2019年01月01日

【詩】ああ、旗印

↓1)向宜詠吟.2019/01/01

人として人らしく生きるには目標が必要だ。
だが究極的に、目標なんざ有って無いようなモノだ。
それでも、旗印を掲げて生きられる者は無敵だ。

ところが、どうしたことか‥多くの者はそのような生き方が下手だ‥

そこで多くは拠り所を探して生きることになる。
旗印を掲げて生きられる者を頼るのだ。

ところが、どうしたことか‥旗印を掲げて生きる者の中には、人が集まってくることでブレる者らも多い‥

その煽りを受けるのは当然「拠り所」を頼った者らとなる。
その者らの次に求めるのが「救い」と言うことになる。


そして人々の願いは盲目的に「正義」を唱えることになる。


本来、宇宙に生きるにおいて、善も悪もない。
正義を求めるように変わったそもそもは、目標を自由に保てない弱さからの要求に過ぎない。

正義を唱える裏には、自由の制限を求めた(積み重ねた)も‥同然の因果があった。

しかし、自分らで自分らの制限を望んだも同然にあれば、それにも又、善も悪もないだろう。
ところが、搾取される事への暗闇だけは御免被りたいと思っている。
だったら、自ら目標を掲げて生きれば善い、それを積み重ねることだ。

さすれば、正義もクソも必要ない。

自らを拠り所にできるとした公平だけが最優先されるべきに気が付くだろう。



1-1)1

さて、今度はブレちゃった旗印の側を見てみよう。

「彼らに目標はあるだろうか?」

ブレたにせよブレたなりの目標はあるだろう。
そこに集うのだから、お互いの目標を裏切らない上での謝意も大きいはずだ。
でなければ、ブレない結束力は生じ得ない‥もとい「ブレない絶対搾取体制」である‥

「そんな彼ら以上の謝意&結束を、搾取される側は持ち得ているだろうか?」
「そんな糞な謝意に優るに値する自分なりの目標・方針を掲げる気持ちを持ち得ているだろうか?」

答えは残念ながら「NO」だ。

NOだからこその多くとのイコールが絶対搾取体制という悲劇でもある。
もとい、搾取する側からしてみれば喜劇だろう。

そんな喜劇の世界では、不思議と「正義とは何か?」を議論することに余念がない。

そんな喜劇の世界での正義とは体制を維持することだ。
如何なる体制であれ、体制の維持は目標とされるだろう。
そこに正義も悪もない、誰もが考える基本思考に正義も悪もないのだ。
あるとすれば、自らの意志で旗印を掲げもせずに、唯々鵜呑みにも、周りの価値観に呑まれることだ。
ところが、其を悪とは誰も表現しない。

その代わりに用いられる言葉こそ「依存」である。


‥しかしながら、所詮はイコールの関係だ。
ブレた旗印の側にしても、「依存」が蔓延り出す。
其を「腐敗」と表現している。


私たち人類は、本能でそのような感性を肌で理解できても、なぜか、自らの掲げる旗印を大事にし得ない。
自らのそれを大切にできないという脆弱性に満ちている。

‥それこそが貨幣経済以来の人類のエゴと言うことなのだろう‥

‥そのような心理作用する現実のままで良いわけが無い‥



> うた詠み終わります、ありがとうございました。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 02:36 | Comment(0) | 科特隊どころか無理だからウルトラ経済大作戦 | 更新情報をチェックする
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