2021年02月09日

【是論】知識格差から考えるベーシックインカム

↓3)記稿.2021/02/09

> こども○○の類のそもそもは知力体力を養う必要があるからだ
> だがそれは大人も同じこと
> そもそも、学習の幅を都合良く狭める在り方は、知識格差の点から間違っている


 ‥終業単位とした概念がそもそもにして、ヒトをレベル規格に仕立てる為の罠であって用では無い
 生涯学習ありきなら、おとな○○もありきでないと学習意欲など続くわけが無い

 それは、学者がどこから給与を得ているかでも明らかである

 なのでこのような内訳を「脳育目」と呼称しよう
 一方で基本的な衣食住の維持に求められる内訳を「生活目」と呼称しよう


> ‥研究の成果を
> 馬鹿の一つ覚えにも、価値ある何らかに商品化して売上にする必要は無い


 教壇に立つ自由があるとした選択支を、幅広くやれるならばそれで良い
 (ネット講義の中身を大学なり学会側が推奨するとかなんとか)
 (推奨される論文内容の講義を、映像化する上での教科書検定なチェックをすりゃ良い)
 (なにも教師資格云々でなくても弁はありだし、とくに若者なら尚更だろう、其もまた勉強だ)

 ‥判りやすい解説CGなどが、その流れで次次に生み出されると、教科書にも革命を得るはずだ
 (その手のCG群を、NHK特集辺りの制作待ちにしておく必要など無い)


> 消費が投資でもあるなら、消費額を創造して均等に配るとした考えになる
>(判りやすいCG群の制作にどれだけの費用が求められるかを理解しているのか?)


 誰かが稼ぐのを待つ、稼いだ分からの投資を待つ、どれだけ待てば全体で勤勉になるのか?
 (全体で勤勉になる確率を上げるには、利用可能枠を制限した形で配るのが手っ取り早い)


> ならば、ベーシックインカムは、脳育目と生活目の二段装填式で考えるべきである
> 科学発達に適った理解と民度を得られずして平和など有るわけが無い



1-3)1

 ‥とりあえずとして求められるのは、学習意欲であり、それに適った環境である
 だからといって、学習の学び舎環境に年齢差が激しくあるとどうにもゴタゴタが多くなる
 なので、生涯学習を推奨するからとて、どこでも学び舎ありきという訳では無い


> そもそもには‥独学性こそを身に付けるべきであって、規制教育に頼るべきでは無い


 ‥だが独学を推奨しようと、テーマを持たざるままでは何も始まらない
 便利な世の中になればなるほど、誰しも大抵のテーマから用を見失いがちである

 だからこそ規制教育の利点と欠点がそこに発生する

 なので規制教育の延長としても、なんとなく卒業したとて
 成績の更新を可能とできるなどの工夫が求められるだろう
 (大学卒ランキングをやるより、卒業後にも追加できる取得単位での数での等級でもやるべきだ)
 (科学が進むほどに、どれほどに科目が細分化するかなど誰にも解らない)
 (大学卒の意味からして問われてくるはずだ)

 ※参考程度に述べておくと
 水をテーマにするだけでも、論文を軽く100程度書ける程らしい(by宇宙な情報)


> 規制教育に求められているのは、基準となる目標値であって独学色でも独創色でも無い
> 過当競争による弊害が、そこを大きくねじ曲げ、勘違いを引き起こしている
> ここでの問いは、稼ぐ為や勝つ為の学びでは無い、思考に複合幅を身に付ける為の学びだ


 ‥より稼ぐ為に身に付ける学びの果てにあるのはズルやインチキだ、それの先手対策脳でもある
 ‥個性化教育のそもそもは独学ありきに育つことだが、結局は稼ぐ事へと追い立てられる
 結果、成果を急く性格が強調されがちとなり、協調性を欠きやすい

 独学はそれでなくても、各々で勝手に研鑽したきテーマを持つ事の推奨でもあるからして
 協調性よりも、興味関心への没入を優先しがちだ

 ある意味で科学教の創造だ、それがどのような科学だろうと何を好むかの違いでしかない
 (そして、それが失敗だろうと味わってみてこその学び方を又誰も否定できやしない)


> ‥他者の失敗から見て学ぶ
> 学習のそもそもはこれに尽きるので、創造力を苦手としていても何ら問題性など無い
> むしろ投資と同じ性質だ、歴史学習と同質だ、伝統を継ぐのも責任だ
>(結果待ちをやらかして自慢げなのも投資家だ、歴史自慢をしたい民族性とさして変わらない)



1-3)2

> だがしかし、科学問題をやらかした事に対しては、常に賠償がつきまとおう
>(とくに投資家はその点において全く責任なり良心の呵責が見られず欠如している)


 そして、自由脳からか、誰かに不自由を強いることになる結果ありきをエリートほど躊躇しない
 (トライ&エラーだからと、どこかで欠如している)

 だからといって、それらすべてを不特定多数で正当化できるという代物でも無い
 (集団での開き直りをやらかしたところで、課題解決も問題点把握も熟すことは無い)

 よって民主主義の多数決とて、科学の多様化と共に無意味な議論と化さざるを得ず
 (このような考え方は無論古代ギリシャに学べることでは無い、現代人こそ理解すべき世界だ)


> ゆえに極論として、誰だろうと宇宙の正体を知り得ない内は
> 多少学んだからとて、協調性確保、民度アップに期待できる程には成らない
> ‥とした意見も多くあろう


 ‥だが、ここでの基本的な理解要求とは
 思い込みでやりがちな危険行為に対する是非の判断力向上だ

 例えば、資本主義のやらかしてきた環境破壊がそれに当たる
 それはもうダメなやり方だと判ったにしても
 まだまだ知られていない「やったらあかん」は眠っている

 それらをやらかす前に事前判断できるように、地球全体での民度を上げようとの趣旨である
 その為には、知育でも無く、発想教育でも無く、理解教育こそを柱に沿えるべきと考える



1-3)3

> とくに教える側が注目すべきは
> 何だろうと理解できないでいる間には
> 何かしら付属的に脇に逸れた学びテーマがあるとして‥捉えられる性格を身に付けることだ
> (何事に対しても複合的により深く理解したき好奇心と学び力が肝心だ)


 だがしかし、人類の多くはなぜか苦手を克服したいとはなかなか思わない
 投資家にとってそれは、苦手を克服されても困るので釣り合ってきた

 投資家にとっての大いなるスキルとは、人付き合いの取捨選択だ
 彼らの能力主義嗜好はその点においてハンパない

 なので大衆を人付き合い苦手ありきに誘導してしまうことは、じつに戦略だった
 (誰だって馬鹿とは付き合いたくないと思っている)
 (その様な思念加速したままの世の中に未来なんかねぇ!!!)


posted by 木田舎滝ゆる里 at 06:13 | Comment(0) | 科特隊どころか無理だからウルトラ経済大作戦 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。