2020年09月01日

【生活環】「頑張ろう」に酔う意味などあるだろうか?

↓5)記稿.2020/09/01

> ‥敢えて語ろう
> 今時代の「頑張ろう」に酔う意味などあるだろうか?


 現代社会は、制度的にも経済的にも土地に縛られる事がほぼ無い状態と言える
 結果、仕事の都合が地球大に広がった事で、より儲かる都合を求めて、トモダチをチェンジする‥
 俯瞰してみればトモダチのシェアにも見えるそれは

 さらに見方を変えると格差の強化だったりしている

 その証拠に経済が行き詰まると、途端に景気の落ち目が縁の切れ目と言わんばかりを繰り返す
 そしてそれが人によっては家族のチェンジだったりするだろう

 ‥そのような傷を繰り返す事で
 人とのつきあいを忌み嫌うトラウマの量産をし合っている事にもなる


 ‥経済不安定からの助け合いにしたって、土地に縛られているわけではないので
 輪から漏れてしまっているパターンは当然として発生する

 ‥そもそもが競争だ
 それでトモダチをチェンジし合っているのだから漏れてしまえば蚊帳の外になる
 日々蚊帳の外に追いやられてしまった側の気持ちをないがしろにして
 皆で困ったときだけ一緒にやりましょうを持ち出しても憤りでしかない

 さらに、輪から外れた者を非人のように扱うような錯誤に縛られるようなら本末転倒だ
 そのような行政が、平和宣言を掲げる事自体が偽善団体だったと言うことになる


 ‥そんなの‥友達付き合いとしては最悪なわけだから
 助けて貰いたくても、助けてくださになんて口にできるわけがない

 それでなくても

 急に現れて「お金を貸して下さい」パターンにうんざりなのはお互い様でどうしようもない


> だから、現代社会の私たちの「頑張ろう」には、いつまで経っても道理が無い
> 「頑張ろう」に道理を得るには、暮らし補償の構築をまず第一にすべきである



1-5)1

 ‥自由主義の結果
 地味だった親孝行への欲求が、故郷への恩返しが
 どこか不思議と自分自身に錦を飾ろうとする方向にすげ換わった

 どちらにしろそれらは

 自分・自分らの「頑張った」に、酔い潰れたかっただけの空気に過ぎない
 それらの頑張りは、どれ程の力に成り得たというのだろうか?


> ‥あなたの‥わたしの‥世の中の‥


 里に人は寄りつかなくなり、過疎化放題に置き去りだった
 恩返しどころか都会への憧れ&帰らざる空気に前向きだった
 親孝行をし得たとは言い切れない忙殺出世と、社会全体での不安定と増税で一杯だった

 それのどれにしたって

 満足できたのは自分の「頑張った」だけでしかない程度のオチだった
 人々から暮らしへの不安を拭い去るほどの威力なんて壱ミリも無い
 精精が自分を支えるだけで手一杯の現代下克上でのプチ成功に悦を浮かべるしかないヘンテコだ


> 私たちの誇る現代社会は、科学を駆使してでさえその程度でしかない


 否、科学を競争の毒にしてまで、なにを頑張ろうというのだろうか?
 その手の掛け声こそ日々平凡とした「官製型頑張ろう」だった
 結果、今や地球環境の劣化に王手を掛けるに及んでいる

 ‥「官製型頑張ろう」に何の意味があっただろうか?‥



1-5)2

 それでも繰り返さざるを得ないのだろう
 それらがヘンテコでも、貫いてこそ何かきっとむくわれるだろうと思わずにはいられない‥
 それが「受け売り頑張ろう」の空気だった


> 多少つっぱってみせようと、頑張ろうの空気は、それ以上でも以下でも無い


 だがどうしたって、今時代の人嫌い&勝手好き嫌いな‥互いの空気はどうしようもない
 だがどうしたって、成功を為した誰かの頑張りに刺激されようとマイ不景気ならどうしようもない
 だがどうしたって、この世は競争好きの下克上好きの自慢好きの御仁らが多めでどうしようもない

 そうだ、確かにこの世界は、自慢のために頑張るしかできないクズの集まりだ
 だからこそ焦燥社会が基点だった


> 儲ける為だけに新しきを担いで、古びた世間など眼中にせずとも良いとした空気だった


 勝てば官軍、儲かりゃ正義、勝ち組同士で組まれては‥もはや負け組は餌食とした流れだ
 なのに、納税こそ民主主義の基点などと増税する側ほど‥きな臭い空気にちゃっかりだった

 (勝ち組優遇だった、リスクは負け組に押しつけだった)

 そんなのは王政だろうと似たような空気だ(民主主義挙げるなッ)
 むしろ、市民政治の敵‥もとい、いつの世だって増税こそが敵だッ
 そんな空気じゃいつまで経っても「負けたら死ぬしかない世界観」のままだ

 それが民主社会の競争の在り方だというのなら、そんなもの早々に朽ち果ててしまった方が善い

 増税はいつだって敵だッ
 増税はいつだって非人道主義側のやらかしだッ

 お上が増税せざるを得ないほどの焦燥になんの夢がある?

 他人の頑張ろうを横から吸い上げている世界になんの夢がある?
 其に抗う事なく長い物に巻かれたい願望になんの夢がある?

 自慢し合うべき相手を勘違いしたままの世間になんの夢がある?
(お前だよお前、ルーティン飽きのくせにマンネリ椅子に座りたがるお前だよ)



1-5)3

 ‥「納税額が少ない」=「ダメダメでしかない」とレッテルを貼る輩
 ‥準備も大して整っていないのにやってみろとだけ背中を押す輩
 そんなのに限って
 失敗しても次があるからと「頑張る」顔でお茶を濁すパターンから抜け出せない‥
 それの裏返しな運気の陰り、どうしようもなさに填まっていたりする

 そんなストレス発散なのか批判上等なのかイチャモンなのか態度不明の輩
 たまたまカリスマだからと‥口危ない輩をなぜか担いじゃう世間の巻かれたい空気は
 どうしたってクソのままだ
 巻かれたいが為に頑張ろうをやらかす空気はもはや毒でしかない

 その手の世間の頑張ろうに意味なんて無い

 ‥「頑張ろう」「頑張った」を美酒に酔いつぶれたいだけだ
 多様化する社会的課題に向けて、何ら打開策を用意できずに、何が能力主義だろうか‥
 もはや、どれだけ先送りプレイ(言い分け)できるかこそが能力主義なのだろう(その程度だ)

 そのような「無力者」らを担いだところで惨めなだけだ
 そんな「無力な社会」で、能力を競い合ったところで、何の価値も無い


> この宇宙に能力ありきの真の救いが有るのなら
> まず第一に、「無力で無い社会とは何か?」‥とした哲学が語られていなければならない


 其の哲学を基にしたならば
 誠実な科学的探究心と、お互いの安全と健康を思う気持ちをもっと大切にすることだろう
 其に基づいた科学もとい宇宙なら、そのように先手を打った視界に注目するはずだ

 貴方が其を「在る」と信じるなら、其宇宙での「頑張る力」はそれこそ救いだろう
 だが、貴方が其宇宙を退屈に思うなら、貴方の頑張る力は常に博打にすり替わろう

 しかし残念な事に、誰もそのような哲学も科学も聞いた例しがない
 否否、説かれた例しが無いと語った方が早いだろう


(なんでも、自由がモットーで競争を厭わないのも宇宙にあるらしい‥所謂、多面性である)


 何はともあれ、普通に問うても、茨の道だろうと歯を食いしばるところからに馴れてしまっている
 それゆえ、敗者を作りだして茨の道を行かせる事にすら馴れてしまってもいる

 結果、勝ち組側から「無力に無き社会とは何か?」とした問いなど湧きようもあるまい

 無力に対して反旗や理想を掲げるのは
 いつだって「どん底」からであって「ゆとり」からでは無い
 その証拠に、私たちのやらかしている競争には
 いつだって、救済措置無き不備が、制度の落ち度として転がるばかりだ

 落ち度に対して、物腰丁寧に素直に対応するならいざ知らず
 角を立てるとは何事かの剣幕はどう考えたって封建社会のスタイルだ
 市民社会制度(国民主権)の意味を理解していない、時代錯誤そのものだ


> 否、能力主義こそ封建スタイルそのものだ、上が恥を掻きたくない言い分けこそ角そのものだ
> そもそもは力こそ正義に資本を牛耳られたままで、誰もルール革命を提言せずままだ
> 絶対王政の理不尽が、絶対資本体制に置き換わっただけで、民主化なんざ言葉だけの死に体だ


 ‥そのような時代錯誤・逆戻りが放置されては
 貴方がどのように正しき心得で頑張ろうにも、どうしたって無力にすり替えられてしまうのだ
 (何しろ上は、卑怯にも恥を掻きたくないからこそ、責任を下に転嫁する癖を発揮する)


 ‥その手の周りの無力・無気力を見て反発して生きてみせようと
 まぁ精精が利用できるモノは利用してパターンの自己満止まりの汗にしかならない

(だってどこにだって惨めは転がっている‥なのにそれへの疑問をスルーして目指すしかない世界だ)
(その手の不憫・不公平を変えたいと‥どれだけの気持ちがあったというのだろうか?)
(昨日も今日も単に目立ちたい症候群をモチベーションに頑張れれば良かった程度の欲求でしかない)


> 其の手の繰り返しに絡まる「無力感」を恥だと思わないのなら
> 周囲の気持ちを基点に経営なんかしちゃいないだろう(どうにもすべてが自己中だ)



1-5)4

> 食廃棄からして‥食べ物を粗末に扱う文化は、まだまだ命を粗末に扱ったレベルでしかない


 自分の頑張りを讃えて貰いたいと思う前に
 目の前の不憫・不公平に憤慨すべきである‥それが正常と言えるべき生命賛歌のエナジーだ

 自分の足で探すべきところを手っ取り早くオーディションして
 不合格なら「お帰り戴いて結構です」をやらかす社会のどこに誠実さがあると言えようか?

 (精精が形式的に段階的にふるい分けして配慮する程度だ)

 その手の怠惰な繰り返しを何遍繰り返せば気が済むというのだろう?


> ところが


 自分の足で探してきたら来たで
 オーディションが無かったら無かったで、不公平だと言い始めるのも自由主義である

 形ばかりのオーディションで、どれだけの夢や自惚れに傷口が開こうと
 其を公平な仕組みだとして思い込む(ものは見方次第だが)
 屈辱的形式を常に選ばざるを得ない社会性では、どこまでも同じ傷のなめ合いにしかならない


> 資本で支配する側としては、思い込んでいただいた方が好都合のオチなのだろう
> だが、お互いに資本があったら、自分の足で探してきたメンバーが居れば良い
> だが、シャッフル要素も無いと顔ぶれがマンネリで刺激不足もまぁありがちだ


 だが、マンネリで刺激が少ないパターンを嫌うがゆえに選別大会を優先至極に思っていては
 常に自由自由自由自由と求める形式ゆえの都合を優先していては
 資本頼みの、資本側からの選別頼みの‥ジェットコースター開運にうつつを抜かさざるを得まい


 ‥基本はいつだって自分の足で探したり確認する事なのに、誰もが形式に甘えて端折るのだ
 結果、格差の狼煙に余念が無い

 端折り三昧の用意三昧になれきったマンネリで、自らの足ですべき基本に好奇心を持てないのなら
 それは「面倒くさい脳」に飼育されたと言うだけのことでしかない

 ならば、私たち現代人の「頑張ろう」とは
 そのどうしようもなく「面倒くさい脳」からの脱却から始めざるを得まい



1-5)5

> 私たちは、人間の脳がすり込み的に楽な方を身に付けてしまう癖への
> 「脳の超不便性」への理解を欠いている
> 超不便性状態の方を正しいと思い込むほどに、融通が利かない「枯渇脳」に成り下がる
> ぶっちゃけ、多くが枯渇脳状態に陥っているのに、何をどう頑張ろうというのだろうか?


 ‥脳の超不便性から脱却するには、過去の文化の過程を体験して再構築させてやる用がある
 (但し、それへの好奇心が伴わないようなら効果は薄いだろう)

 ‥又その逆に、新体験が進まない事で、全体の好奇心が共有ままならぬ脳環境でも宜しくない
 世間の考える好奇心や方向性がバラバラすぎるから、一体感に欠くのなら
 新体験の公平性をも併せて取り入れるべきである

 体験の公平性に伴わぬ日常において、テーマに共有感が発生し得ないのは成り行きだが
 其を積み重ねるしかない社会のままなら、どんなに人材募集したって無駄である

 (体験格差・知識格差が進めば進むほどに、人々の好奇心は漫然としたやってみたい止まりだ)

 やっていみたいならやったらどうですか?、何を持っているのですか?
 とした正論にしたって、喧嘩にしかならない


> 最終的に助けて貰いたいのは、お仕事の手助けであって日々のやり繰り程度では無い


 人材の発生と其のやって来るのを待っているだけに陥っているのは社会の方なのに
 未だ何ら革新的な試みをやってみちゃいないままだ(精精が雇用廃棄のAI×ロボット化)

 だが、格差社会では何をやろうとお金がないと始まらない負け戦の方が大半だ
 投資にしたって同じことで、リターン無き算盤では誰だってそっぽを向かざるを得まい
 そこを貸し付けるしか能が無い資本社会の仕組みはどうしたって非効率的で畜生だ

 (お互いにリターンが無いなら創造無償も手なのに、それへの賛同は少ないようだ)


> 這い上がってきた者だけを優遇する制度は、どうしたって平等では無い
> 基本的人権の論のどこに‥這い上がってきたという条件が掲げられてあるというのだろうか?


 ‥憲法解釈以前に民族色が浸透してしまっている点はどうしようもない
 ‥この国の民は、負けたくない症候群を煩いやすくてどうしようもない
 ‥宗教にしたって誇り合うのは信者の数でその中身にあるとは限らない

 兎にも角にも、そこを渋っていては、多くは未成長のままだろう
 なのに会社側は、経験者のみを言い始める‥(それでは「切り捨て御免」と同じだ)


> ならばもう一度、「プライド」や「傲り」と名の付くチョンマゲを切り落とすしかなかろう



posted by 木田舎滝ゆる里 at 17:48 | Comment(0) | 科特隊どころか無理だからウルトラ経済大作戦 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。