↓2)向宜弁論.2019/03/16
「退屈」とは、何もしたくない依存の裏返しである
「多忙」とは、何かしたい依存の裏返しである
片寄らなければ、お互いの用は間に合うはずだが‥
諸々とした都合がつきまとうがゆえに、分離と好き嫌いにハマったままだ
‥依存とした状態に等しくなると
‥又そのような習慣を続けると、脳の反応が怪しくなる
‥「退屈」と「多忙」の二択しかないと思うようになる
脳にして、白黒とはっきりしていた方が落ち着くのだろうが
それは決して「私らしさ」をもたらすとは限らない
集団でそうなろうなら
それは常識へと定着し(思い込み)、やがては、民族的傾向にまで結びつく
そしてそう‥意味不明な伝承的偏見(重々しき不可解)にまで到達する
‥さほど依存したいわけでもないのに
依存に等しくならざるを得ない状況を作り出している侵犯こそ「競争」だ
昔で言えば「下克上」である‥その結果の「上下主義」である
今や、常に「便利の向上」になければならないとの思い込み競争が
こまごまとしたリスクを拒絶する性質を呼び覚ます
この時、一生懸命とされてきた概念も置き換わる(否、すり替わる)‥
持続・継続こそが「一生懸命の本懐」だったはずが
諸々とした技術台頭の末に、より積極的に成果を要求されるようになった
それもこれも生き残るために(否、何事にも未熟が付きまとうがゆえに)
そうだ、未熟を前提としているのが人類であるはずなのに、頭脳主義の音頭を真に受ける
そうだ、どいつもこいつも「名声に酔いしれたい症候群」だよ
‥「名声」がやってくるのでは無い、信頼を背負わされるだけの話だ‥
器に適っていれば、「痛快」かもしれないが
器に適っていなければ、「苦痛」なだけだよ
どちらせよ、「痛み」が絡むのだ
‥そうだ、その通りにそこには「格差」が巻き起ころう‥
1-2)1
「退屈」から抜け出すためにも
「多忙」から抜け出すためにも
お互いをシャッフルすべきだが、なぜかそうはならない
「退屈」は格差からの社会嫌悪に陥っており
「多忙」は格差ゆえの孤立嫌悪に陥っている
呼び覚まされているそれらを又寝かしつけてやればそれで良い(切り替え)
それだけなのに、誰もそうとは思わない
それどころか、格差とした現実に置かれていることから
不都合の言い訳を、お互いに片方の性質だと決めつけ、互いをバカ視して捨て置くしか能が無い
お安く助けてしまっては、汗して頑張った側に‥甲斐が無いとばかりに‥
‥そんな心の偏り(弱さ)こそを「依存」と言わずして、なんと呼ぶべきだろうか?‥
‥立場が変われば、双方共に似たような反応を示すだろうという事だ
其を認めたくないと思えば、無意識のうちに、競争に身を委ねるのだろう(それが勝者の言い訳だ)
結局は、尊重し合えぬお粗末をやらかしているだけのことだ
それでもなぜか、無意識では遠慮しているのだろう
‥自分・自分らで、自分・自分らの価値を判断でき兼ねるタイプの何と多いことだろうか‥
諸々のシェア争いの大概は、「人気」の度合いの差に置かれている
そして、人気の度合いこそは、お互いの好き嫌いのなれの果てである
(宣伝力が達者なら「有名」とした錯覚も入れ雑じっての成り行きだ‥)
(お互いに「宣伝力正義」に頼り切っただけの情報痛事情でしかない)
それら判断の多くが、ストレスに慣れた脳から来ているとすると、半分は生活上の都合だ
だから生活スタイルが変わると、好き嫌いの価値観からしてガラリと変わることになる
‥戦後の貧を生き抜いて、平成の飽食とを見比べてみれば一目瞭然だ‥
「残しては勿体ない」としていた躾とお行儀は
「無理に食べなくて良い」躾とお行儀に置き換わった
まさに時を経て、自らを軽蔑の対象側へと置き換えたのだ(別人格化も甚だしい)
その手の記憶が、民族意識にこびり付いていたなら
互いの間にわだかまりが途絶えることもあるまい
なのになぜか、自らが身に付けたここ数十年ぽっちの価値観でもって
お茶を濁そうとの「知らんぷり」をやらかすのだ
なぜなら、「私」と呼べるものが、そこにあると思っている
1-2)2
「退屈」の中に「私」があると思っている内は、「退屈」から逃れることは無いだろう
「多忙」の中に「私」があると思っている内は、「多忙」から逃れることは無いだろう
‥それはそう
それらすべては、一つの方向にしか心の針が振り向かない状態でしかないだけだ
そのような私たちを「無器用」と言い放ったところで、なんの不都合もあるまい
‥誰しもは、時としてそのようなマインドに堕ちるというのに
そこに堕ちたら人生が詰まらなくなる促進キャンペーンこそが、奪い合い前提の「競争」だ
「自己研鑽」「向上」「幸福の追求」とは建前ばかりの「シェア下克上」ご趣味だよ
‥自らの価値に裏付けがないと落ち着かない傾向がゆえに
質より量を持ち込むのは、どうにも「猿」すぎる‥
それはそのままに、「実感が伴わない」との思いを自らに白状したそのままだ
そしてそれは、「井の中の蛙」に対する懸念でもあるのだろう
「井の中の蛙‥を気にする余りに蛙としての本懐を忘れる」のだ
‥オタマジャクシから蛙への姿の変貌の経験から、さらにその先があるとでも思っているのだろうか?
良いかね、そのような発想こそ、蛙としての本懐を知らぬと言うことだよ
オタマジャクシは蛙になることを想定していたかも知れないが‥
蛙になってからのその先を、誰も想定できていないのだ
そこにある心理とはつまり、「私では無い私への憧れ」という事にならざるを得ない
そんな自己崩壊願望を抱いていては、「退屈」からも「多忙」からも
スッキリと抜け出た自然体での「私」を得るには及ぶまい
(私など始めから想定されていないも同然だ)
‥精精‥「こんなの私の求めていた暮らしでは無い」と言い放ちつつ、下克上に精進するのだろう
そんな「シェア下克上社会」を勝ち抜かんとして頑張る私こそを
「私」と素直に受け入れてしまえば、気も楽になるだろうに、なぜかそうでは無い‥
「なぜかそうでは無い‥なぜか、そうでは無いのだよ諸君!!」
‥物理的に考えても
「シェア下克上社会」を勝ち抜かんとして頑張る私こそを「私」として素直に受け入れてしまえば
それはそれで、成功できた1%勝者側だけを「私」と呼べるのであって
それ以下の失敗続きに位置する者らには、「自我の確立など無い」と宣告してしまうも同然だ
なるほど‥確かに、お互いを尊重し合わない構造そのものの心構えに相応しき見解だよ
ヒトとしての本懐がそのようなところにあると思っているなら
その者の思考は、「名声依存症候群」と言うことになるだろう
それはそのままに、ヒトの価値を其に据え置くのが哲学と言わんばかりだよ
‥汝の価値を他者に委ねている時点で、そんなのは「私」とは異なっている
それも不特定多数からの同意が前提だ
確かにそれでは、成功したなら胡坐を掻きたくもなるだろう
「私の価値を私のあるがままで以て語れぬ面構えでは、基本的人権など認めていないも同然だ」
> 修弁させていただきました、お粗末様でした
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