2022年03月16日

【ツッコミ隊】競争社会VS大人対応の間にある心理

↓2)記稿.2022/03/16

> 人生をたのしく感じるには、二つの条件を満たす用がある
> 一つは、自分が馬鹿でも大人対応して貰える日常が担保されてあること
> もう一つは、其に依存して生きてしまえるほどに、明るくほがらかに天然であること


 ‥つまり、自分がたのしく思える上でのお返しを
 天然であるとしたそれでお返しするようなチョイスだ

 (その先の成長を加味した楽しいをここでは扱わない)
 (なぜなら、そこにあるべき前提が、大人対応のし甲斐のある出会いを本懐とするからだ)

 (大人対応できるとした場を、人生の醍醐味、無上の悦びとして思い描けないのなら)
 (どのような世界だろうとすぐに枯れ果てるだろう)


 ‥だがしかし
 現代人はとくに、大人対応とした其を誰しもが好んで試みるわけではない
 性格の差が出るだけでなく、育ちの差から来る気持ちの差が出る事情を伴うからだ

 (大人対応できると格好いいとした気持ちが無いわけではないにしても)
 (世の中には、逆にとらえた空気とやらがチラホラとしてもある)


> 一般に、大人対応された経験値不足の者らは、積極的に大人対応したいとは思わない
> とくに競争社会においてのそれには、敗北感すら感じさせられるからだ


 ‥競争社会での大人対応には
 格上に対してペコペコするものだとした解釈も混ざり込む
 それのせいもあり
 半端解釈風情にも、取り次ぎの間を飛ばして責任者を呼ばせる風潮を当然だったりと思わせる

 そんなこんなの大人対応の代表格に、富豪の執事を挙げるなら
 執事を飛ばして、初見のくせに主人を出させるようなお客は、実は、その時点で格下になる
 其を理解せずに主人に取り次ぐばかりなら、そんな執事こそ不要だ

 (大人対応された経験値不足の者らは、とくにこの手の判断ができない)
 (困った時だけの殿様頼みというのも実はこれと同質で、厄介払いされがちだったりする)

 (などと云うことから、聡い領民は、領主の顔を見ちゃ感謝の顔で挨拶を心掛けてくる)
 (そのような光景が見られないとした社会性の方が却ってヤバいのだ)
 (まぁ全員が右に習えだとウザくなるので‥そんな領民ばかりでも面倒だけど‥)

 (だが挨拶をする領民はしない領民を格下に見下したりするので、実はとても面倒くさい)

 (元々は、殿様の方から領民に近寄るべきだが、それをやる殿様は多くない)
 (民主化ともなるといろいろとした見方が成立し、派閥も絡んでさらに面倒くさい)
 (そもそもの村社会にありがちな胡散臭さとは、挨拶しちゃう派閥のなれの果てだったりする)
 (民主化だろうと閉鎖的に流れれば、同じ顛末に陥るのだ)



1-2)1

> 競争社会において、なまじできが良くては、期待ばかりがのし掛かろう
> その手の者たちは、なぜか、その期待に歩調し
> 調子の悪い時の野次や罵りの方を避けようとするばかりで
> 無理に頑張ってしまい、そのような日常を繰り返し、無駄にプライドだけを強化する
> もとい、ストレス耐性を強化する(だが、心に破綻を起こせばなんとやら)


 結果として、大人対応を自らに味わった上で学ぶとした機会を、自ずと失うのだ
 (貧しさからの偏見を味わっていたりとするのも同質だ)

 ‥すると

 上に立った時、顎で使う・使われるとした空気しか思い浮かばない(最悪だ)

 それ以外のアイデンティティを噛み合わせずに
 できて当然、自分で考えて当然とした思考のみを前提に物事を押し進めようとする

 (格下から学んだり、手伝って貰う事はむしろ邪魔&恥)
 (むしろ大人対応される方が、舐められているかのように厚かましく思う事から)
 (積極的に、場の空気を読まずに、自分のペースでのみ物事を押し進めようとやりだす)
 (そんな思考の持ち主の心の拠り所は、格上からもたらされる情報のみだったりする)
 (翻せば、格上から大人対応されるとチョロい奴だったりする)


> 大人対応されると無駄にうれしい(其が明治の小学校のノリ&現代での幼稚園の空気)
> 明治の初期段階での小学校の教師は、教える内容も内容だったことから大人対応たり得た


 だが、そこにバリバリの学歴競争を導入した結果
 成績偏重で誰しもが育つようになり、教師の道に進むにしたって
 教えるというそれ自体が競争なのだから、優秀な生徒のクラスともなると
 大人対応など無用の長物とばかりの宿題の山になる

 (宿題の山をこなすことだけが優秀か否かのマインドしか培われない)

 結果、社会全体として、先生の質も落ちる所まで堕ちる所となった



1-2)2

> そもそもの人生観として「楽しい」とは、自分のこと以外をスルーして考えないことだ
> どう考えたって、楽しい人生観としての平均的な思索などその辺りになる


 天然で、明るくほがらかにあろうと、そこは同じだ
 同じでは無いと言い張ろうなら、それこそ成長しない馬鹿を演じなければならない

 (アニメ:こわれかけのオルゴール‥を見ていると実にそう思えてくる‥)


 ‥ならば、そのような特徴の人を友達にして
 彼・彼女を批判するようなら、批判する方が怪しく見えるセンサーと為せるにせよ
 そのような付き合い方を敢えてする事はほとんどない

 なぜなら、馬鹿が移るとした言い方のままに

 自分が相当にしっかりしていないと、彼・彼女からの学びを手にし難いからだ
 成長できないとした所から何を学べるのかとした問いを、多くの者らはスルーする
 (どっちにしたって、いつかは壁に当たるだろうに、其を避けてしまってはむしろ未熟の極み)


> 競争社会のままに、切り捨てることが当然の利とした思考では
> いつまでたっても、壁からの離脱は叶わない


 ‥最終的に、社会としてのモチベーションをどこから得られるかとしたうんちくだけになる
 「世の為、人の為を志しています」ったって、大人対応の毎日なんて誰も想像しちゃいねぇ

 そんなの社畜ですからと‥思っちまうのが今の時代だし
 だからといって、そつなく大人対応できたら格好イイと思い始めてるのも今の時代だ


 (親ガチャで損だったと言い張るなら、その視点レベルまでツッコむべし)



posted by 木田舎滝ゆる里 at 16:11 | Comment(0) | 日記/2022 | 更新情報をチェックする
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