2022年08月17日

【其は正しいか?】フィルムグレイン(化学班、化学紋、化学楔)の意味

↓2)記稿.2022/08/17

> 画像圧縮の際に、シロウトは、フィルムグレインの解釈で躓くわけだが
> それが何なのかを理解していないと、残念な圧縮にしかならない


 ‥確かに、気にせずに潰し込めば、圧縮率は上がるにしても
 大抵は、てめえが使用する目的外の利用において、要求を満たさない画質に成り下がる

 正規に映像を売る方にしたって、とくに、マンガ等の静止画など
 どのような機材に、それら画像を表示して楽しむのかを事前に説明もせずに売りつけている

 海賊版を流す方にしたってそこは同じで、お互いに欲求が違っていれば
 当然の如く、再圧縮願望を募らせることにも繋がろう


> そこは、解像度を選んで売る時代に至っていないからこその不始末をやらかしているも同然だ
> 否、お買い上げ頂いたからには、いつでも自由に別解像度を選択自由に選べなくては意味が無い
> (そのぐらいにやらないと、海賊版の排除には至るまい)


 ‥いつでも変更できるとした対価感覚での年会員制とした位置づけぐらいにはできる
 (されど、管理経費は、双方共に馬鹿にならない)
 (付け加えるなら、解像度×ビットレートの是非なんじゃが)



 まず、私たちの映像文化は、白黒写真に始まり、カラー写真にて激変した
 白黒写真は、印画紙に現像液とした兼ね合いで
 カラー写真は、フィルムを基に、印画紙と現像液を用いる

 まぁよくは知らんが、そこには化学反応が欠かせない

 結果、化学班、化学紋とした核となる粒子に、なんちゃらがまとわりつくことで
 反射を見せ、色を紡ぎ出している
 その当時、カラー化の際に色の手本とされたのは、述べるまでもなく鏡だった


> そもそもフィルム化された裏には、駒を繋げて試写できないかとした映画があった


 ‥つまり、映画が創造されて
 私たちの脳は、いつのまにやら、フィルムグレインありきにカスタマイズされたのだ

 なので、鏡と同じように再生されているとした思いこみの裏では
 フィルムグレインまでを、眼に、視野に焼き付けてきた

 だが、それをブラウン管を介して眺めだした時代、それがノイズの元だとは誰も考えもしなかった
 技術者の多くにしても、走査線や電圧差等での因果関係を思っていたぐらいだったように思われる
 (疑い始めたのは、デジタル化の際からだろう)



1-2)1

> フィルムを拡大すると、其を例えるなら、雨粒と同じだ


 雨粒を生み出すには、核となる粒子が必要だ
 粒子に水分子が絡みつき、なんだかんだで、雨になる

 だが、その核となった粒子はただのゴミである

 昔なら気にすることの無い程度のゴミだったにせよ
 今時代の環境汚染しまくった後の雨のそれは、得体の知れない発がん性物質かも知れないのだ
 それこそ、濾過しなければ、健康被害を免れないという怪しさを醸しだし帯びている

 (いわば、大気のお掃除こそが雨なのだ‥兼ねていて当然だ‥)


> 早い話が、フィルムグレインとは、色を纏わせる上での化学ゴミであると同時に
> まとわせた間にこそ、正しく反射して色を紡がせる上での化学クサビ機能を見せる


 結果、楔をゴミと見下して排除を決め込むと、回りの色は、基準を見失って正確さに欠くのだ

 ところが、そんなこととは露知らず
 デジタルカメラ草創期の進展を鑑みるに、必要とされる画素数をずいぶんとなめていたくさい

 1920×1080=2073600画素(200万画素)もあれば十分に思われていたそれは
 あれよあれよという間に、今や8k当然にまで至った

 そんなマスターデータとしての中身は、まさに光のスープで、化学班・化学紋なんてどこ吹く風だ
 きちんと調整して量子化してやらないと、きちんとした映像に仕上がらない


> だがしかし、私たちの脳は頑固にも、フィルムグレイン脳から離脱できていない
> なぜなら、フィルムグレインありきとしてこその映像文化スタートだったからだ
> 補正するにしたって、模範とすべきは、フィルムグレインありきのままなのだ


 それでなくても、光のスープを
 どうやって、格子状に並べれば正しいというのだろうか?

 鏡をお手本にしたところで、ピクセル単位に分解して変換収納するなどと言うそれは
 どうしたって、鏡と同じにはならないのだ
 それならばと、暗黙の了解だったのだろう、フィルムグレインありきに落ち着くしかなかった



1-2)2

> そしてそれは迂闊にも、今や8kを主流にしようとて、連綿と続いているのだ


 シロウトは、当然として鏡を理想として思い込んでいるのだから
 その手のフィルムグレインを潰し込もうとする

 (結果、てめえの想定した利用内でのみの綺麗さしか満たさない)
 (その手の思いこみが剥げ落ちれば、瞬く間に色褪せてしか見えないというのに)


 ‥その手の思いこみは
 肉は美味しい、骨は不味いとした大ざっぱな味覚と同じで
 スープにしてやると骨も旨いとしたうま味成分への理解に至るわけだが

 スープにしたって、結局は、具材と共に味わうモノなのだから


 シロウトほど、鏡とした畑を見て綺麗と言ってるようなモノでも
 一方で、それら意見の多くは、或る意味で進行形文化の否定でもある
 駄々の多い輩ほど、採れたて狩りたてをナマで食わねぇくせに
 出された料理の味付けに対して、好き嫌いをやらかしているだけとも言える


> 畑は大きければ良い事を、誰しも理解すれど‥手入れも面倒くさくなるからな
> 料理にしたって、好きな部位だけたらふく食える感覚の麻痺感ありありで、それの鏡似性くさっ


 (この手の幼稚さを説得しようとして、イタチごっこで技術を磨き合うのが文化らしい)

 ‥いつだって、素材を無駄にしないとした見方正義なのに(ほんと無駄)
 そしてプロだろうと、仕事に明け暮れて、基本の伝授の意味を欠く(むしろ秘守くさっ)


> 秘守の蓄積が巡り巡って、言語化を忘れ失い、本質を見失う(ほんと糞ッ)



posted by 木田舎滝ゆる里 at 15:43 | Comment(0) | AVC-Q | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。