2017年10月10日

【哲学】三大モノの捉え方

向宜弁論.2017/10/10

> モノの見方は、大きく三つに分類できるように思います


 @、科学的な見解
 A、数学的な見解
 B、文学的な見解

 ‥では、一つずつ見ていきましょう


 @、科学的な見解

 宇宙は一つの法則で表現でき、すべては決定づけられた定めにある
 (宗教で言えば、一神教に鏡似性を見いだせるような位置づけです)

 ※ ‥一度ことが定まると
 一見、修正は不能として、ある意味‥万能とは言い難い矛盾性を抱え込みます‥
 矛盾性を修復できるのが知性的且つ科学的視野なら、科学的な見解として
 始めから統一則なんて無い!‥ゆえに、修正性をも含めた創造性こそが統一則

 (仮説:宇宙には一定の理想バランスに戻ろうとして作用を発動させる思惟らしきが伴う)


 A、数学的な見解

 すべては宇宙を構成する要素にすぎず、私たちのできる事は部類分けによる使い勝手の是非だけ
 どのような事象であろうと、0を抜きに語る事は不可能
 0から逃れようなどと言語道断、ならば、無限大に然したる意味もまたない
 (宗教で言えば、多神教に鏡似性を見いだせる位置づけです)


 B、文学的な見解

 所謂、命の見解
 生きているからこその文学観(私なる存在性としての視野そのもの)
 ここにおいて相対の意味合いが生じ、自他の議論の類推が始まる
 (宗教で言えば、善悪観に鏡似性を見いだせる位置づけです)


> まぁ、簡単な部類分けですが、どうしてこうなっているのかに疑問符が点るわけです


 ‥寛容さを身につけようと思ったら、数学的見解をしてみれば好い

 苦しみの根拠を@に見いだすか、Bに見いだすかの違いでも随分と人生観が変わるでしょう
 何事も限定されておらず、自由に認識できる‥それこそがAということですが
 Bの思考が成り立っていないとAにおいての部類分けもピンボケしたものにしか成り得ません


 ‥自分が納得したいだけにせよ
 まずは、自分なりの文学観(人生観)を培うべきです
 それはつまり、味わってみない事には、憶測に伴う誤差があると言う事です

 誤差があっても全体としては、大差ないと、割り切れるなら、とくに文学観なんぞ不用です

 それこそ、誰かの理屈で以て、自己満足すれば良いだけです
 とくに重い肉体を背負ってまで、返答への旅路の風に吹かれる意味もありません


> ‥ただし、そのような魂の入って無さそうな思惟に
> 魂のギッチギチ観を求めようとしても釣り合わないということです


 逆から問えば

 魂のギッチギチ観に同調したければ、それだけの誤差を埋める辛酸たる体験も訪れるのでしょう
 その体験が、現実的であろうと文学的であろうと
 そこにこそ私という旅が在ると言う事です

 私という旅が永遠に終わりそうもないというのに
 私という存在への問いに答えなど有り様が無いのが普通です

 そこに答えを求める日々があるとすれば、それは、隣人の永遠をないがしろにしてきた
 不敬な己が、退屈とばかりにアクビをしているという事なのでしょう‥(もとい後悔か反省か反芻か)


 ‥Bにおいて、私や相手の中に、分類を求めし始める傾向という奴は
 無意識的に@の仮説が作用するからと言うことでしょうか??



> 修弁させていただきました、ありがとうございました。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 14:16 | Comment(0) | 哲学/一般 | 更新情報をチェックする
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