2019年04月06日

【炎上】人生における最大の才能とは何か?

↓2)記稿.2019/04/06

> 人生を考える上で‥もとい、人生でのハッピーを考える上で最もな才能とは何か?
> それは、ヒトと付き合う上でスマイルを如何に保てるかどうかに尽きるだろう


 ‥しかしどうか?
 誰とでも付き合うにも先ずは、それなりの成りと知恵巡りは欠かせない
 あまりにも掛け離れていては、向こうから遠ざかろう(それが現実だ)

 だから上手に付き合うにも、自分の立ち位置を掴めていないのでは、どうにもお話にならない


 ‥自らが好みでヒトや仕事を選ぶ限り、自らの進む世界の向こうからしてすべて同じである‥


 ‥相手から見て自分がどう見えるかを先読みできていないのでは
 自らを傷付けるままに落ち込むことになるのはしょっちゅうと言うことになろう

 わかっていれば対応の余地はあるものの、視界に無かったならそれこそ左様ならである

 対応しなかったことでの左様ならだったなら、さほどにしょげる意味は薄くなろう
 又、対応の仕方が覚束なかった事で多少の残念さが残ろうと‥予測できていたならそれ程でも無い


 ‥このどうしようもない好みの取捨は、お互いにやらかしている自然体での現象である
 自らがこれに反旗を起こして、公平になどと問うて見たところで
 誰も誰しもに沿うような公平の度合いなど知る由もない
 知っていたとしても、捻り甲斐の無い日常ともなれば、不愉快極まるばかりだろう
 それはスマイルを投じる上での無力を識るのと同然だ


> ‥それにしても、そこに絡んでくる違和感とは何だろうか?
> 誰とでも付き合える才能の本質には、どうしたって
> シロなら白、クロなら黒としての関わりに対して
> 相手を重んじつつ事を進められる才覚を意味しての根っこがある


 それは誰しもに、矛盾ゆえの人格を公平に要求することになるだろう
 そこには例外なく自分に対しても相手に対しても同様だ


 ‥簡単に言うとそれは「うそつき」としての才能だ‥


 ならば、私たちに競争を煽り、掴み取らせる夢を思い込ませている根っこには
 「うそつき上等」「うそつき賛歌」としての文化性がこっそりと地下茎を張り巡らすばかりだろう

 実際にも、表向きにはいい人の顔をしてその手の言葉を吐いても
 現実には、競争にて勝ち取った優位を手放す気などさらさらに無く
 勝ち取ったからには、最大限に死ぬまで有効活用したいと腹黒く思っている程度だろう

 (否、むしろ積極的に思い描いている方が自分に対しては素直と呼べそうだよ)



1-2)1

> そげな大衆は、勝利には「賞味期限」があることを自覚できていない


 ‥否、自覚しているからこそ手放したくないのだろう
 然れど、「消費期限」はやって来る
 それは、老いだったり、技術革新だったり、常識の変転だったりする‥

 最近では特に、うそつきであることに疲れたかのように炎上をやらかすパターンを多く見る

 なにもわざわざ炎上までやらかさなくても、引き際だと思えば退けば良い
 退く上での知恵が回らないのは、それが普段からの思考の欠如に他ならない
 優位を譲るとした思考を吟味していないから、炎上とした幕をやらかすことにもなる
 それが公平を不誠実に扱ってきた反作用と言うことだろう


> ならば進退におけるスマイルを保つにも公平視点は欠かせないと言うことになる


 公平がどこにあるのかを判断するにも、まずは自分と相手の違いを理解する好奇心が必要だ
 ‥されど大概の平凡は、思い込みにも、公平を表面的に思考する程度にしかない
 得手不得手を考慮したり、育ちの不利有利を考慮しようなどとは決して思わない
 それは勝敗を決める上での要素ぐらいの扱いにあるようだ
 だから公平などと、目の前にある数を均等に頭数で割る程度だととしか思っていない


> 公平を得るにも、まずはヒトそれぞれに
> 公平を引き寄せる才覚と遠ざける才覚があることを理解する必要がある


 ‥問題沙汰の起こらない世界には思考の欠如しか訪れない
 それはそれで大問題な社会構造と言えるだろう(無論その逆も然り)
 だから、程度公平を遠ざける才覚は歓迎されるべき要素でもある
 これはまた競争たるうま味を全否定しないのと同じことだ

 ところが、うま味を得ると手放したく無くなるのがヒトの愚かさでもある
 一方で、手放すことを愚かさとする解釈も多い(どうにもクズが多すぎる)

 だからこそ、うま味には消費期限が伴う‥次第を前提にルール作りを心掛ける必要がある



1-2)2

> では問おう、斯様なバランスを請け負った魁は、有史以来どこにあっただろうか?


 ‥統治は常に奪い合いだった
 民主主義にしてみたところで名ばかりで似たようなままだ
 万民に対して公平な生活保障を前提としないレベルではうま味前提のままに飼い殺し同然だ

 日本に奴隷制度は無かったと吠えてみたところで
 有した側と付き合えば、程度は交代するばかりだろう
 どこの国が、日本の良かったと憶えし時代を大衆のレベルまで取り込んでいるというのか?
 (あったとすれば、そこもまた島国の事情だったりだろうか‥)

 日本に置いてすら後退していると思うなら、外国において有り得るわけが無い

 それの判断を「自覚」というはずだが、欧米かぶれ資本かぶれも度過ぎた時代のせいもあり
 杜撰な競争路線を邁進するばっかりだ、もとい負債路線である


> ということで金融本位な時代なんだから
> 人生における最大の才能なんて、その手の人脈と上手くやらかせる腹黒さに尽きる


 ‥貸し付け条件:「才能」並びに「やる気」(駒としての素養)
 ‥カネは貸すけれど与えない(投資)
 ‥返せないなら従ってもらう(ポチ契約)

 というルールの利便性にベタ惚れな連中ばかりのどうしようもない時代だよ
 これはねぇ、黒船時代の不平等をそのままに踏襲したままの姿だよ
 成長していないのが丸わかりの世界ということでもある

 「公平性意識に疎いからこそ本当の自由性も又疎い」


 ‥貸した側の「失敗」を一致団結にも、貸りた側に丸投げのどうしようもなさ
 たったそれだけのことを学べない‥やらかしのままにある世界だよ



posted by 木田舎滝ゆる里 at 12:27 | Comment(0) | 科特隊どころか無理だからウルトラ経済大作戦 | 更新情報をチェックする
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