2019年05月12日

【哲学】宇宙法則に進化の余地があるなら、それは人類である

↓5)記稿.2019/05/12

> 「意識」を科学的にどう捉えるかは実に難しい
> そこでこう考えてみよう


 ‥宇宙のそもそもが「意識」と同時性にあるならば
 宇宙の物理法則からして、進化の余地を有する曖昧な定義の中に座している

 即ち、宇宙物理からして進化せざるを得ない影響を「意識」から受けざるを得ない

(それは進化などに無く、単に相互的な都合もとい釣り合いかも知れない)
(内在する能力を眠らせているだけにあるなら、宇宙の物理現象の一部も眠ったままだ)
(未発見だったとも呼べるが、進化したとも見なせよう)
(そのそもそもは、人類の程度に合わせての進捗だ)
(予測若しくは発見し得ても、その実際を安全に有効活用に至らないのなら同調はしていない)



 ‥人類を産みだしたのが、人類より高度な意識群の好奇、若しくは都合からと定義するならば
 人類の立場が、宇宙の大きさから見て「点粒」に見えるのは至極当然だ
 なぜなら、実験段階のそれに光明など早すぎる


> ゆえに、宇宙法則に進化の余地があるなら、それは人類である


(人類実験を担っている意識群が、宇宙の中でも変わり者であるだろう点は述べるまでも無い)
(もといパイオニアもとい革命家もといマッドサイエンティスト‥さて何だろうなぁ)


> ‥進化とは、常に最先端のちっぽけな変異によりもたらされる異変によるサクセスである
> 私たち人類が、宇宙を脅かす禍になるのも、宇宙の為になる薬になるのも‥私たち次第である


(もっとも‥実験側が匙を投げようなら未来も永遠もありはしない)
(お互いに意識である以上、実験側のモチベーションが私たち側次第に有する点も釣り合いである)
(人間が、実験者側以上に優秀すぎても、クズすぎても困っちゃうってことだから)



1-5)1

> さて、このような論を目にしたところで、ピンと来ない方々のために
> 原初的な頃の意識群が何を愉しみに暮らしていたかを想像してみよう


 ‥ポケモンバトルに見られるような
 出遭ってしまったからには、早速にちから比べをやらかしていたかなんてのはまず有り得ない

 それでも、馬が合う合わないを直感的に感じ取る程度の能力は有っただろう
 でないと「多」に分化する過程形成が怪しくなる
 むしろそれでは
 始めから「多」として大発生していたとする予想からして、ただの無法な争いが目的に陥る
 それはそれで淘汰しかもたらさない

 淘汰の先にヒトの登場などとは、どだい無理というか‥不可解すぎる

 生命の存在意義が「滅びが目的です」などとは、とてもじゃないが非科学的にしか見えてこない
 ‥それもかなり「おざなり」で「無力」な科学力と言うことになる
 ‥もとい「使えない政府」、もとい「使えない神」である


> ‥ならばこう考えよう
> 原初の意識群は、生きてることに対して前向きでよろこびに満ちていた
> ただし、物理的な抵抗が発生するように、意識にも同じように抵抗が発生していた
> それが「飽きる」とした反応である


 ‥それでも
 肉体も何も無く、お互いを単に「居る」とか「在る」とした感覚だけで認識し合うだけの
 文化色も何も無い世界で、何をどう愉しむのだろうか‥それの疑問は募ろう


 では、どのような気持ちを循環させていたのか?


・それは、在るとした感覚を漂うだけに満足だったりとか‥
・それとも、目に付いたエネルギーの形状を真似してみたい(衣更え願望)だったろうか‥
・それとも、隣り合うエネルギーを変えてみたい(席替え願望)だったろうか‥
・それとも、より集まってより弾ける現象にハッスルしていたとか‥


 ‥これらからなる行為を可能とするには
 お互いに、能力に関しては意外と自在だったことになり
 「飽き」と共に経過劣化した、好き嫌いから特化したとする想定になるだろう

 その後、寄り集まってそのままな集まりほど
 お互いに差を見出さずに、「私たち」として認識するようにもなった‥

(この辺りの可否を断定するには無理があるが、感じる程度の世界観とはそのように思われる)


 ‥兎にも角にも
 自己の好奇に引っ掛からない意識の扉は、自己の意識の中から遠ざかるのである

 遠ざけずにオールマイティーに嗜んでいた意識だけが、経過劣化を避けられていたかも知れない
(もしそうなら、残ったオールマイティー派の割合によっては、飽きの形質も違ってくることになる)



1-5)2

> ところで、飽きるも何も好き嫌いはどこから来たというのだろうか?
> 飽きないための次なるアイデアはどこから来たというのだろうか?


 ‥好き嫌いがあるからこそ、飽きないための方向性も様々と言える
 どこから来たというよりは、好き嫌いの扉の向こうに「飽きないための知恵」がある
 と言うような機能性若しくは発動性なのかも知れない

 それにしたとて

 全体的な行き詰まりの発生に対処するには、問題意識を共にする同士による結託が必要だ
(何はともあれ、今現在の人類のそれと、さほどに変わらない状況がつきまとう話だ)

(だがそれとて、一部の性急な先急ぎ野郎という面々でしかない)
(そもそも宇宙的には、安寧の確かさなんて気にしない意識野郎の方が多数派だろう)

(魔法の使えちゃうような宙域で、なんぞ先の心配をする必要があるだろうか?)

(でもまぁ、実験者存在らのお陰で、ヒトをやらかせる次第に至っていると言うことなのだろう)
(でも多くは失敗続きだとの話は、天上にしても地上にしても同じらしい)



1-5)3

> 実験者側の目的は、至って単純である
> アメーバー程度の意識を太陽レベルに引き上げることができれば
> 確実に、宇宙はアップグレードするだろう‥


 ‥その装置的な容器がヒトで有り、ヒトとしての文化ということだそうだ

 宇宙がアップグレードするとどうなるのか?
 宇宙をアップグレードさせてどうするのか?


 ‥あちらさんは、光を産みだすには闇が必要だと普通に話す
 そのままに離された思いを誘う話なわけだが、想定以上に難度は常に半端ないという
 ヒトの立場からしたって、「そりゃそうだ」としか思えないわけだから
 「神なんて居ない」と思う唯物論者が地上に溢れても、なんら不思議は無い

 そもそも

 実験側で、「神」を自称するなんてのは、成り行きも絡む話だろうけど
 決して自慢できる中身になんて無いのが本音だから、自慢するタイプは怪しい
 さらに、神のその又神について語らずに、根本神ばかりを口にして担ぐのは、責任転嫁とも言える

(どちらにしても、手に負えない部分は見捨てざるを得ないのが宇宙的都合としての分離らしい)

 ‥そう思えば、カルマがあるべきは実験側だろう‥と訝しくも思うわけだが
 実験者側の見方はとてもそんな風では無い
 むしろ、実験を最後までやり抜いて完遂させればすべて帳消しになるとした意気込みを感じる
 相当な自信家でもあるようだ

(人類の多くに、無駄に自信過剰な連中が多いのも、実験側の意欲のほとばしりのせいかもな)
(でも、どちらにしても地上では通用し得ない感性だろうよ)


> そうだ、地上では、斯様にも通用しないように意図的に仕込まれている


 ‥宇宙旅行で地球を訪れて、帰れなくなりました、能力が使えなくなりました
 「ほとほと絶望的な状況です」なんて話はよく有ったという


 ‥まさに絶望の淵に追いやって、それからどうするのか?
 というゲームを、積極的にやらかしていたサンプル収集時代もあったというほどだから
 造りだした遺伝子の反応テストには、兎に角余念がない

 (現代社会の闇にしたって、同じように扱う空気に変わりは無い)


> ‥そしてそこにあるべき答えなんて単純だ


・ 生きることを諦めなかったか?
・ 手を取り合ったか?
・ 仲間同士の間に在って、挫けなかったか?
・ 話し合ったか?、助け合ったか?、見捨てなかったか?、覚悟はあったか?

 こんなの‥マンガやアニメを手にすれば、その手の答えなんざ掘り放題である


 ‥それにしても原初的な頃の意識群の暮らし想像とは、随分と日常の空気が違いすぎる
 お花畑と戦場ぐらいの違いだろう

(大体、どっちにしたって飽きるだろう、普通に飽きるだろう)
(遊べるゲームが一本しか無いとダメでも複数あればOKとか、飽き方に無知すぎる)


 ‥飽きない奴の気が知れないわけだが、飽きちまった奴から、その先を妄想することになる
 飽きないという性質が、逆に発想力を遠ざけ、生活力を担保しているとも言えそうだ
 又そこに、男と女の根本的な差があるとも予想する

 ‥その先を知らないからこそ、飽きる必要も又無いとする見方も成り立つのだ
 それはそれで、早々に壊れないようにしてあると考えるべきである



1-5)4

> 実験側からして、随分と難度の高いことに挑戦しているという性質のそもそもからして
> 飽きないための工夫と目標に、人類との間に鏡似性がうかがえる


 ‥それは、私たちの暮らしが
 常にストレス&プレッシャーなり抑圧に見舞われているのと相似である

 宇宙に置いて「意識」であるとした自覚とは
 解らないことを知りうるための、無理を可能にしうるための飽くなき挑戦だ

 なんとも愚直な一般論こそが、これの向き合いこそが、私たち一人一人の可能性を引き出す


> ‥それにしても最後は、お付き合いのお話になるからな
> 人気ごっこの競争ごっこで折り合いを付けましょうとか・・
> 戦争すぎる論理を理解できないうちは無理ッwww


 ‥未来を得ようとして
 未来の可能性に対して、道場破りなことしか好まないままなら
 鎮まった形での未来は、どうしたってやって来ない
 その程度の世界は、どこでも「流血上等」なんだよ


 ゲームにアニメ、マンガにしたって、多くがその範疇だからね


 ‥平和を望むか、力を望むかの二択にしたって
 力が無ければ平和なんて無理と思っているから、力に偏ることになる

 でも、宇宙が念いの強さで成り立つ物理法則というのなら

 平和を望む念いの強さこそが、「最強」を引き寄せるよすがたり得ることになる
 「平和を守りたい念いの強さ」以外に、正義なんて定義のしようが無いからな

 一般に其を「正道」と言い、そうに無き念いを覇道・邪道と表現している
 これは既に人類の総意だから覆しようがない‥(其は実験側の本懐でもあるはずだ)



1-5)5

> さて、アメーバー程度の意識を太陽サイズに仕立てるとは、一体どういうことだろうか?


 ‥私たち一人一人が、そんなにもパワフルになることに意味はあるだろうか?
 真に受けて考えれば、ドラゴンボールの孫悟空でも想像することになるだろうか?

 しかし、あれはあれでお荷物でもある
 何はともあれ、自らの力に釣り合った「負」を引き寄せてなんぼの物語構成なんだからな
 どう考えたって、そういう事ではないと思う

 そこで、ふと思った

 皆の考えが村社会並に隔たりが無いのに、それぞれの好奇心を発揮しても調和している状態
 そんな太陽大の方向での解釈である

 地球ほどの人口密度は、宇宙規模で見たって、相当のスケールである

 そこに狙いがあると思ってまず間違いないだろう


(といっても、宇宙全史に語られる集合魂の話を鑑みるに一体感よりは俺俺観の方が圧倒的だろう)
(とてもじゃないけど、まだまだ先の遠い未来の話にしか思えない)
(それ以前の話として、地上は覇権争いの戦争状態だ‥もとい侵略されちゃってる話だそうだ‥)
(なのに、侵略しに来てる奴らもひっくるめて、其をいざなってんだから、抜群の夢想家連中だよ)



posted by 木田舎滝ゆる里 at 00:23 | Comment(0) | 哲学/一般 | 更新情報をチェックする
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