2017年10月21日

【考察】{自由の増大}≠{幸福の増大}

記稿.2017/10/21

> 新しいモノを追いかける姿こそ、今在る形に満足が無い証明だ


 つまり、新しいモノ症候群の有り様には幸福感が乏しいか、無いと言うことになる
 結果、収集することに依存することになる

 「では、人類の歴史に満足はあったのだろうか?」
 「人は、いつから収集することに心囚われるようになったのだろうか?」


 ‥ヒントはRPGにある

 日本人の感性からすると
 RPGの世界観≒西洋中世≒欧米社会との思い込みがあると思うが、実はそうでは無い
 欧米人だろうと、RPGの世界観≠中世世界≠現代社会とした感覚がある
 だからこそ、西洋人でもRPGの世界観もとい中世世界に懐かしさを覚えるのだ

 で、物好きにも

 エコロジーの感触にも誘われて、当時の技術に興味を抱いたりする
 そこには、満足とは違うにしろ、懐かしさがあり、タイムスリップしてみたい欲求に満ちている

 「では、人はどうして今在る時間にとどまって暮らそうとしないのだろうか?」

 どうせ生活スタイルを未来的に先に進めても、大した満足感なんて得られやしないのだ
 むしろ足踏みしても好いはずだ
 ‥どうせ後からノスタルジーに誘われるのだ‥急ぐ必要もあるまい


> なぜ、それが成り立たないのだろうか?


 ‥それこそが金融のカラクリである
 誰かがコマを進めようとして借金をするからだ
 誰かがその目新しさを手に入れたくなって借金をする
 それの連鎖が始まると常に新しいモノを追い求めて消費に火を付けていないと居られないのだ
 借入からの信用創造が続いていかないと途端に世間の金回りが悪くなるからだ


> そのもっとも罪深いのが国債である


 ‥その証拠に
 人類史の幸福度は、フランス革命を境に右肩下がりだ
 そこからの戦争の歴史は、キチガイそのものだった
 暴走気味だったチンギス汗の徒党でさえ吃驚だろうよ

 国債の都合こそが、戦費の歴史だった
 戦争輸出の元凶だった

 故郷から追いやられて、幸福感が増幅する人間なんて居るわけがない
 「どれだけ生まれ変わって聖書を読み返せば気がつくのだろうか?」


 ‥それを現代人は
 我が身の自由欲しさに、喜び勇んで故郷を後に、希望を燃やすのだ

 一時の悦が、民族性の壁というどうしようも無さの前に、たちまちにして失墜するというのに
 頭で薄々と分かっていても、自分だけは特別だと思い込み、多くの他者に対して無関心のままだ


> その程度の悦(皮算用)で成功する訳が無い


 ‥お互い様の軋轢を考えれば
 そこに望むべきは、自由では無い、共生だ
 自ら進んで余所の土地に出向くんだから、そりゃ強制を強いられても致し方あるまい
 そこで突きつけられる理不尽は、そもそもにして、自分で背負ってきた因果だよ

 そもそもにして

 自由を分けあうことは不可能だ、分け与えることが可能なのは公平だけだよ
 何も持たずに来た者に、公平などとおこがましいだけだろう(むしろ恥だ)

 ‥自由を求めた段階で、そこは戦場でしかない‥
 (それが資本構造社会の辻褄ということだよ)


> 自由を焚きつけ合う社会は、本当に馬鹿げている
> そこには、自由が無いことへの無自覚しかないのだからな
> ‥もとい、公平か‥
posted by 木田舎滝ゆる里 at 01:37 | Comment(0) | 日記/2017 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。