2019年12月17日

【勝手句帳】r065(01-12-13,14)其の2静岡新聞掲載分から


↓ 6)1 向宜詠吟.2019/12/17

富士の景湾一望や冬の波
沼津市・潮音みどり句会(12-13)

 ‥ネタの句の中七「湾一望」
 静岡県では「富士山」と組み合わせるのがそそるらしい

 にしても、ネタの句に見られるのは詩点なだけで、ひねりが無え

 なにしろ、すでに半分の音が決まっちまってまーす
 難度はそりゃ高くなるわけですが、風景だけしかみていないのでは風景として動きません

 情景が浮かんでくるようにひねりをくわえるには、「暮らし」を盛りましょう


|富士を釣る湾一望の冬の漁 ぼうずの日さえ故郷自慢


 ‥富士の姿は、冬場の海からの眺めが一番である
 漁の傍らにふと目を見やれば、見守られている感が最高なのである

 たとえ不漁続きでも(サクラエビ)
 同じように見守りたいからこそ、踏ん張り続けるしかないもんなあ


↓ 6)2


の日に節足伸ばすの蜘蛛
三島市・東大場土筆句会(12-13)

 ‥ネタの句の下五「冬の蜘蛛」に疑問が湧いたのでググってみました

クモって冬はどこで何してるんですか? 蜘蛛
冬のある朝、大きな蜘蛛の巣を見る。

 ‥なるほど、概ね越冬はしない、卵を残して種としてやり過ごす
 (どうにも完全お家主義タイプ=蜘蛛=網を張って待つのが得意技=陰謀くさい奴)
 越冬するタイプにしてもほぼ隠れている

 ということで、ネタの句の解釈としては
 蜘蛛が巣を張っている状況としてでは無い


の日に節足伸ばすの蜘蛛 枯葉に躍りで日向ぼこ


 ‥おや、枯葉の上に蜘蛛が居るぞ(この時節に珍しい)
 そしてこれは、誰がどう見ても、明らかに朝一番からの日向ぼっこである
 足をいっぱいに広げている向きが、如何にもって感じだなあ


↓ 6)3


木枯し遅刻のバスに乗り込めり
沼津市・潮音みどり句会(12-13)

 ‥ネタの句の着目、「木枯し」と「バス停沙汰」
 すべり込みセーフで間に合っちまった詠みなんて、どこが面白いんだお

 (とくに「木枯し」の雰囲気が台無しだから)
 (そして、遅刻=朝とは限らない)

 という分析結果になりまして、↓になりましたん


|凩や乗り遅れたるバス停前 脳裏かすめる取引破断
|タクシーをどうにか拾ひ隙間風 ハラハラと見る時間とメーター


 ‥この頃の不景気はもとより、そもそもの懐が寂しい
 自腹になる経費はトコトン節約したい、タクシーなんて論外だったのに
 バスに乗り遅れて、タクシーを拾わざるを得なくなった

 ‥何はともあれ、遅刻が原因で、取引が破断しちまったら身も蓋もない
 それにしても、料金メーターと時計のダブル睨めっこは心臓に悪いよお


↓ 6)4


茄子つづくおかずも終えて田も畑も土黒々と冬仕度する
藤枝市・文化協会短歌会(12-14)

 ‥ネタの首に対して、率直な感想を述べれば
 「土黒々」と「冬仕度」の関連が素人にはまるでわかりません

 でもまぁそこは置いといて

 ネタの首の上の句と下の句はひっくり返すのも有り
 ‥ということで↓になりましたん


|田も畑も土黒々と冬用意 三度の茄子の終えし頃合い


 ‥いやもう、茄子も食べ飽きた頃に見る田畑の土の色ってのは
 農家からすればそそるよね
 冬場だろうと作付けしたくなっちゃうんだよなあ、これがさあ


↓ 6)5


|秋夜長捨つるつもりの句を拾ふ
静岡市・潮音木曜俳句会(12-13)

|恥こらえ捨つるつもりの苦を拾う 是非はともかく 私の歩み


 ‥物事への価値観は人それぞれ
 やりたくないことは、頑としてやりたくない
 しかしまぁやらざるを得ない場合も時としてやってくる

 むしろ、それらを「恥」として解釈していたなら「苦」でしかない

 ならば、自らの人生に「恥」を持ちこむも持ちこまないも、手前勝手な価値観であって
 物事の善し悪しからは、随分と解釈がすり替わっている

 一方で、すべては、必要だから巡ってくる事柄だ

 ところが、都合勝手にも何が巡ってくるのかわからないのに、自由に選択できると思い込んでいる
 そこには、やる自由とやらない自由とした解釈しか存在していない
 そのように、事前に選り好みを決め込んでいては、人として不十分を積み重ねているだけである


 心構えの不十分ともなれば、もはや文化色としてはクズに部類されるのみ


 そもそも、巡ってくることがわかっていれば、嫌でもやらざるを得まい
 ならば、選り好みに意味は有るだろうか?
 意味は無くとも用は巡り来る
 ならば、選り好みほど無駄な思考もあるまい(パワーの無駄遣いだ)


 ならば、人の心に抱える多くの苦は、座って嗤っていたいだけの選り好みゆえにあるのだろう


 まぁ一つ一つのそれらを取り除いて行く人生というのも「御座います」なのだろうなあ


↓ 6)6


|見はるかす限りの空を青に染め深みゆく秋にこころ洗わる
藤枝市・文化協会短歌会(12-14)

|愛すらも限りの空で雲と化す ならば疑え「躾と自由」


 ‥「愛」には無限の可能性があるなどと持ち上げてみようと
 ヒトだからどん詰まりはやって来る

 「愛」ですべてに対処できるのかというと、決してそうではない
 それがヒトの程度の「愛」と言うことだろう

 私たち人類の「愛」など、未だその程度だ


 そこに疑問を抱かないからこそ、「躾と自由」で混沌となるのだ


 愛は、パーフェクトなどでは無い(まずはそこから叩き込む必要がある)
 ならば、自由とてパーフェクトでは無い(素直に受け入れられるだろう)

 すべてに、パーフェクトなど存在しないのだ

 「ならば、どうする?」

 そこを問わずして、人に十分な感性は宿らないし、到達への歩みも曇ったままだ


 ‥「愛」とは何かを問われて(そこはやはり)
 無限への可能性を連想せざるを得ないのなら
 尚更にパーフェクトなど存在しようも無い

 すべては過程であって、失われることが前提だ

 ならば、私たちの贅と自慢をねだった暮らしぶりは、既にそこからブレている


 あなたが「愛」ならば、自らの手で工夫せよ
 あなたが「憎」ならば、自らの手で奪いとれ

 資本文明の世において学べることなど、所詮その程度だ


> さて、そち等は、どちらに躾けられて「歓び」を感じるようになっていたのかや?



> うた詠み終わります、ありがとうございました。




posted by 木田舎滝ゆる里 at 20:28 | Comment(0) | 名句にポン/2019中途から | 更新情報をチェックする
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