になるのです。

 そこでその緩和策として、スマホにアプリをインストールして
 その踏切が遮断される度に、開くまでのタイムがカウントされる‥
 日本全国の踏切状況がリアルタイムに表示されるアプリがあれば、
 交通渋滞の解消なり緩和策の必要を話し合うのにも一目瞭然になると‥

 (まぁ日本全国を網羅はしても、個人のスマホに必要なのは、地域部分だけですけどね)
 (現場に表示するのはさすがに無理があるので、スマホにしましょうとのアイデアです)


> これは、車の自動運転による万が一を減らす際にも、欠かせない要素の一つになると考えます。




|ひも付き嫌い風船空舞い          静岡市・むなぎ川柳会(5-23)

|風船の逃れて空やボクの自由 この先の苦楽ボクのもの


 ‥ネタの句を打ち込んでいると
 ATOKに「を」の連続傾向を指摘されちまいました。
 早い話が、「風船」の扱いが(文として)しっかりとした主体に扱われていないのでーす。

 ‥ということで、リスペクトが斯様になりました。


> あー、風船が飛んでっちゃったよ(もうあんなに高くまで)
> 空に昇るって、随分と広がりがあって自由なんだな、ボクの人生も斯くありたいよね
> でも、このあと風船はどうなるのかな?
> まぁしぼむにしても。それはそれかぁ‥(それも自由の姿なんだろうよ)
> あの風船のように謳歌しようというなら、そこも含めて全部が自分の自由と言うことだよね


 ‥苦楽を共にすると言われても
 方針次第では、頓挫もありで、勝手自由なのでしっくり来ない部分がありますが

 (つまり、リスクだとか考えている時点で、すでにクソと言うことですな)
 (そこまでをひっくるめて「自由」なんだと言い切っているのです)

 しかも風船ですからね、フワッと空に飛んで行っちゃうわけです。
 それこそ何も考えていません、物理現象のまんまの流れです。
 そんな何気なさも全部ひっくりるめて、自由が一番だと言い放ち、
 何が起ころうと、どんな目に遭おうと全部自分のモノと言い切るのです。


 ‥普通は、苦と楽を切り離して考えちまうわけです

 (苦より楽が好いとか、より楽を求めてまっしぐらとか)

 ‥まぁ言われてみれば、自由を看破するなら、切り離して考える方が無意味という事に成りますな
 自分の自由として(選択上の過程の都合など)苦楽が付きまとうそれらをすべてひっくるめて
 自分のモノだと看破する着目には、なかなか、目から鱗と‥思い知るばかりです。


> 斯様に注目すると、私たちの普段口にしている自由とは、一体何なんでしょうな?
> ‥どうにもこうにも、「自由」の考えからして、私たちは純度に乏しいという事のようです。


 (どおりで、蓋を開けてみれば、責任感に貧しき社会だと言うことですな)



1-6)2

花冷えの街は眠りの底にあり          静岡市・青葉句会(5-20)


 *花冷え‥桜が咲くころに寒さがもどること。その寒さ。

 ‥ネタの着目が「花冷えの街」なので、どうにも景気を連想してしまいます。

 実際的にも、街通りにサクラが両脇に構えて咲いていては、掃除が大変です。
 その手の苦情なりコストを考えると今時ありえません。
 ‥そう思えば、やはり景気絡みの詠みなのかなぁと思われます。

 しかし

 最近の事情をもう少しピックアップしてみますと
 そんな単純な言葉のなぞらえで納得できる事態ではありません。


|花イタさ幹から朽ちる淵にあり バグの放置に伐採管理
|民冷えの街は眠りの底にあり 格差放置に切り捨て政治


 *バグ‥ここではカミキリムシの幼虫(外来種)を指しています。

 知らずと放置されており、このままでは、日本のサクラが全滅するとまで言われています。
 (是は何も日本に限ったことでは無く、中国の輸入絡みで世界中に拡散したそうです)

 まぁそれと似たような流れで放置されているのが格差です。
 サクラと同じように、その処置の仕方もまた実にバッサリと伐採の如しです。


> こういうのもまた鏡似性ということになりますが、
> これはもう、心理的な見方から飛び出して現象そのものにシンクロした事態です。


 ‥どこも予算不足且つ地域の地主力も不透明の時代ですので
 相も変わらず中央からの鶴の声待ちという事に成りますが、そこでも予算が無いとばかりに
 バッサリとした手段しか執られないのが相場なのでせう‥

 (そんなのは仕組みの都合なんですから、仕組みを改めれば良いだけです)
 (そこに世界大戦レベルでの利権争いがあると)


> 何が一番にコストがかさむかと言えば、命のメンテナンスです。


 ‥だからそこを自由にして、メンテナンスも各自でやれば良いとか
 まぁそんな見方になってるわけですが、それこそ、誰もがやらないとした流れだったのです。
 どうしてかと言えば、一番に労力が掛かる一方で生産性が0に等しいからです。

 行政が最後の砦なのに、その行政が丸投げなんですから‥そりゃ、朽ちるでせう。
 ‥宗教が、信者の保護を放棄したのに同じです。

 (それにしても、恐いぐらいにシンクロしすぎっス)




|祝いごと気づかぬ振りで済ます嫁        静岡市・小鹿川柳同好会(来てこ)(5-20)

|祝いごと素知らぬ顔で済ます嫁 笑顔そろえずしてご縁来ず


 ‥「気づかぬ振り」って、そこは「素知らぬ顔」かと

 育ちによっては、祝い事(行事)なんて関係ねぇっすから、とぼけるも何も無いと思います。
 生き方の方針の違いです。しかしまぁ一緒に暮らす次第に成ったのなら、
 どちらかが音頭を取らないと、祝い事(行事)なんて奴は、消滅するのも流れです。


 (まず、私事で申し上げれば、誕生日文化はどうでもいいの人でーす)
 (歳の数ぐらいは数えますが‥数えとかないと身分照合の時にサッと出てこないから)


 ‥まぁそうなればそうなるほどに
 空気が読めないとして、煙たがられて、疎遠にも成るのが日本の世間事情でもあります。

 (なにしろ、ほめてもらいたい症候群だしな)

 喜びの感覚なんて奴は、ある意味で、刷り込みっすから
 記憶の中で、その行事を楽しんだ経緯があればあったで、ぼんやりとも反応を示すわけですが
 ‥なければ無いで、まるっきりの無反応を示すのは、現代の若者事情を見返せば織り込み済みです。


> 今や、若者らの無縁奮闘ぶりの痛々しいこと。


 (こちらが申し上げる立場でも無いのだが、これも鏡似性ゆえのシンクロでーす)

 ‥祝い事(行事)には、昔ながらの人の知恵というモノがあるようで
 非科学的とかと思って、なめてかかっていると、平成時代の刹那に陥ると。

 (といっても、カネ巡りが伴わないと始まらないのも行事参加ですので)
 (ゆえに、ゆりかごから墓場まで、どうでもいいとしか思考しなくもなると)

 それで、恵方巻きやら、誰かが勝手に簡素化しているわけですが、それにしたって、
 個人で勝手にやってろって向きですから、どうしたって、好き嫌いの感覚です。

 (まさに自由主義の顛末ですよね)


> まぁ従来の祝い事のすべてを求めるのも無理というわけでして、取捨せざるを得ないだろうと


 (カネの無い暮らしぶりに置かれると、祝い事自体が概ね無駄としか考えませんから)
 (グローバル時代ともなると尚更で、自国内風習が廃れるのも時間の問題と)
 (ハローウィンの浸透化なんてほんと謎)


 ‥もう一度言いますとですね、祝い事なんて無駄なんです
 ‥でも丸っきり無駄とも思っていないので、いくつかはまばらに有りだろうとも思っています
 ‥でもそれにしても、個人感覚の気ままな判断なので、何の意義づけなんて御座いません
 ‥周りまでそうなっては、縮小して消滅するのは時間の問題です

 (それだけにそこに自覚はあれど、モチベーションとなるとまるで御座いません)


> 祝い事には、如何にその感覚(味わい)を刷り込ませる体験が重要かと言うことです


 ‥見てるだけ、傍観だけでは、「しらけ」と「うらみ」にしか擦り込まれませんから
 ‥ほんと、どうでも好いとしか思いません

 (逆に言えば、個人レベルのそれらを大衆にまで広げようとか、迷惑レベルっす)
 (そんなのはどうみたって、押し付け宗教と変わりませんので)
 (‥創作活動・文化活動にしても、同じに思われます)



1-6)3

|ハチ公の横に並びて花の雨           静岡市・はいくぴあエイト(5-20)

|ハチ公の横に並びて花浪漫 待ち人来たりあふるる笑みな


 ‥「花の雨」??「花吹雪」??
 渋谷のハチ公前に、サクラなんて有りましたっけ?

 (ググってみたら、確かに咲いとります
 (それにしても、人だかりの多いところだな)


 ‥こげな雑踏を詠もうとは、その心意気だけは買いますけどね
 「雨」と綴っては、どうしたって来ない方の慕情しか浮かべないと思います。
 それを言うなら「春の雨」か‥

 (花の雨では、どうにもまぎらわしいだけっすな)


> では「花吹雪」はどうして定着したのか?


 ‥それは「雨」では物足りなかったからである
 ‥じゃ、平成人なら「花豪雨」とでも盛ってみろと
 ‥そう考えると、「雪」はすぐには濡れないからな

 「吹雪」なら尚更に、湿っぽくない意味がこめられていると(ということになりそうでーす)


 ‥じゃ、干ばつ絡みのイナゴの大量発生なんかは?
 「嵐」だろうね、イナゴ荒らしに引っかけて、イナゴ嵐

 なら、「猿嵐」「猪の嵐」「鹿嵐」「熊嵐」‥なんて表現も有りかもな

 (確かに、畑の獣害は、台風のあとと変わらねぇからな)
 (にしても、誰もそんな風には表現しちゃいねぇ、な〜ぜ〜)
 (花の雨なんて盛ってる段階で、江戸文化より確実に言語感の格が下がると言うことでーす)

 (にしても‥○○嵐って、今やマンガの技名ぽいかもな)
 (そういう言語感覚に成っちまっていると言うことです)


> ハチ公前に待ち合わせて、友が来るのを待っていると
> 向こうが顔を現す度に笑みが込み上げてくるのは、きっとハチ公の気持ちが宿るからだろう
> 無論、その都度なみだに浸るほどの日常ではないけれど、浪漫を感じないと言うことは無い
> (でも、敢えてハチ公の気持ちで表現するなら、会いたい人に会えた花浪漫なのだろうよ)





|場所取りの荷物をずっと待たせてる       静岡市・小鹿川柳同好会(来てこ)(5-20)

|花むしろ荷物を下ろす隙間なし ここも押し寄す角の他人様


 *押し寄す角の他人様(おしよすかどのたにんさま)
 *花莚(はなむしろ)‥ここでは、@ともAとも
  @花筏と同じく、地面に散りたまった花びらの様をムシロに見立てた呼称。(春)
  A花見をするのに用いられるムシロ。またその人だかり。(春)
  B商品名らしく花柄のムシロ。(俳句では考慮していないと思う)


 ‥ネタは、詩にすらなっていない気もするが
 言わんとしている気持ちに同感はあるので、見えてこないということでもない。
 詩情はあるかもなとした空気だけが漂っているのが落ち着きませんで、リスペクトしました。


> やれやれ、ここも満員だよ、隙間なんてありゃしねぇ
> 花見しながらの弁当なんてあきらめてもう帰るしかねぇな
> どうにもこうなっては、人ってのは
> 押し寄せるほどに、角が立たんばかりの他人様になるってもんさな
> (俺にしたって、そうなるだろうの自信だけは揺るがないと思う)



1-6)4

|ゆるやかな流れにまかせ花筏          静岡市・はいくぴあエイト(5-20)

|ゆるやかな流れにまかせ花筏 こころゆくまで眺め見る折


 *折(おり)‥B季節。時季。C機会。その際。D幾度もくりかえすこと。


 ‥ネタの詠み方は、どう見ても短歌の上の句です。
 なかなかの風情ある余韻に、添うように引っぱってみました。


> 花筏が流れている光景を目にしていると
> なんとも春の終わるのが名残惜しい
> されど、それがまた花の切なき趣を際立たせている
> 「雅じゃのう‥」(もう暫く、こころゆくまでこの今を味わうとしよう)



|市中など流れまかせの花筏 増税ドヤ顔財務省
|ルーティンや定時まかせの花筏 賞与欲しさは鑑なり
|残業は空気まかせと花筏 勤労奉仕も棚卸し
|減税はダメとキッパリ花筏 権利の行使の無駄遣い




|裏を見せ表を見せて散る桜           静岡市・はいくぴあエイト(5-20)

|裏を見せ表を見せて散る花の生死を背負へ青葉噴くらむ


 ‥こちらもまた短歌の上の句の塩梅です。


> 人生という奴は、裏も表も見せきらないとなかなか前に進まないものだ
> それだけに、生死を賭けた戦とも成ると
> その屍の数だけの命と家族の果てを背負わざるして、許されるわけが無い
> ‥斯様にも思いを重ねて、花の散ったあとの青葉の吹く勢いを思うと
> 上座に胡坐を掻いてなんざ居られないのだよ
> (どうして人生って、こうも回りくどいことに目が向くようにできているのだろう)



1-6)5

|駿河湾フェリー欠航夏隣            静岡市・はいくぴあエイト(5-20)

|駿河湾フェリー欠航夏隣 波浪の高く鯉が吹く


 ‥ネタは、面白いところに着目が向いています

 鯉のぼりが、なぜ吹くのかというと風が強いからです。
 それは海上も同じことで、だから、その時節はフェリーも欠航しやすいと‥


 *「夏隣」ですので、時節はまだ黒南風でも台風でもありません。


 ‥考えてみれば、当然なのに
 当然の所をうまい具合に整えてきているわけですが
 普段の思考の外にあるだけに、なかなか、イケてるように思います。




|薫風に吹かれ岬の夕日待つ           静岡市・青葉句会(5-20)

|薫風や出で立つ岬に俺一人 うみねこよぎる潮騒と在り


 ‥ネタは、「薫風」の余韻に勘違いがあるように思います

 「薫風」の旅情は、昼間だと思います。
 「夕日待つ」ですから、その点では、まだ夕方かどうかも確定していない趣ですが
 ‥でもそれって、一日中、岬で風に吹かれているって次第にも見えてくるわけです。


> そのシチュエーションが、どうにもピンボケで、詩情としてはうんざりっすよね
> どうしたって、「薫風」とはなんの脈絡も無い次第に、熱が入っちまっているわけでーす


 だって、すでに薫風はもういいから、夕日が見てぇって言っちまってるんだからさぁ
 主役はすでに夕日なわけよ。随分と失礼な扱いだよね。

 「まずは、薫風に謝ってください!」

 ‥やはりここは
 「薫風に誘われて岬にまでやってきました」の趣に思います。



1-6)6

琴線に触れた寡黙の糸が切れ          静岡市・小鹿川柳同好会(来てこ)(5-20)

逆鱗に触れて寡黙の糸ぞ切れ 契約切られるに待ったなし


 ‥ネタには、恥ずかしい誤りがあります
 「琴線に触れる」それは大いに同意できるの意味合いです。

 ‥その勢いで、「寡黙の糸が切れる」
 あなたが言いたいのは、それを言うなら「逆鱗に触れる」だと思います。

 ‥それとも感動の余りに
 無口が達者にも大騒ぎを始めたとでも言いたいのでしょうか??


> 何言ってんスかっ?


 寡黙な性格の持ち主は、歓ぶよりも怒る方に勢いを見せるモノでーす。
 ‥逆に、納得できていると、それこそムッツリで静かなモノでーす。

 だから、性格の馬が合わないと、そのさま自体が苦痛だったりするわけでーす。
 (日本の男子社会には、チラホラしてるパターンでーす)
 (イジメのよすがだったりとするわけでーす)


> ‥人生20年
> 寡黙に生きてた奴と、饒舌に生きてた奴と、その辺ですでに空気が違います。


 ‥その空気の差は尋常ではありません
 まぁだからこそイジメのよすがだったりするわけですが

 ‥それらが一体どのような効果をもたらしているのかは、誰にもわかりません。

 まぁトラウマにしか成らないのが相場でして
 お互いの性格にケチを付けても始まらないのが人生でもあります。
 ゆえに寡黙にも成るわけですが、寡黙のままを貫けば良いというものでもありません。

 ‥でもまぁ腹立たしさをそのままに吐き出し合っても
 碌な事にならないのはお互い様ですからね、そこらはハッキリと自覚すべきかと。




|その怒り一晩寝かそあすは晴れ         静岡市・小鹿川柳同好会(来てこ)(5-20)


 ‥ネタの意見も一理ありますが
 それが必ずしも生活の知恵として機能してきたかという疑問点も募るのです。


|その怒り一晩寝かし晴れを待つ 本質避けるも和の心
|その無口削ってしまえ癪だから 空気が重いぜ和の心
|その懇願なだめすかして骨を抜け 先送り見せるも和の心
|その脅し千代に寝かしつ斜陽待て 粘り勝つにも和の心



> うた詠み終わります、ありがとうございました。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 03:56 | Comment(0) | 名句にポン/2017前半 | 更新情報をチェックする
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