2020年06月07日

【命題】{契約と命令}vs{人権と補償}

↓4)記稿.2020/06/07

> 国民は国家と契約した立場だろうか?
> そうでないなら、どうして国家に命令を発する権限があると言えるだろうか?


 ‥国家と契約を交わしているのは役人だ
 だから役人は国家の命令に従う義務を負う

 ところが国民は、国家と契約を交わしてなどいない
 交わしたように思い込んでる空気があるだけで、実際には交わしてなどいない

 代わりに国民は、基本的人権で認められる範囲で人権を主張できる立場に置かれている

 だから国家は、国民にお願いすることはできても命令に従わせることはできない
 それが民主国家としての基本的解釈になる


> ‥ところがどうだろう


 ‥今や民主社会はその点において戦国時代より劣化している
 兵糧を得んがために、民草にお願いしてきたのが戦国時代の大名らの姿にもあった

 (それが大名を誇れる本意だった)

 その点において、大名と百姓は対等の関係性に置かれていた
 それを覆したのが、商いの自由化方向と兵農分離だった

 現代社会はそれが極端化してきたモデルケースにすぎない


> 遡れば、債券と銀行としたシステムが入ってきて、とんと怪しくなった


 国家名義で政府が借金をすると、なぜかその返済義務が国民にあるかのように仕込まれている
 国民は国家と契約など交わしていないのに、なぜか‥
 意味不明にも名義すり替えが成立している‥実に摩訶不思議な感覚だ

 国民にあれば、国家に対して、人権を問える立場にあるにもかかわらず

 途端に人権を取り上げんばかりにあるのが
 国家のやらかす借金の支払い問題だ


 ‥誰がどう見たって
 今や、国家の定義は、政府名義の先走りでしか無い
 なのに、国家名義で勝手に借金を繰り返しては
 なぜか当たり前のように、そのツケが国民名義にすり替わってしまうのだ



1-4)1

> 折り返してみよう


 国家とて、国民に対して人権を保障する範囲内でお願いはできる
 だが、その範囲を犯して、惚けたどや顔で、てめえの借金を国民に背負わせるのは不可解しい

 戦国時代に例えれば、百姓の暮らしが上向かないのに
 重い年貢を課して民草を殺してしまいかねない向きに相当する

 (戦で農地が荒らされると困るにしても、無理なものは無理っ)

 ‥ところが現代社会では
 国民の多くが無理難題にも、人権だ利便だ暮らしやすさだと言い張りすぎるので
 いつのまにやら、国民の方から国家にお願いしちまっているケースが目立つ‥そういう空気だ


 ‥その最たる要因は、経済だ
 国民が生活レベルでやらかす借金を返済するために
 経済保障が欠かせなくなり、結果として、利権と組まないとやっていけない構造だ

 政府もそれら利権頼みの向こう見ずのところがあるから
 政府としての返済義務を、国民からの要望にすり替えて、全部を国民名義にすり替えている

 国民もなぜか其を真に受けて、一生懸命にも国家に借金をお願いしちまっている
 それもこれも日々日常の返済を滞らせるとお縄になっちまう仕組みだからだ



1-4)2

> 国民の多くは知らないうちに、自らの人権を質に出して、自らを窮地に追い込んでいる


 ‥国家と契約した憶えは無いのに
 国家が契約している組織の参加から借金をしちまっているので
 国家と契約しちまってる関係性が発生するのだ

 だから、個々でやらかした借金を支払わない国民をしょっ引く権利を
 国家が契約している組織から委ねられているも同然の間柄を有している

 一方で、国家の滞った赤字をしょっ引く権利を有する存在が居るようでいて無い扱いだ
 なぜなら、契約しちまってる間柄でこぞって、国民に返済させればいいとしているからだ


> これではどうしたって、人権保障にはほど遠い
> この行き違いは、人権を保障するとすり替えてある点に始まっている
> きっちり補償しますと示していれば、国民は、名義のすり替えに遇わずに済むのだ


 ならば、国民の要望はすべて補償として扱われ、借金システムからの卒業を問う段階に移行する
 個々が借金を発生させなければ、国家が名義をすり替える用を得ない

 (民族としての幸福の創造性を最大限機能するように思慮すればそうならざるを得まい)
 (だが公平を問えば、民族を超えて地球規模にならざるを得ない)



1-4)3

> 人権保障と生活補償はセットである点を、お互いで確認し合わずに
> なにが民主社会なものかっ


 ‥これの指摘に見当違いなど無いだろう
 だがしかし、世の中の経済は契約の範囲で動いている

 なので、理想も指摘もお門違いで扱われる

 一方で

 「命令」を発することができるのは契約の範囲に置いてのみであり
 あとは「お願い」でしかない


 ‥お願いをすっ飛ばそうとすれば犯罪方向だ、そこは国家とて同じだ
 如何にも命令できるかのような勘違いは、基本的人権の理念とは真逆である

 但し、十分な補償とセットとするならば、ある程度の強意姿勢を押し込んだとて
 国家機能としての判断の内と見なされる範囲だろう(社会機能の多くでも同じだろう)


> だがしかし、そのような冷静な見方をする国民は多くない
> なぜなら、そのように民主社会が定義されて来ていないからだ


 ‥現段階で国民が描いている平均的な民主社会像とは
 世間にある選択肢から、自由に選んで、てめえの幸福度を上げることができる日常
 てな‥かなり自己中に偏った思い込みでしかない

 ‥公平性やモラルと云った道徳観とて
 幸福度を上げる上での選択肢でしかなくなっている部分もあるので
 そういう勢力が実権を握っていたりするので
 トラブル沙汰も幸福度を上げる上でのイベントとした空気で蔓延している

 その最たるやらかしになっている概念こそ「信教の自由」だ
 (それは補償するもしないも政府の自由とした脳内置き換えにもなっている)


> 信教の自由ほど、解釈のすり替えの自由を謳っているような文面もまたと無い
> 幸福の創造やら信教の自由が、平等権や公平性より上だと思っている連中はキチガイだ



1-4)4

> 基本的に、平等権や公平性を格下に据えおいた思考は


 常に自らを上に据えおいていないと安寧できかねる精神状態を抱え続けざるを得ず
 斯様な定義から来る「落ちぶれへの恐怖」を自らに処方しているに等しい

 (どう考えたってそれでは、人間性から逸脱して自らをチートに据えおかんばかりだろう)



posted by 木田舎滝ゆる里 at 01:19 | Comment(0) | 科特隊どころか無理だからウルトラ経済大作戦 | 更新情報をチェックする
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