2021年09月25日

【ツッコミ隊】人道論VS人権論

記稿.2021/09/25

 人道論とは、そのままに「人としての生きる道とは何か?」を問うている
 完成形たる形があるのかというと、過去の聖人それぞれの解釈にさえ異なりを見せている
 それでも、人として基本的な正しくあるべき論は余り変わらない

 解釈として大きく割れるのは、人と大地に関わる点である

 人道論の感性では、スローライフを前提としてるので、科学的な見識を考慮していない
 それゆえに採掘資源については、如何なる聖人にも意見が無い
 生産する上でのエネルギーについても無口なままだ


> それを良いことに、地下資源で儲けたいと思った連中は話をすり替えた
> それが人権論だ
> 人権論を担ぐことで、すべてはちゃぶ台をひっくり返した様に入れ替わった


 ‥とくに、人権論に見られる信教の自由は、人道論から見ると明らかに矛盾する
 信教とした定義からして曖昧で、それの奥行きは、すべてを含み了承してあるも同然だ

 まず、信教の自由には、制限が伴うとした見方が無い時点で眉唾だ

 だからそれこそ戦争からテロまで、革命として行使することすら自由としている異様さだ
 多くの者らがその様に解釈しないとて
 解釈の余地と都合がある限り、人権主張の形としては有りのままになる‥

 ゆえに

 武力行使から人民を守ると言い張れば、武力保持だろうと正当化されるのだ
 そこに愉快犯との差の違いを推し量る余地があるとすれば、裁判処理だけだろう

 そして裁判を受ける権利などと言い出すと、処罰の延期を示唆するばかりの様相だ

 刑罰の可否でさえ、何を基準として定めているのかさえ曖昧で説明に乏しく
 結局は、法相の鶴の一声とした角度も見られる所もあり
 またその様なことからか‥
 人権を拡大解釈すればするほどに‥

 誰だろうとその行動に発生する意思は尊重されるべきであり
 罪に問うことなどできないと言わんばかりにさえ見え始めるのだ

 今や、そのような思想の保持自由も又人権として取り扱える様にすり替わりつつある
 それが人権保障たるきわどさとしてまかり通る明文化上等の日常だ


> ‥善も悪として作用するし、悪も善として作用するのだから誰も罰することはできない
> それが等しく公平であるとした見方である
> (否否、それでは三法としての覚悟がまるで見られない、貴様等の責務はどこにある?)


 ‥武力行使(ささいな殺傷を含む)とは、死の覚悟を以て行われたことなのだと定義づければ
 死の覚悟を以て処罰の憂き目にも遇うと‥法として宣誓されていないのではお話にならない
 すると、当然として、死の覚悟を示している形としてのそれを違憲には問えなくなろう

 だがしかし、誰がそのような性格の法を行使し、現場に対応するというのだろうか?
 それだけの備えを保持するともなれば、それの負担を誰に負わせるというのだろうか?
 人権思想の課題点とはまさにここで、丸投げで曖昧なままだ


> 王権とはなんだったかと問うなら、王威信仰だっただけの話で
> 民主化とは何だったかと問うなら、誰か任せ威信仰だっただけの話だ
> (そしてどちらともに、カネへの脆弱さを見るばかりで、威光も威厳もクソも見られず拝金だ)


 ‥ならば、信教の自由に制限を公平に課する方便としては
 後始末の責任とやらを盛り込むべきであろう
 それは、「人道に反すれば、教祖がすべての責を受ける」とした文言になるだろうか‥
 (教祖が存命にないのであれば、廃教に処せられるまでを意味する)

 すべての生産活動からして、信教の自由に乗っ取った行動原理の流れなのだから
 特定の宗教枠とした隔たりのある事からして不可解でしょうがない

 又、一連の生産活動が罰則により強制撤去されようと、それで滅びの危機を見ようと
 罰則が行使されぬ裁き無き裁きなど何の意味もない


 その手の課題の丸投げが民主的であるというのなら
 刑罰自体を無用の長物として扱う事こそを公平とすべきだろう
 だがそれもまた極論として遠ざけるのなら
 上に座るモノほど、あわよくば其に付け込もうとする脆弱さに満ちることになる

 とどのつまり、人権保障など過剰宣伝にあるだけで
 王政腐敗とした方向性と何も変わらない
 「正しく生きるべし」と単純に唱えている人道論の方がずっとまともで普通にあるのだ


> 「人として正しく生きるべし」と語られて誰しもが思うのは
> 「じゃ、あんたの正しさって何?」とした子供じみた反発であるにしろ
> 実際に問い掛けてるのは、「正しさを見極めて生きていけ」と語っているにすぎない


 ‥立憲とした社会観にかこつけて、法律に示されて無きは罰則無しだからと
 好き勝手やらかしても良いなどと‥解釈する信教を誰も正しいとは思うまい
 其が人道たる視点で在って、それ以上でも以下でも無い

 ならば、人権主義とは何かと問われたなら、明文化主義の糞マニア野郎と揶揄せざるを得ず‥



posted by 木田舎滝ゆる里 at 12:32 | Comment(0) | 日記/2021 | 更新情報をチェックする
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