2019年06月25日

【宇宙な?】人間の雛型が鳥である件の狙い

↓4)記稿.2019/06/25

> 実験側が人間を創造するに辺り
> 当時に存在するようになった「鳥」をベースにしたという
> まずは、鳥の性質が人間に一番に発露しているもっともな特徴を挙げてみよう


 ‥そりゃ誰が何と云おうと、「刷り込み」だろう

 「始めに見た者を親と思い込む‥」だったかな
 思い込むのが鳥の雛の特徴として見られる

 ‥これは一般に、雛に対してそう考えられているようだが
 辻褄として、「親の方も刷り込む」ように思われる

 (とはいえ、数の正確さ程までは無いらしい)

 そうでなければ、托卵のようなプロセスが成功する率はもっと下がるはずだ


> なぜ、鳥類が卵を産み育てるのかは、それが、鳥類が獲得し得た特徴だからだろう
> 「子育て」と「刷り込み」は、鳥類タイプが子育てをする都合上のセットに思われる


 (まぁそのように仮説が立つと思う)

 ‥これが人間の場合
 どうにもパターンなぐらい‥小さい頃の記憶ほど上位になる構造なのだろう
 無論そこには個人差が大きく、何をトラウマほどに刻み込むかは人により様々だ
 ‥でも、そうすることで
 「利」や「知」に偏ること無く、「情」を重んじる遺伝子構造を呈するのだろう
 「もろさ」なり「動機付け」として機能するのだろう

 人間を創造するに辺り、特に避けられたのが「種の単一化」である点を鑑みれば
 なかなかどうして、面白い狙いである


‥中でもそれの一番は、誰がなんと云おうと「ふるさと感情」だろう‥


 又、刷り込みの効果は、人に多様性ある思い込み(執着、愛着、偏見)を発露させている
 時には、他の遺伝子との兼ね合いから種族的な固定概念を誘発し
 そこからの脱皮をしなければ、ステップアップできない文明上の澱を形成する

 文明の澱(心の澱)と言っても、善でも悪でもない

 自我、民族性、文化色を形成する上でのかりそめの器だ
 そこからの、感情エネルギー(モチベーション)の誘発が狙いだろう



1-4)1

> ‥自分側の都合に沿わせたい欲求を如何に制御して
> 物事の流れに冷静に対処できるかは、プログラムでは無い「意志」である
> そこに求められているのは、兎にも角にも、感情の制御に思われている‥


 ‥ロボットに感情を与えるにはどうしたら良いかを
 私たちは、お互いの思考の影響から問うわけだが
 それにしたって、今度はわざわざそれの制御を検討せざるを得ない

 ‥「感情の自由」を与えようとしておきながら
 今度は自分たちに害が及ばないようにと、暴走しないようにと
 セキュリティを施そうとするのは、どうにも矛盾しているというか常に多重計算だ


> この矛盾に対して、ヒトがどうなっているのかを問うに
> そこが「刷り込み」であり、「克服」と言うことになっている
> 刷り込みのままによる限界を思い知り、結果、克服しなければならない過程において
> 自ら自身を制御することを学ぶのだ


 ‥それを仮に、プログラムになぞらえるなら
 自らの好き嫌いのパラーメーターの変化に即した選択&経過を蓄積し
 それらを多角的に観察することに始まるような感じだろうか‥

 それの効率を考えると、個々でバラバラよりは、統合して解析し得ないとお話にならない
 又それらを後から自由に参照できないのでは意味が無い

 ヒトにおいてそれに相当する機構を「集合意識」と呼ぶが
 集合意識にアクセスできるかどうかのパスワードこそ「公平」だろう


 ‥そうに無き場合の観察は、どうにも諍いに勝つとした方向性となり
 淘汰を臭わせる部類分けになる‥(もといプライドを賭けたなんとかだ)

 ‥私たちの日常でいえば、好き嫌いが邪魔になる時もある、逆の場合もある
 ‥でもだからと言って、好き嫌いの切り替えは人格の切り替えに等しく、心への負荷が大きい

 そのような心への負担は
 競争という過酷な条件に在れば在るほど
 プライドが高ければ高いほど、裏技を求める傾向を誘発し、インチキ勝利をやらかす程になる
 勿論それは甘えであり、自らに制御を放棄して他者に制御を強いている


 {プライドの重視}
 ={心の弱さ}
 ={適応性の低さ}
 ={感情の希薄さ、苦手の捨て置き、面倒の無視}
 ={多様性の否定、好奇心のHENTAI性}
 ={インチキ常套} ということである


> つまり、「集合意識」と一口で括ろうとも
> 私たちの側が一つに無ければ、派閥を形成して扉が別々にあると見ておくべきだろう
> 其を単純に、「善」と「悪」に表現してきたのが実際に思われる


 偏ったデータの集積と解析を繰り返しても、本質は見えないままだ
 意志を持たせるとは、なかなかどうして、暗黒面から見てこないとダメとでも言うのだろうか‥

 (まぁそれこそ無駄な多重計算にしか思えない)

 ‥そこの無駄な部分の負荷をどう枝切りし補完するかは「意志」の謎である
 ‥でもまぁ単純に「公平」こそは補完を促し、矛盾を浮き彫りにさせるだろう

 (しかし課題は残る)

 それは、私たち一人一人の「公平観」が適切に機能しているかどうかである
 そこにも「刷り込み」があるようなら、「克服」すべきはまずはそこからということだ


 (でもそれはそれで無理な話である‥始めに基準が不適当ではどうしようもない‥)
 (先生を選ぶにしたってピンキリだ‥私たちの教育からしてやっつけ含みである‥)


> だからこそ、自らの良心に宣言する必要がある


 あとは積み重ねるだけで回復を見せるだろう
 何をどう積み重ねるかはそれぞれだ、無理なく続ければ良い(たったそれだけだ)



1-4)2

> ヒトを競わせて淘汰させる意味とはなんだろうか?


 ‥まずそれでは
 個々のペースによる「克服」としたテーマに矛盾することになる

 何が自由にあるのかを問うなら、克服すべき選択とそれを克服するペースである
 (それ以外の自由など、お互いの暮らしの中にほぼ存在のしようが無い誤差の範囲だろう)


 ‥其の中身をいきなりに端折って、好き勝手できる自由を推せば
 お互いに突きつけ合う第一は「恐怖の克服」にしかならない

 それはそれで、不思議なことに
 いつの世も、常に恐怖で在るなんらかの備えが用意されてるが如しだろう
 そのような世界では、怯えることが第一の「刷り込み」だ

(そこに多様性の本質を期待しているとすれば、悪趣味なだけである)


> ‥だがしかし‥鳥族からしてみれば
> ヒトの登場は、今まさに自分たちの淘汰もとい都落ちを垣間見る恐怖だったろう


 鳥族の中でも、時の隆盛を気取っていたならば、まさに皇国の興廃この一戦にありと言うことだ
 それはそのままに、「郷愁感情」の爆発たる発動かもしれまい


 人間を劣化させたままに覚醒してもらいたくないあの手この手を送り込みたくもなるだろう


 (個々の差にも寄るが、プライド感情が強ければ強いほどそれは激しくなる)
 (そして一旦染まりだした暗黒面からの脱皮ほど容易ならざる宿業も無い)


 ‥自分たちのアイデンティティーを越えられて、否定されるが如き流れを
 そのままに受け入れるのは、とてつもなき敗北感であることに違いは無い
 しかしまぁそれにしたとて、斯様な抗いに本音をぶつけていようとも
 それの個人差は大きく、「あいつらだけだから」と言われかねない範疇だろう


 ‥それでも何だかんだと
 「刷り込み」こそが、進化の光として台頭し、再びの闇として憚る要素を否定できない



1-4)3

> ヒトに課せられた「刷り込み」は、人生劇場の扉だろう


 されど、人によってはとんでもない幕開けもある
 それでも、その時にあなたが何に反応を示すかは、あなた自身の癖である

 其は、あなたがあなた自身を受け入れた始まりでもあった
 (あなたはそこからのスタートを選んだのだ)


 ‥とは言え
 どのようなシナリオであれ、主人公の性格次第でストーリーは異なる

 それゆえ、主たる観客も又あなた自身から始まろう

 あなたへの応援は、あなた自身からしか始まらない
 通常、私たちはそれを「やる気」「その気」と呼んでいる


 確かに‥最悪のシナリオなら、そこでは敵が目の前に立ちはだかっていることだろう
 それとて‥勝つことを選ぶも、逃げることを選ぶも、堕ちる次第を選ぶも自由である


> 育ちや立場に見られるだろうあなた自身が思い描く「善悪是非」に意味は有っただろうか?


 ‥大抵のそれの多くは、時を振り返ってみれば、自ずと答えは明らかだ
 振り返ればこそのバリエーションは様々だったろう
 ただその先に辿り着く為のモチベーションに欠いていた(それだけだ)



1-4)4

 ‥教育や環境のせいにしたところで始まるまい
 其もまた刷り込みの内の一つにすぎない、克服すべき課題である

 脱皮をするも自由、しないも自由だ
 能力不足への不満を並べ立てても始まるまい


 ‥その時、無理に「自己責任」「私のせい」を思い込む必要は無い
 能力の不足を予想できているなら、繋がれば好い

 それはそう‥誰を選ぶかというテーマによる思い込みの始まりでもある
 常に向き合うべきは、自分自身の思い込みから始まるどうしようも無さなのだ


> ‥実験側は、とくに人間が何らかの価値観に染まることを恐れてはいない
> なぜなら実験だからだ、懲りて嫌だと思うのは人間側の都合でしかない


 だが、実験ゆえに、変化や手応えの得られない状況には警戒がある(飽きもある)
 しかし人間は、当事者と云うことでもあり、変化を嫌う傾向がある(とくに負担)

 ‥そもそも

 想定外の事象に対処するモチベーションを考慮せずに
 全力で「自由だ」「競争だ」などとは無警戒すぎるだろう
 本当に全力であるべきは、非常事態時において他は無い

 なのに、日常を常在戦場に仕向けてしまっては、緊急時の対応など体力からして無理
 それこそ誰か任せのお手上げだろうよ
 若しくは、物見遊山のシャッター待ちかどちらかだろうよ

 (世間一般に劣化していると思うならその点に尽きるのだ)


> これの空気の違いを理解していないのでは、運命に翻弄されるばっかりだ



posted by 木田舎滝ゆる里 at 16:37 | Comment(0) | 宇宙な? | 更新情報をチェックする
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