2017年07月27日

【弥勒論】01 資本主義の偽りと原点(第一章01-07)

向宜弁論.2017/07/27

 ‥もう一度言いますよ
 お金の問題には、すべからく話し合い(お互いの思惑)が絡んで来たのです
 お互いに出し抜く為にも、だんまりにも非公開情報が絡んで来たのです
 その秘せられた内容を知る者に有利だったのが資本の格差でもあったのです

 その原点こそが、出し抜く為の取り決めだったんですから
 ぶっちゃけ、産業革命を境に、誰が支配権を手にできるのかとした追い込みが始まったのです


|お金という道具があるのではない、取り交わされた誓約があったのだ


 ‥人類史上、最も不思議なのは
 気がつけば、お金が発明されて、お金の貸し借りが正義として崇められてきたことだ
 ヒトは其を拝金主義と揶揄するが、まさに、カネこそがすべてとして取り憑かれるのだ

 ‥神は信用ならずとも、カネなら信用できると‥

 その神にしても、私たちは、お金の起原同様に忘れ去っている
 すべてが真っ新のまま手さぐりだ
 それゆえ、潜在的にはこう理解しているはずだ

 ‥お金という道具を発明したのも、また神である‥

 しかし、その前提には、鋳造技術という高度な文明が必要である
 神が発明したのはお金だけだったろうか?
 否、それだけの鋳造技術を以てすれば、鉄器の創出も難しくなかっただろう
 ならば、目に見える価値を生み出すのだ、それを守る術も合わせて考えもしただろう


> 労働の対価としてのカネは、いつの間にか、奪ったあとの分け前に変わった


 蓋を開けてみれば、それが人類の程度だった
 金や銀の希少性が、その意味を誰にもわかりやすい形で正当化していた
 それはまた、防衛の正当化を余儀なくした

 お金の歴史は、戦争ビジネスの歴史でもあるのだ

 一方で、金や銀を運ぶのは手間だった
 そこで発明されたのが、為替だった
 (契約書の受け渡しとサインがお金の役割を担うのだ)

 実のお金(金銀&商品)がどこにあろうと、動かさずとも取引が為されるのである
 その為替(契約書)のなれの果てが、今や紙幣であり株式であり国債にある


> さて、本当のお金はどこにあるだろうか?


 私たちが思い込んでいる日常となった通貨とは、それこそ只の紙切れ(不換紙幣)である

 「紙は信用ならずとも金(きん)なら信用できると‥」(兌換取引)

 元々、コインの鋳造は王様や大司教の権限だった
 それが伏せられて今も連綿と続いているという
 伏せられていると言うだけあって、代理人には高給が支払われている

 否、正確には、発行したあとのお金の使い道の権限だ

 その代理人が、真っ先に投資すべき先が防衛(恐喝)であり
 その次が、同盟国を傘下に縛り付けておく為の根回しにあるのは、問うまでもない

 ‥主と代理人が、如何に善人だろうと、仕組みはどうしたって真っ黒なのだ
 それはそのままに、人類の程度だった



> 修弁させていただきました、ありがとうございました。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 21:19 | Comment(0) | 弥勒論 | 更新情報をチェックする
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