2017年07月26日

【詩】人格ときめえ

向宜詠吟.2017/07/26

感情が無い若しくは薄いと云うことで
忌み嫌われるのが人の世だ

また

多重人格への理解に乏しいがゆえに
同じように扱われているのも人格云々への問いである

しかし

心が豊かということへの憧れと共に
実はそれこそが正体不明にも係わらず
安易に敬愛されてしまっている不可解且つ不公平な状況もない


これの辻褄を考えるにこうまとめることが出来よう


より多くの他者を理解するには、ある程度の経験値が必要だ
それは、無関心だった意識が、より多くの心を知ろうとして原野を彷徨うようなものだ
その結果、明らかに以前とは異なる雰囲気をまとうことになる

(誰しもにある経験だろう)
(今やAIにしてみてもそれが常識だ)

そこに、新たな見方を獲得するにせよ
云うならばそれは、心に年輪が刻まれるようなもので
姿は同じにせよ中身はまったくの別である

つまり別人だ、多重人格としての自己を獲得していくのである

心が豊かとは、心に刻まれた年輪の多さと云うことであり
他者の感情の多くを、それのパターンへの失敗を知り
それとは違う選択を試み、妥当を積み上げた結果と云うことになる‥


そしてそれは、それがゆえに時には無情にも見えるだろう


(どう反応して善いかわからない)
(そんなのはしょっちゅうにあるも、徹底の仕方が異なってくるのだ)
(無論、そこの徹底の仕方は誰も同じではない)

他者に見る失敗にしても、目指さんとした目的が違えば
刻まれるだろう自己の獲得も随分と変わってくる

心が豐かを互いに尊重しようとも、それぞれに豊かとしている気色は
自分に近いか否か、次の人格を得るに適っているか否かにしかない

また

それぞれ成長のパターンも異なる
さらには、進展を見せずの人格と格闘している様もある
一様に同じで無いのだ

それでも

感情が無いという言い方がピタリとするパターンがある
それこそが、無礼をわきまえず、自分を差し置いて
他人との隔たりを思い込ませて、ランク付けしたがる人格の主張だよ

「甚だ実にきめえ」

ランク付けとは、まさしく今時のAIのプログラムさながらだ
順位付けでしか計算(比較分岐)していないのだからな‥

人として健全に対処することへの配慮無きポンコツだ

すこやかに育て上げるとした人格に触れずに来た「哀れ」をそこに見るばかりだろう
「椅子取りゲーム」×「敗者復活不能」の社会を見ての変容とした人格を刻んだ姿なのだろう

心サンドバック漬けの言葉しか知らないというのも

「甚だ実にきめえ(遺憾である)」




> うた詠み終わります、ありがとうございました。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 11:21 | Comment(0) | 哲学/一般 | 更新情報をチェックする
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