2020年09月24日

【科目名提案】修身でも道徳でも人権でもねぇ→「世界」である

記稿.2020/09/24

> 道徳教育よりも人権教育を
> と言う記事を読んでいて、えらい勘違い含みに驚いた


 ‥簡単にツッコむと記事内での様子では
 本来の儒教観にあった要素が道徳観にスライドし
 道徳観だった視点が人権観にスライドして説かれています

 儒教観のすべった解釈として
 「身内の為になら何でもして構わない」とした解釈があります
 それは中国や韓国のなんとなく違うんじゃ無いかなぁとした空気そのものです

 それは人権意識からみたらどうしたって稚拙な
 いきすぎた思い込みの「私たちの為だから」パターンでもあります


 (そういうのを道徳観に違えちまっているような中身の空気におどれーたったz)


 ‥そもそもの道徳観には、荘子の儒教に対する野次含みのツッコミが下地にあるので
 組織の堅苦しさに縛られいないで
 もっと人としての自由な良心が有るだろうとした空気くさいのです


> 儒教を知らずに道徳と人権だけを比べても日本文化からして推し量れません
> 江戸時代の日本教育のベースは儒教の影響を持つ朱子学(儒学)だった
> &民間の信仰の中核は仏教だった(釈迦の誕生日祭を毎年にやっていた)


 どちらかというと日本教育での道徳は
 老荘思想を知る物好きな庶民のオリジナルな言葉に置き換えられた座右の書での広がりだった

 という文化背景が複雑に絡み合い

 それらを好都合とばかりに再編成したのが大日本帝国の道徳観だった(修身×武士道)
 戦後の道徳観には、かつてのそれに
 欧米流の人権思想やら資本思想やら民主主義思想やらが混ざり合ってぐちゃぐちゃになった

 (戦前あたりだと共産思想も結構な人気を得ていた)

 戦後には、宗教観点からしても欧米資本によるキリスト教の布教の影響も有り
 愛と自由の解釈輸入から
 世間体が要らないものとした宗教コミュニティ上等方向にスライドし随分と怪しくなった


> ‥で、いつの間にやら


 少ない単語しかしらない知識で、現代教育批判の勢い余って
 「道徳」と「人権」とした言葉を比較しているなどとは、開いた口が塞がらねぇ

 ‥いやまぁ確かに
 「人権とした視点からの教育が必要です」とした見解に異論はありませんが

 日本の教育科目の「道徳」は本来の道徳とは異なり
 日本の伝統としたアレやコレやを一つの言葉に押し込んだ意味で使われちまっているので
 何を教えるべきかのポイントが怪しく見えるのも相違ないわけですが

 だからといって人権にしたって
 自由権と平等権の考え方で二分しているので、そこを考えれば結局は
 どんぐりの背比べでしかありません


 だったら始めから世界各国の国家毎の差を教え込んだ方が
 柔軟に考えるべき空気を勝手に脳内整理できるようになる期待が持てるはずです

 どこどこの国では「ゴミを捨てるだけで牢屋行きです」
 これをどう思いますか?
 そういう授業の方が先生も楽でしょう

(異国情緒も兼ねて刺激的だし、それに対しての見解もクラスで考えた傾向としてまとめれば良い)
(どうせ他国の事に解を問う必要ねぇし、総合力判断を学ぶって見解で十分でしょう)


> 科目名もそのままに「世界」と銘打つのはどうでしょう?


 世界各国での暮らし向きの常識や法律の違いについて考える事は
 そのままに人権について考える事と同義であり
 小学生年齢としても好奇心も高く、取り組みやすく考えられます



posted by 木田舎滝ゆる里 at 17:35 | Comment(0) | 日記/2020 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。