2021年01月19日

【基本的生活力の互為】釈迦はなぜ食中毒死を選んだのか?

記稿.2021/01/19

> 釈迦の教えのそもそもは「四大苦」ありきから始まる
> その四大苦とは「生老病死」の事である
> 生老病死からの苦しみをやわらげる意図で紹介したのが「八正道」である
> 悟りの全貌を伝えることは無理と判断し、大筋その枠で止まっている


 ‥生きることは苦しみこの上ない‥とした意見を陰謀論的に吟味するなら
 ぶっちゃけ、宇宙なんて奴は未完成のとんでも品なんで
 造った奴が拙いってわけなんだから‥どうしようもないと看破していた様にも伺える

 だかしかし、自らの身に起こる食中毒死を前以て、弟子たちに予告していたのだから
 意味ありげだった


 ‥弟子からしてみれば
 師よどうか別の三千世界への導きをお願いしやす
 師よマジに予告通りなら、おら、ガチで仏教徒で死ねるかもッす、是非に覚者ぶりって奴を宜しく
 とした二派閥ぐらい差での驚きはあっただろう

 そしてなんら其を理解せずに、仏教は大きく二つに分離した‥


> そもそもの「死」は「苦しみ」であるべきだった
> それが仏教の是非として避けては通れない課題だった
> なのに師が極楽往生ありきでは、矛盾してしまうのだった
> 仏陀としてそんな汚点を残すなんてありえない


 ‥この宇宙は未完成と論破しているクサい一方で、その死に置いて極楽往生など言語道断だった
 仏教に共感するとしたら本質はそこになる

 仏陀の見解としては「慈悲」ありきなのだから
 我が身に起こる死が、如何なる事なのかとした好奇心ぐらいはあっただろう
 だから自分の立場(覚者)から選択できる余地(琴線)として、食中毒死を選んだと思われる
 なにはともあれ、布施で生きながらえたのだから、その辺りを負の発生し得る辻褄としたのだろう

 ‥だが弟子はそんなこと毛ほどに思わなかった
 その結果が大乗仏教大人気だった
 悟れれば極楽往生ありきが憧れの的だった
 悟るほどに「そのような次第には無い」として、自らの肉を以て諭したはずだったのに
 人類規模でそうには成らなかった


> ここで注目すべきは、仏教としての形と方向が釈迦の中毒死選択に在るとした見解だ


 つまり、真に仏教徒であろうとすれば
 極楽往生など二の次三の次として心骨粉砕で○○すべきである
 とした気骨を要求していたということになる(慈悲)

 それに一番に共感していたのが、日の本の武士だった(忠義)

 ところが、明治より下り坂で現在に至っているのが、日本の唯物化した仏教観である(家督化)
 世界はどうかというと、とっくの昔に廃れてマニアックな哲学の扱いにあるそうです

 やはりというか忠義程度の境地では、仏教精神最後の砦だったとて
 お捻りの多い方に尻尾を振るポチ体質だった(残念!)
 されど世界のポチは、もっと簡単に積極的に尻尾を振り回す(残念!!!)


> 世界に慈悲を期待するなんてそれこそお花畑で、思いやりすら怪しげだ
> だって財布すら戻ってこないじゃん
> いつまで死の商人を上に担いで自慢げなんだよ(ふざけんな)


 ‥このままコロナ禍が続くと、医療からして死の商人化に成りかねない
 陰謀論沙汰なのに、医療関係者からまずワクチンを‥って、どうしたって全滅作戦だz
 医者の多くがコロナワクチンで逝っちまったらその後どうしよってんだよ(ふざけんな)

 (それで国保割り増ししようとかふざけんな)



posted by 木田舎滝ゆる里 at 13:16 | Comment(0) | 科特隊どころか無理だからウルトラ経済大作戦 | 更新情報をチェックする
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