2020年09月06日

【詩】しっかりと育てられたい症候群

向宜詠吟.2020/09/06

人にはなぜか「しっかりと育てられたい症候群」が植え付いている
然れど、「しっかり」とはなんだろう?

自分の中の其れの思い込みから外れている時
たいていは、育てる側に逆恨みを覚えたりする
家庭であれ、学校であれ、仲間であれ、会社であれ、世間であれ
何でもかんでもまずは、自分の身の置き場に対して期待をやらかすのだ


つまり、「しっかりと育てられたい」と思っている
然れど、「しっかり」とはなんだろう?

単純にそれは「私らしく」という事になるだろうか?
しかしそうは言うものの‥多くの者らは具体的な「私らしく」を知らない


‥知らないからこそ
憧れや劣等感に引き寄せられていたりする
得か損か、善か悪か‥価値の有無に引き寄せられていたりする
満足できるか否か、自慢にたるか否かに引き寄せられていたりする

私たちはクズだから、クズ脳でしか無いから
知らぬ間に「私らしく」よりも偽りのそれらの方に納得したりする


「しっかりと育てられたい」気持ちを、わざわざ好んで競って裏切り合うのだ


失敗も過ちもすべて糧になるから大丈夫などと調子こいている
それでいて、世間からお叱りを受けようなら、ふて腐れたり、開き直ったりする

そもそもが幼少期の多感さゆえから始まる「しっかりと育てられたい欲求」など
得てして横並びの受け売りだ、人並みで十分だったその頃の空気は
歳を重ねるにしたがい、格差上等に腐りだす


‥斯様にも
一般的に人並みと思える環境に育った者らの多くは
「用意されていないと始まらない症候群」に陥っていたりする
お膳立てされていないと自分が大事にされていないように思い込むらしい

それが愛情豊かに育った結果のパターンの過半数なら、人類に救いなど無いだろう

否、自らクズ脳に陥っていながら
「しっかりと育てられたい」などと病まざるを得ない多数決群など、それこそ死に体だ
そんなことではいつになったら、「しっかりと育てよう」のその気になるというのだろうか?


‥育てられていないのでは無い
自らが自らを育てようとしていないだけである
いつだって、まずは「自分をどう育てるか‥」から始まっている
それが「私らしく」としての姿だ

(すべてはそこからの鏡似性だった)


その「私らしく」から背いていては
誰だって‥すぐに不満を並べる才だけを伸ばさざるを得まい
そしてまた世間体さえ良ければ、都合さえ良ければ、それで十分などと白を切る
徒然に甘ったれた数々のクズ脳からなる鏡似性世界からの脱出は、どうしたって険しい

「この(どうしようもない)クズ脳がwwwッ」



> うた詠み終わります、ありがとうございました。



posted by 木田舎滝ゆる里 at 17:45 | Comment(0) | | 更新情報をチェックする
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