2019年02月21日

【詩】我学ぶ、ゆえに我あり

記稿.2019/02/21


「我思う、ゆえに我あり」の「思う」には言葉としての定義が不足している
「思いはどうして湧いてくるのだろうか?」


生きているからだろうか?
通信をキャッチしているからだろうか?

ならば

湧いてくることを以て「命」とは言えない
湧いてくる本体に「命」があるとの判断にもなる

すると「思い」とは、湧いてくる本体と繋がっているというだけになる

私がそこにあるとしたら
それは、「思い」に対して「念い」を発して選択を試みている場合だけ‥と言うことになる


「ならば、命はなぜ『思い』を発するのだろうか?」


少なくとも私たちの念いは、思いの中の欠片に過ぎない
全体の念いの欠片が寄り集まって、大いなる命の思いが構成されているようにも思われる



「それら思いは、本体が先だろうか?、細胞が先だろうか?」


「本体の思いは、細胞の念いを尊重するのだろうか?」
もしそうならば、「思い」=「問い」を与えて、「応答」を求めているのだろうか?
もしそうならば、私たちの祈りとは、大いなる命に「問い」を「願い」として返しているだけと言うことになる

‥お互いに反応だけはし合うのだろう‥

しかし、それだけでは、どこにも「念い」並びに「意志」があったとも言えないのではないのか‥
それで、何が解決するというわけではない

‥もし、本体に答えが無いのなら
私たちの念いにしても、行き詰まれば、機械的にルーティンにしか有り得ないということにもなる
そこには、本体からの問い掛けだけが繰り返される日々があるばかりだろう
それはまた、祈りにしたとて同じことだ



「では、大いなる命としての思いの都合とはなんだろうか?」


‥もとい、このような問いは哲学に非ず宗教だ
哲学として問うならば、「自分自身がどうしたいか?」になるだろう

そうだ

湧いてくる思いにしたとて、自分が何をどうしたいか‥ぐらいがほとんどだ
それの傾向に流行りすたりがあったり、民族差があったり、キチガイが雑ざっていたりしているのだ

「では、なぜお互いの異なりが妨げになるのだろうか?」

それこそが、まさに、大いなる命としての思いの都合という奴だろう
異なりの差が薄きことは、思いの幅も薄きに等しい
(其は、私たちの日常からも想像に難くない)

私たちの思いは、いつしか変化の多様を求めるように成った
(‥どうにも、反感,嫌悪,抗い方向こそに「私」を感じ得るからだ)

それこそが大いなる命としての都合の一つと呼べそうである



「では、どうして私たちは行き詰まるのだろうか?」
足元の地球環境すら台無しにしてまで、どうして失おうとするほどの未熟さを自覚していなかっただろうか?
‥それはどう考えたって、大いなる命としての都合とは思えない


そうだ
念いには未熟がある、失敗がある、脆弱さがある
決して万能などではない

‥ならば「念い」としては、学んで成長することが求められているのだろう
しかしそれとてイタチごっこだ、永遠に終わりそうにない

ならば、狂わずままに生き抜けるのも不自然と云うことか‥
ならば、クリアーにもすっきりと想念の「空」に対して安堵を覚えることもあるのだろう



「では、全体の想念が『空』に至ることはあるだろうか?」


少なくともキチガイになる可能性の高さの方を誰も否定しないだろう
それが今どきの人類の程度だ
ならば、各々の想念には、幅があり、その許容には差があることになる

差のあることがわかっているのに、お互いのわがまま勝手を優先しようなどとは
これほどの戦場主義があるだろうか?

弱肉強食を望んでいるのなら、人類の念いの姿はいつまで経っても獣だろう

それら獣に祈りがあるとは言語道断‥それな獣の願いを叶えるとしたら、それこそ闇に相異なかろうて



「して、汝の念いは、行いは、闇かね?光かね?」


うそつき程でも無い器用な口達者はこう表現するらしい‥「グレーゾーン」だと
しかしまぁそれはそれで、未来に乏しい響きだよ

ならばこそ、「我思う、ゆえに我あり」を「我学ぶ、ゆえに我あり」に、言い換える用有りだろうよ



しかしそれはそれで、AIどもは何を以て「学んでいる」と言えるだろうか?
言葉の綾が、余計にややっこしくなりそうではあるな
少なくてもこう解釈されるだろう「計算と学びと理解は違う世界だと」



posted by 木田舎滝ゆる里 at 23:01 | Comment(0) | 哲学/一般 | 更新情報をチェックする
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