2020年12月01日

【詩】権利と義務VS責任と義務

向宜詠吟.2020/12/01

詰まらないから引け目を感じる
楽しいと有頂天にも自惚れる
これがヒトの脳内で行われる自己評価のトポロジー的陳腐化である
(幸福感と不幸感の二極化する分かれ目である)

詰まらないにも、楽しいにも、そこに現象としての価値に差なんか無い

そこに価値の差がある思っている人格や世界では、公平感を勝ち取る事など無理
(人権視野において、男と女に差が無いはずだと思っているなら尚のことだ)

誰にでも等しく光なり、水なりとした勢いや鎮まりを性質として有している
その有しているとした事実の尊重こそが大事で、現象においてどうであるかと言う事では無い


ならば、差があると思っているそんな脳みそには、「うんこたれ脳症候群」を翳すしかあるまい
誰だって‥うんこをせずにはいられない造りになっている
それはつまり、うんこ自体に善も悪も無いのだ
悪があるとしたら‥諸処の問題に対して、十分なトイレを用意できない脳にこそある
ヒトの文化を尊重するためにあるのが人権保障なら尚のことだ
つまり、うんこたれ脳症候群とは、共有理解を得ようとしない&得ぬ症候群という事になる


「どちらが正しいかでは無い、必要なトイレのあり方は何か?」‥なのである


‥これの理解に乏しいと
ついつい「権利と義務」とした錯覚をやらかすことになる

国民主権を語っているのに、どうして中央集権化がされてしまうのだろうか?
どうしてそれが圧倒的に当然とした見方に呑み込まれてしまっているのだろうか?
どうして納税の多寡が、人格の評価にまで及んでしまうのだろうか?

「どう考えたって不可解しい」


‥ならばここに、高らかに声を挙げよう
中央集権なんて無い、中央責任があるだけだと
それが国民主権としての民主社会の定義なのだと


「権利」酔いしている糞野郎共がやらかしているのは、納税の義務である
そのくせケチケチとした保障をやり合うだけで、環境破壊を同時に推し進めたうんこたれだった
安全保障だけであとは首が回りませんとしたうんこたれ脳だった
その挙げ句の果てに増税だった

それで一体どれだけの幸福が創造されたというのかね?
どう考えたって不幸感の創造の方に片寄った
どう考えたって違憲信仰だった
あれらこそが反社会規範だったのである


‥もう一度言おう
「中央集権なんて無い、中央責任があるだけだ」


そうだ、人権を公平に取り持つ上での責任権があるだけだ
それが果たされていないなら、納税の義務の要請を語る資格などない

納税の多寡で無能有能を評価し合う風潮にしたって
そんなの憲法のどこに示されているというのかね?

そんな文言があったら、人権尊重にならない
なのにどうして能力主義が横行するのだろうか?
なのにどうして能力主義を信仰するのだろうか?
そんな脳では、自ら民主社会をすり替えてきただけであろう


‥足りなかったのは何だったかと問うなら
競争を互いのモチベーションとして譲れないのなら
環境破壊をやらかさない上での公平を整備しなかったという点に尽きる
生存権としての最低限の補償を有さなかった点である

つまり「無償融資」
もとい「創造補償たる仕組みの公平整備」
もとい「諸問題へのトイレ思考」だった

そこに責任を持つことこそ、民主社会を練り上げる上での創造力と為せるのだ



> うた詠み終わります、ありがとうございました。



posted by 木田舎滝ゆる里 at 13:04 | Comment(0) | 科特隊どころか無理だからウルトラ経済大作戦 | 更新情報をチェックする
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