2020年01月24日

【哲学】糸と摩擦と意図と抗い

↓4)記稿.2020/01/24

 糸は繊維が絡んでできている
 そこにあるのは、繊維同士の絡み合う摩擦力なだけである
 同じ繊維同士の絡み合う摩擦力は、どんなに束ねてもそれほどの変化は無い
 それぞれに適った適度な太さで用いるのが塩梅である


> 人の暮らしも似たような所がある


 意図にはヒトの思惑が絡み合っている
 私たちの暮らしを支えているのは、このお互いの絡み合う思惑・欲望・都合ということである
 まるで、ヒトの暮らしの繋がりを紡いできたのは、そこに摩擦があったからと言わんばかりだ

 しかしどうだろう‥否、だからだろう‥
 抗おうとしない意図はすぐに事切れる

 私たちの暮らしは伝承により成り立ってきたと頑なに信じたところで
 実はそうでは無く、事切れてしまうからこそ事切れてしまわないように
 それなりの規模を維持し続ける必要があった


 ‥なのに競争を掲げて猛烈につぶし合っているのが現代社会だ‥


 事切れる勢いを増加させては、知恵を絞ればなんとかなるなどという抗いも役立たずだ
 現代人にもたらされているストレス増加、モチベーション低下は、どうにもその通りだろう



1-4)1

> ところが、炭素繊維ともなると分子同士の結合力ということになってくる
> もはや摩擦頼みの次元では無いのだ
> これこそが、私たちの伝承たる「繋がり」と呼んでいるよすがだろう


 ‥ならばどうか‥

 昔と今では、何かがまったく異なっていたと言うことである
(否否そうではない)
 ごく一部の‥意図に振りまわされぬ器用な者たちだけが繋がりを創出してきたのだ

 その割合が、多かったと言うよりは、全体でのストレスの増加が小さかったと言うことだろう

 ‥ところが、現代社会はそうではない
 そうだ、多くの方々は不器用のくせに
 なぜか「繋がらず」事切れる方へとエネルギーを向けてきた

 まさにシェア争い、追い落とし上等の世界だった
 さらに、科学の用い方次第ではストレスを加速させてしまうのだから、堪ったものではない

 だからこそ、栄枯盛衰に苛まされている、否、無知蒙昧ということなのだろう


> 今や選択肢のまずさという奴を嫌いすぎて、スマホ片手に秒単位で睨めっこだ
> これでは、とてもじゃないが、ストレスが休まるなど死んでからでしかない


 ※ 生前において安まることを知らぬ者が死んでから安まるなどと思うべからず
 死んで意識の切り替えを器用にこなせるぐらいなら、この世じゃ大人物だ
 死のうと切り替えができぬから、供養が求められるのが本筋である

 (死んだらそれまでは、まさにそれだよ)
 (ライバルや敵を追い落とすことしか頭に無いおつむのままに)



1-4)2

> 基本においてあなたは自らの欲望にどれぐらい忠実だろうか?


 ‥100%と自信を持って自慢するぐらいになるとまったくの大嘘つきだ
 それでは、器用に大縄を束ねたところでプチンと事切れる縄にしかなるまい
 都市伝説ぐらいには成り得ても、伝承にはほど遠いのだ


‥日常において、汝の欲望に程程に忠実ぐらいが、誰かの欲望にも程程に向き合えるよすがである‥


 ところが、伝承という奴には様々な厄介事が多々付きまとう
 そこには、伝承としたお付き合いが絡んでいる
 そう、始めから伝承こそが意図として組み込まれているのだ

 結果的に、其に関わった多くの者らが抗わずに受け入れてきたのだ


> ならば、解釈を変えねばなるまい


 繋がりとは、居心地の良いやさしさでも、聞き心地の良い受け入れでも無い
 始めから、伝承を約束されたり、継続を要求されたお付き合いだったということである

 村同士のお付き合い、そこにあるのは自由では無い、死に所としての覚悟のような空気だ
 勝手都合を言い放って、引っ越してしまうような気分やセンス優先のお付き合い程度では無い
 そこには骨を埋める覚悟とまでは深刻に無くとも、約束事とした空気があり、求められている

 村八分にしたって、村に生きることを認めていたのだ、イジメや嫌がらせとは質が違っていたのだ
(それ以上の用せずの扱いともなれば追放だった)


> 直球で申せば、代替の利かない関わり(存在感)


 ‥斯様なる感覚が8割とした向きが、昔ながらの程程の存在感だったことだろう
 何はともあれ、娯楽が少なかったから、囚われる対象はあくまでヒトでしかない
 変わったところでは、何らかの生物への好奇心・観察欲だったろう

(科学的な文言にできずとも、洞察力に深き者らは多かった)
(現代社会は、村の枠を遙かに超えてそれぞれの知識を共有し合える点だけが異なっている)
(現代科学の方が圧倒的に優れているとした見解はうぬぼれに過ぎない)


 ‥人の間に存在感を得ずとも、生命との間に存在感を得る者が多かった
 結果的に、自然からのストレスが小さかった

 ところが、現代はそうでは無い、自然からの反作用‥もはやストレスの烈火山だ‥
 ならば、昔のその手の洞察の達者な者らと比較して、差し引きゼロが評価と言うことになる



1-4)3

> それでも、昔の人たちは抗っていた


 戦無き世がもたらされても、尚、抗っていた
 一歩踏み外せば、蓄えを失い、村ごと消失してしまい兼ねなかった

 それがそもそもの「村社会」だった

 そして又、お上が救いの手を差し伸べるとは限らないとした縛りが大きかった
 そのお上にしたところで、同じように縛られていた


> それがそもそもの「席順争い」だった
> 席順を争う為の暮らし・お家(もの凄い重圧だ)


 ‥落ちぶれるのが嫌だとばかりに、いきなり刀で一家心中する者も多かった
 (帯刀の用が間違っている)

 ‥なのにどうしたことか
 現代人は村社会が嫌だと、席順争いに傾倒した(競争率倍増でキチガイ倍増だ)
 お陰で、地方から順に吸上げられ感は半端ない
 取られすぎは良くないとばかりに、地方民はこぞって都民を目指す(どうにも参勤交代の様相だ)

 見事成功し、都民として肩を並べても、都市部を「ふるさと」とは誰も語らない
 郷里を懐かしく思っても、税都合から売り飛ばしちまっていたりする

 (そんなとんちんかんな輩どもは、スキルを求めてさらに海外への憧れを募らせていたりする)


> 「ふるさとよりマネー」それが現代社会の繋がりだ、なんと無機質だろう
> ‥ご褒美欲しさに背中を押されてスキルを求めるイヌどもめ‥


 そんな無機質への憧れは、不思議と脳内で‥有機質への憧れへ回帰する

 正常な方向に舵を切ることになるそれを以て
 今度は、チェンジなどともてはやすのだ
 結果オーライとしたもちつもたれつを漂わせるにせよ
 しかしどうか、社会構造となると誰もその有機質な匂いからして知らないとばかりである

(そもそものきっかけがご褒美ありきだからな)

(そのご褒美は市場から奪い遇ってくるしか無い‥そういう文化色としてのおつむだ‥)
(回帰したかろうとそこはビジネスとした戦場だ)
(戦場を止めるには放棄しか無い‥でも誰も放棄なんかしない、それどころか志して地雷になるのだ‥)


 ‥今更ながらにも
 そもそもの村社会が未成熟だったとした解釈は拭えない
 これより先の有機質たる世界構造は、未だかつて誰も味わったことが無い暮らしだろう

 そんな予想が立てば立つほどに、立ち止まったままだ

 ‥だが、頭ではおぼろに理解しているのだろう
 抗うところにそれはない、がむしゃらにならざるを得ない処にもそれはない
 摩擦力でも抗いでもない、結合力とした方向に変わりはないと



1-4)4

> 分子構造の違いと言うだけでの差が大きい、それはなんだね?


 一人一人の性能がアップグレードするわけでは無い、唯々構造の違いが在るだけだよ
 構造が違うと言うだけで、シンクロ率なりモチベーションの湧き方が違うのだ
 それだけで、暮らしの結合力が変わるのだ

 裏を返せば、見方が不適切だったというだけのことである


(なにしろ、まだまだ科学の入り口程度でうぬぼれては、そりゃ迷信の世界観に填まるだろう)
(今やそこには、気休め程度の迷信だとした自覚も無いのだからな)
(迷信程度のよちよち科学を掻き集めたところのスキルなんざ、単に個としての一時の凌ぎなだけだ)
(其に自己実現と名を翳したところで、繋がって行かないのならどうしようもない)
(そこには古来からのスタイルの抗いがあるだけだ、文化力としては何も変わらずトントンのままだ)


 ‥その程度がどうにも21世紀だということだ‥

 私たちはなんら先駆的でも文化的でも未来的でも無い、唯々ひたすらに興廃好きなだけだよ
 興廃好きなだけの物好きの集まりに、安定なんか築けるわけが無い
 すぐに壊したがるし、取り替えたくなるし、捨てたくもなるのだからな
 そのステップの間には掃除が欠かせない(整理嫌いと掃除嫌いに文化創生など無理ッ)



posted by 木田舎滝ゆる里 at 16:38 | Comment(0) | 日記/2020 | 更新情報をチェックする
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