2022年03月29日

【幸福論】足し算の幸福観と掛け算の幸福観

↓2)記稿.2022/03/29

> 通常の幸福論は足し算だ
> 欲しいと思ったそれを手に入れる
> (いつでも自由に手に入れられると尚良いとかなんとか)


 だがしかし、人類の多くが考えもなくそう思い満たそうとすると‥地球環境が崩壊する‥
 其を目の当たりにしているのが21世紀前半にある今だ

 自由論と競争論が担ぎ出した幸福への要望は明らかに誤っているか不足している
 そこを埋める為の理解を共有する上での理論が無い

 (平等性や公平観を持ち出してもなぜか多くに納得が行き渡らない)

 ‥それどころか、獲得した席や立場を手放したくないとばかりに抵抗する輩が後を絶たない
 負けているのにまだまだ上座に座りたいなどと言い張るのも、そもそもの足し算からの幸福観だ

 (足し算の反対である引き算を好まずに受け入れようとしない)

 そして、競争だから防衛も又手段とばかりに、あの手この手を繰り広げてくる
 だが、その手の手段が目的化すると幸福は創造され得なくなる

 (まさに足し算による腐った幸福観のなれの果てだ)


 ‥足し算と引き算による単純な理屈のままに、実に自分勝手を押し通してくる
 つまり、そこにある幸福の正体こそ、戦争上等だ

 私たちの世界は、そんな疑問含みの日常を平和とうそぶき続けてきた
 そもそもの其を経済戦争などと的を射て表現してもきた


> 戦争状態だからこそ、勝つ為の才覚を求められてもある
> そうだ、それは勝つ為であって幸福を得る為では無い
> そして、勝利に酔うことを以て幸福と思えてきた段階は、今やすっかりと枯渇した


 だがそれでも、日常の欲しいとした欲望は相も変わらずだ
 (誰もブレーキとした心構えを論破してくれやしない)



1-2)1

> そこで掛け算とした幸福観を述べてみたい
> 無論、掛け算の裏には割り算が在る
> まず、それはどのようなマイナスだろうか?


 例えば、経済枠による市民権とした考え方がある
 一万人規模、十万人規模を得るとまぁとりあえずの認知度の確かさを認められるみたいな空気だ
 つまり、全体での%比に置き換えて、ある一定の比率に達すれば目的を満たしているとした見方だ

 まぁ早い話が、信頼に足る比率に端境点を設けて、気持ちを丸めてしまおうというモノの見方だ

 (それにしたとて、それに何の意味を見いだせるのか?)


 自分一人だけの枠で観ているとそこに答えは見出せない
 自分一人だけの枠では、多分、ストレスや不安が軽減する程度だろう
 他者から一人前だとみられているとした自信が付きはじめる程度だろう

 実にそれだけだ、それだけでしかない
 自分一人を観ていると、実にそれだけだ

 当然のように上には上が居て、一歩先を行く背中を見る度にまだまだだとした溜息にもなる

 だがしかし、そんなのはどの段階に居ても同じことなのだよ
 あなた方の多くは、自らの向上心を鏡に映しては、笑顔を欺くことに熱心で糞どうしようもない

 そして、わざわざストレスに絶望を注ぎ込みたいかのように、さらに頑張ろうとする
 其は、未整備のままに飛ぼうとするジャンボジェット機でどうしようもない


> そこで掛け算だ、掛け算の幸福観ということになる


 それは、全体に求められるべき一人前が増えると、助けてもらえる比率が上がるのだから
 幸福度が高まるとした前向きな解釈での見方である

 一人一人が自らのストレスの軽減を実感する方向に意識を向ければ良い、それだけだ


 ‥無論、雇用が増えたとした数値には何の意味もない
 兵士数が増えても士気が低いとそれはいつでも崩壊するするダムの如しだ
 だが、兵士数が多少不足でも士気が高ければ心強い

 そんな単純な見方の中にある芯の部分を問うべきなのだよ



1-2)2

> お互いに、条件付きの幸福論を唱え合うものだから
> 不思議と奪い合う方向にすり替わる(もはや誰も否定し難き日常だ)


 そしてなぜか、理想が高ければ高いほど
 条件の高さを支持せざる得ないような不幸を引き寄せてもいよう

 まぁ不幸と言っても様々だ、その人の鈍感さや敏感さを含めて様々だ
 全く大したことがないような事象に反応して不幸を抱え持つなんてパターンまで様々だ
 逆を言えば、どうでもいいようなギャップにさえ幸福感を抱く事さえままならぬ様々だ


 だが、掛け算の幸福観にある条件には、個人的なそれが無い
 全体においてこれぐらいの比率が保持されていると、不思議とストレスに囚われない
 とした方向でのシンクロ性での理解なのだから、それだけだ

 (勿論、正方向へのシンクロが有り得るのなら、負方向へのシンクロも有り得る事に成る)
 (言わずもがな、社会全体で負方向なら、全ての幸福感は希薄に成り下がる)


 ‥例えば、冗談を口にする比率を考えてみよう
 それを数値化すると言うのは非常に曖昧でどうしようもないオチになりそうだが
 冗談を語る人物が一人も居ない世界とやらを考えてみた時
 居ないより居た方が良いと思う比率は決してゼロにはなるまい

 だが、冗談ばかりでも困るわけで、そこの比率となるゾーンが存在する

 毎日を笑顔で過ごせるに越したことは無いにせよ
 それをどう思うかにしても比率となるゾーンが存在する


> それぞれにそれぞれのシンクロゾーンが存在することを理解して共有することが大事
> と考えるのが、掛け算での幸福観だ


 ‥但し、現代社会のようにせせこましく条件が常に変動するような場合
 特定の想定に基づいたシンクロゾーンなど存在し得なくなる
 単純に其を多様化と表現するばかりだが、多様化の度合いも過ぎればなんとやらだ


 ‥競争の果てにもたらされるだろう淘汰には理解が伴っていても
 多様化の果てにもたらされるだろう淘汰には誰一人として疑っていないのは不可解しい
 そしてそれを置き換えれば、「吾が自由の敗北」とした意味になる
 (だからだろう、思考停止スルーって事で口にしないだけなのかも知れないが‥)


 ‥「シンクロゾーンに意味があるのか?」とした問いには
 「あなたのアイデンティティだと思っているそれに意味があるのか?」
 とした裏返しが潜んでいる

 (ならばその時、アイデンティティとして残るとしたら)
 (それは良い意味でも悪い意味でもタイミングぐらいのものだ)

 (幸福感のそもそもにしたって、根っこはタイミングにある‥)


> 結果、タイミングを競争しているのがそもそもで
> 置いてきぼりの比率の膨らんだ日常を格差と呼んでいる
> 私たち人類は、一様にタイミングの揃った社会シンクロを知らないままだ



posted by 木田舎滝ゆる里 at 01:05 | Comment(0) | 日記/2022 | 更新情報をチェックする
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