2022年05月29日

【ツッコミ隊】この世は談合ばかり?

記稿.2022/05/29

> ダボス会議(経済フォーラム)もまた談合なのでは?
> ‥何気にそう思ったので考えてみた‥


 ‥まず、どんな世界だろうと話し合いの場は求められる
 そこを否定してしまっては、民主制も合議制も共和制も始まらない

 経済フォーラムとて意見交換の場であり(たぶん)

 お友達とした肩の寄せ合いはあるにせよ
 世界経済の成り行きに方向感を付けるという程度のもので
 まだまだ青写真を描きましょう程度のもので
 何もここで、切った張ったの分け前の取り分を決めるという段階ではない

 そう考えると、談合とした表現は必ずしも当てはまらないわけだが


> だがしかし、出席した経過として、話を持ち帰ることになる点は流れだ
> それはつまり、出来レースになりがちにもなるとした流れだ


 ‥学級での催しを決めるのに、誰か任せの学友はともかく
 話の詳細を聞きたい学友は、それこそ場を設けて話題にするわけで
 そういう面子の集まりこそエリート群にあるわけで

 (ならば、忖度するに決まってる)

 それの賛否の具合を、参加したメンバー側で共有するのも流れで
 それにうま味がもてそうなら、ゴーサインを発する側にしてみれば、談合相当だ

 だがしかし、自由な活動とした流れの中での結果談合だ
 毎回毎回に、思い通りに多数派を得て上手く行くとは限らない
 そういう意味では、ただの意見交換の場でしかない


> ところが、これこそが自由主義とした尊重をしたくもなる流れなのだろう
> 自由にやっているように演出でき、且つ、うま味にありつける‥もとい牛耳れる流れだ‥


 ‥其を、メンバー側が意識してやらかしていたともなれば、それは談合だ
 少なくとも方向性を得られやすいとした場であるなら、利用しないという手は無い
 ならば、誰しもは口に出さずとも貌に出しているのだろう

 だがしかし、取り分を決め合う場には無し(なので頭ごなしに談合とは呼ぶまい)

 だがしかし、命令やら指令の源とした見方をメンバー側で共有していたとしたら
 それは、談合よりも一歩進んで「組織会議」だ


> いやいやいや、談合にはお互いの縄張りやらシマがあるのに
> 組織会議ともなると、いつの間に「それの下請けやらされちゃってるの?」とした違和感になる


 ‥庶民が思い描いている民主化とは、全然、気色が異なる
 結局のところの自由主義としたなれの果てがそれだって事だ
 (如何なる世界にあろうとて、そうにならざるを得ぬ流れだ、其もまた自由なり)


 声を上げて、公の場での話し合いの場を設けた者勝ちで
 其に参加できた者勝ちで
 それの‥より中核とした席に着けた者勝ちで
 それ以上でも以下でも無いのが自由競争としたルールでの宿命だった

 (そのルールで行くと、会議を好むとした適性が無いとした時点で、負け組だった)


> まぁ学級での催しを決めるのに、誰か任せの学友風情にしてみれば、馬耳東風なんだけど
> 馬耳東風でしかない側に異論を挟む余地も無いんだろうけど
> 格上と格下で考えている「自由」の意味合いが異なっていることは確実だ


 ‥そもそもの自分達側の都合の良いようにしか考えない尊重こそ自由主義なのだから
 其を地で行く組織なんだなぁと高みの見物をするだけだ(まぁ部外者だし)


 ‥自由主義とは、平和主義を必ずしも含めない
 ‥自由の影には、様々なものを抱え込んで蠢く曲者が潜む
 ‥翻って、平和主義の裏にも、我慢を抱えたり、ストレスを抱えたりとしており
 ‥必ずしもスマイルに象徴されるような日常を指しはしない
 ‥庶民はそこを只の誰か任せなので、双方共に、スマイル一択にあると思い込んでいる
 ‥つまり、其を「お花畑主義」と命名して用いた方が語弊が小さい


> エリートは、自由主義(その担保を‥難解に明文化することで権利を主張する)
> 中間層は、平和主義(その担保を‥集会的に反対正義で権利を主張する)
> 庶民感覚は、お花畑主義(その担保を‥人として当たり前だからとして誰か任せを期待する)


 ‥互いの解釈には、勘違いにも、混濁があるらしい(語弊せずに認知すべし)



posted by 木田舎滝ゆる里 at 23:55 | Comment(0) | 日記/2022 | 更新情報をチェックする
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