2022年01月21日

【ツッコミ隊】勝者優遇(51対49)VSジェンダー多様性は矛盾した社会観

記稿.2022/01/21

> 男尊女卑のそもそもは、51対49の教育観と何も変わらない
> なのに、そこをスルーして、ジェンダー多様性を誇張するのは偏っている


 ‥どちらが不可解しいのかというと、51対49の資本主義観の方だ
 そこが何も変わらないなら、ジェンダー多様性など、たんなる混乱拡大の持ち込みだ

 支持数が上回れば正義、多勢勢力になれば正義とした考えの基に
 ジェンダー多様性を論立てるとなれば、結局は元の木阿弥にしかならない
 (所詮の数とは、ヒトでは無く資本の大きさにすり替わるのだからな)

 そういうきな臭さは、火を見るより明らかだ


> そもそものジェンダー云々が、競争社会の中での待遇改善スタートにある


 ‥底辺扱いのそれを普通視していきましょうというのは、分かるにせよ
 社会全体での普通視がどこにあるのかをスルーしたままの議論など不毛だ
 生活の水準からして、どこに水準があるべきかなんて、誰も論立てできやしない

 ‥まして、産業として負の構造が無いと回せないなんて状況では
 偏見も正当化にすり替わって、平然と‥不公平からして然るべきにしてあり続けるべきになる


 ‥ならば、ジェンダー云々自体を普通視するようになったところで
 電化製品が出た昔には、三種の神器で、主婦に大人気にあっても
 時代がちょっと経過しただけで、有るのが普通になり
 有り難みの薄れた感増し増しで、結局は人力の分散を言い出すのとさほど変わらない

 (有り難みとしての立ち位置は、それこそ能力ありき、とした中身に有り続ける)

 その能力にしたって、求められる水準が、時代の科学観と共に変わっていくわけで
 変わっていくだけの教育に付いていけなければ、それこそ、落ちこぼれへの偏見は強くなる

 ‥結局のところ、落ちこぼれへの偏見をスルーしたままだ
 (それこそ、ストレスの捌け口として居てもらわないのでは困ると言わんばかりだろう)
 (それって、男尊女卑観と何が違うってんだよ)


> ドジでも馬鹿でも、それなりにやる気になって生きていけるって空気とは程遠い


 ‥そうでないなら、ジェンダー云々にしたって
 あくまで、能力ありきの性多様性は、許容されるべきである‥程度にしか聞こえてこないのだ



posted by 木田舎滝ゆる里 at 16:27 | Comment(0) | 日記/2022 | 更新情報をチェックする
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