2022年04月15日

【幸福論】その一点において神にも人にも差なんてねぇ

記稿.2022/04/15

> 誰しもは自分のことを多く語らない、それは神とて同じだ
> 一神教だろうと多神教だろうと人格神だろうと根源神だろうと
> 自分・自分らのことを多く語らずに、自分・自分らの意図を推し量って貰うとしている


 (競争社会なら尚更で、自らを赤裸々に語る奴ほど口が軽いと見られて、むしろ訝しがられる)

 そのような条件下において、誰しもは、同じ選択支を過ちのように繰り返す
 「真面目にやらにゃあかん」‥その一点において神にも人にも差なんてねぇ‥


 ‥ところがどうかね
 神たる世界には、宇宙創世から人類創世にいたるまでのあらゆる情報を
 きっちり真面目に管理してあるというのに(アカシックレコード)
 その中には禁忌とした絶対的非開示情報を含むという

 その絶対的非開示率を問い質した見聞を知らないが

 仮にそれの絶対的非開示率が九割に及ぶとしたらどうだろうか?
 墨塗だらけの公文書が広がるばかりを‥神々の方針という事にもなると
 どうしたってうんざりしてしまうことになる

 (それはそのままに、失敗作とした人間側でしでかした内訳にもあるからだ)

 だから私たちにしたって、自分のことを多く語らないのだというオチにもなってくる
 (相手のことを訊かないとしたお約束でもある)
 お互いにその程度のポンコツだから、腹の探り合い上等という世界なんだなあと
 半ばあきらめと共に、呆れ返って納得せざるを得なくなる(絶望)


> だが、絶対的非開示率が4〜6割の間だったなら又違った解釈になってくる


 それは、この世には善人と悪人とした比率が、拮抗しつつ混在としていて
 お互いにしっかりやらないとすぐに黒く染まることにもならん
 それは自身にも言えることなのだから、よほどに注意しなければならない‥とかなんとか

 (前者が良いか後者が良いかは、実験的に創世される世界観次第なので、一概には言えないが)

 周りがありありの小悪党だらけにあるのと、善人とも悪人とも豹変するとも定かに無いのとでは
 性格次第では、前者の方が、自由でお気楽に映ったりすることにもなる
 つまり、小悪党同士のお約束の馴れ合いという奴だ

 一方で、平和的に真面目にやらないとならない上に
 平和的競争だ‥などと、ババを引くことにも成りかねないともなれば
 誰しもは警戒ありきの過度なストレスに落ち、モチベーションなんか上がらない事にもなってくる

 前者の場合は、勝ち馬に乗ることが条件となり
 後者の場合は、走っているレールに乗り続けられるかどうかが一般的にある


> 斯様にも、私たちの多くは、彼我の差を知ろうともせずに
> 彼我の差を広げるばかりの競争を人権保障されるべきであり正しいと思い込んでいる


 今や私たちのやらかしているのは、たったそれだけのパターンでしかなく
 今や多くがそれの有り体に溺れかかっているのに、改善の切り口を知らないままだ

 (彼我の差を知り、彼我の差を埋めようと志さない限り、打開など有りはしない)

 だが、多くの者らに見られる関心のある彼我の差は
 生活の差だったり、見てくれの差だったり、満たされているか否かの差だったりでしかない


 どのような差を埋めれば、全体での幸福に繋がるのかとした問いを基に行動するわけではない


 (そもそもからして、差を埋めたいなどと心の底から願っているとは言い難くどうしようもない)
 (私たちの内に潜む闇には、競争上等とした、貶めたき恨み辛みとした感情だって渦巻くのだから)


> なんだかんだと無意識の内に、自らの内面を非公開にしておきたい欲求をお互いに抱えており
> だからこそ、理解を得るには、積み重ねた何かを担保のように求め合う形なっている
> 常にそこから始めなければならないスタートという意味では、激しく公平だ


 そのような公平を拒否したいともあれば、そりゃ、奪ったりインチキしたりをしでかすのだろう
 はたまたレールから外れてみるのもありとやらかすのだろう
 だがしかし、結局は引き戻されるのだ‥なんという常套だろうや‥

 (その引き戻される度合いは、当人の本質の強さだったりとした個人差を見るわけだけど)



posted by 木田舎滝ゆる里 at 16:04 | Comment(0) | 日記/2022 | 更新情報をチェックする
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