2022年10月15日

【幸福観】幸福感と幸福バトルと幸福の選択の差

記稿.2022/10/15

> 美味しいモノを食べることが一番にしあわせを感じさせるなら
> それは即ち、殺生こそが幸福感にも繋がってこよう


 ならば、幸福の創造とは名ばかりで
 殺し合いの仕合方の創意工夫と言う事になる

 まぁこれは一見、極論だが
 幸福を追求する自由とした時代色を鑑みるに
 貪れば貪るほどに地球環境から継続性が削がれるのなら、その通りでしかない

 当然ながら、そのような幸福バトルの先に未来など無い
 未来を得られずして、幸福の追求とは聞いて呆れる


> だがしかし、食べることを拒否することも、滋養ほどほどで人生観を豊かにする事もできない
> これはつまり、絶望的にもまずは‥そういう世界だと言う事だ


 そこで二つの選択支が登場する
 誰しもご存じの「弱肉強食」or「共生」だ

 だがこの二つとて、継続性としたテーマに照らし合わせると
 なんの回答にもなっていない

 奪い合ったって、共生したって
 70億が満足する安全安心な生産力など有するところが無いからだ


 ‥この安全安心な生産と流通管理の用を、幸福とした概念から外すことはできない
 誰だって、身体に悪いとしたそれを口にしたくはない

 されど、儲かる仕事と儲からない仕事という仕分けがまずのし掛かる
 生産職も流通職も正直者ほど儲からない仕事だとしたら

 誰しもが‥「私は食べるだけ」とした怠惰でインチキなスタイルを幸福の象徴に据えるだろう

 そもそものそういった思考形態からして間違っている
 だがそれとて、継続不能に陥るからこそ間違っているのであって、可能なら必ずしもそうではない
 だが、不能に陥る世界像だからこそ誤りであると認めるべきが実際だ

 そこには「力こそ正義」とした見方も「無限に与えうる慈悲深さ」も存在してはいない



> つまり逆転の発想として、人類の多くが思い込んでいるだけで
> 幸福とした価値の追究には、それこそ何の意味も無かったというオチになる


 全力疾走する馬の鼻先にニンジンがぶら下がっていただけで、それ以上でも以下でも無い
 どうして目の前にあるニンジンをすべてだと思い込むのだろうか?
 其をすべてだと思えば、「七十億総死ぬまでマラソン」をし続けなければならない


 ‥出来てもいないのに「基本的人権の精神」などと掲げているのはなんだ?
 平等なのだから70億になる
 派閥を組んで自由に傾倒して、勝ち組だけなら問題ないとかそういうのは無しだ
 そんなのを真っ当な民主社会の方向性だとは誰も思っちゃいまい

 ‥だが、継続性にしたところで
 食べる側と食べられる側とした共生を謳うのだ
 そこに、正当な平等感など無い、ならば「平道」と改めるべき変革があるばかりだろう


> では問おう、そこにあるべき幸福観とは何だね?


 なーに、単純な話だ
 時には譲る・我慢する・しない・辞退するとした小さな慈悲の積み重ねでしかない

 だがそれにしたとて、向き不向き、重要と供給としたマッチング性課題が付きまとう
 大ざっぱにも自己満足し放題でも困るだろう
 君たちは普通に其を「犬死に」「無駄死に」と呼び、忌み嫌うのだからな

 ‥無駄に見えて来ぬ慈愛なんぞ無いにも関わらず‥


> 裏を返せば、有益に見える慈愛を求めたから「腐敗」に結びついてきた
> ただそれだけのことだよ


 だが今や‥どいつもこいつも雁首そろえて勝ち取ろうなどと誘導されつつある
 組織として動こうとすると、どうしたって、どんぐりの背比べとした方向性になりがちだ
 それに資本の理屈を正当として信じ切っていれば尚のこと
 あっという間に腐敗してしまうのが相場だよ

 君たちには、違えない自身への支持も賛美も無い、そんな合議や団結のどこに価値があろう



posted by 木田舎滝ゆる里 at 13:17 | Comment(0) | 日記/2022 | 更新情報をチェックする
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