2022年11月25日

【是論】競争に要する人権には、基本的管理権と所有権とした概念分けが必要だ

↓3)記稿.2022/11/25

> 現代社会がこれ以上の競争を続けるには、管理権と所有権を別にする必要がある


 ・基本的管理権とは
 個々に発生しているそれぞれを束ねたとて、個々の情報や主張は尊重されたまま維持され
 仕様を統一的に改めようとも、独占下とした概要から切り離して扱われなければならない。

 (ネット管理時代ともなれば、この感覚は至極当然です)
 (独占禁止とした概要に準じた扱いって所でしょう)

 (管理する側からすると、スパゲッティコードさながらなんですけどね)
 (まぁスパゲッティコード化してしまう理由としては、担当者のやっつけの連鎖って事ッす)
 (それに隠し事が隠れていたりすると、引き継ぎの際に表に出ない)
 (バレると困るから、改善への投資も提案もされない)
 (それでなくても自分の為した仕事に自負も有るわけで、やっつけ部分に関しては触れたくない)
 (格下に見られたくないから絶対に話さない、意図しない見落としぐらい誰にもあるよねみたいな)

 (技術の進歩なんて、結局は、誰かの尻拭いもとい見落とし発見の連続っすからね)
 (もとい、支持母体やら派閥の入れ替えって事ッスよ)


> 今現在の社会における所有権とは


 代替とする取引との引き換えにおいて、手に入るべき責任の引き受けとして機能し(株式など)
 代表たる格を認められるも、その管理運用に、基本的人権とした範囲での裁量を課されている
 ゆえに、其を責任の引き受けとして機能せしめるに辺り
 責任を問われ責が明らかとなれば、該当する所有権を剥奪される立場に置かれる(帳簿不正など)

 但し、責任とした内容は、それぞれの対象の理に沿うものとし、組織合議の範疇に留め置かれる
 ゆえに、剥奪権とした概要を盛り込むべき懸念を生じさせているも(第三者管理など)
 外からの監視による牽制を認めると、それが最強の権限であるかのような錯覚を巻き起こす

 ところが、所有権のそもそもが代替とする取引との引き換えである以上
 権利の剥奪には該当する其を、取り下げてから入れ替えて完結するわけであり
 組織が機能する上で、それが欠かせないなら、誰にも責任を問えないとした概要にしかならない

 (資本の引受先変更に伴う内輪もめ、面倒くさいから現状維持など)

 結果的に、個々の管理権たるサービスの享受を閉鎖して、肩代わりさせるような趣向になっている
 このような流れはどうしたって、権利剥奪の代替を認めているような話だ

 (所有権側は、空っ穴で去ることなく、サービスの停止で賄われるみたいな画図)
 (本質的には逆を主張したっておかしくないが、誰も言い張らない)


> このような状況に誰も意見を垂れないのは、基本的人権とした理解が無いに等しい


 ‥昔からお金と時間の比重は同じ程度に見られているのだから
 片方だけを主としている考えは明らかに異様だ(ユーザー等、参加者にも納得の行く結末を)

 ‥そこで、先に示した基本的管理権とした概念を導入し
 所有権に含まれがちな独善独断勘違いと区別し、管理権の剥奪に及ぶような威圧や再定義ではなく
 サービスの置き換えやら引き継ぎとした風潮を見せても良いのである
 (まぁ結局は、無い袖は振れないので、無視されて頓挫するわけですが‥)

 所有権を得る上で、代替とする資本等を主張するように
 経営に付きまとう諸々のサービス停止にも、同じように取り扱うとすべきで
 資本関係に付きまとう権限の移譲移動完了とするそれの理屈を当てはめるべきで
 代替とした何らかを用意しないままに、サービス停止など許されない
 とした考え方を公平性の常識として負うべきである
 (まぁ結局は、無い袖は振れないので、引き受け手が現れないと自然消滅するわけですが‥)


 ‥とはいえ
 スタンダードに無いからと、やる必要が無いとした空気のままなのは宜しくない
 (逆を言えば、やる必要が無い空気のままだと、撤退すべき状況を一人で抱え込むばかりでしょう)
 (やる必要というか社会的な処置として認知していれば)
 (早い段階での相談もやり易くなるぐらいの変化は見られるかも知れない)

 (まぁ結局は、投資の失敗が絡んでいると、債権者から突き上げられまくられるわけですが)
 (とはいえ、どこが引き継ぐのかとした論点の切り返しぐらいにはなるかも知れない)
 (始めからそっちに空気が向いていると、債権者側からの提案も出てくるかも知れない)
 (夜逃げされて、うやむやになるよりかはマシなはず‥)


 ‥基本的管理権とした概念を導入するだけで、そのぐらいに対話の中身が違ってくるはず
 (まぁ結局は、政府や行政側に、請け負う姿勢があればの話ですけどね)

 (こういう経営破綻処理の仲介は、人助けとした見方の方が強いので)
 (割って入って恩を売るべきぐらいが役人の甲斐性のはずっす)

 (それもすべきで無いってんだったら、救済法なんか身内を助ける為に発動するだけの方便っすね)
 (そんなだと、役人なんか吸い上げ装置扱いなだけって意味になって、要らねぇって話)
 (そのうちに、AIでも良いんじゃねぇってぐらいの論調になりかねない)



1-3)1

> では、例えを挙げて噛み砕いてみましょう


 ‥例えば、王様の鋳造権はなぜかそのまま保持されています

 (民衆からして見れば不思議な感覚です)
 (でもこれこそが、基本的管理権に該当するわけです)


 ‥そして通貨発行権、これはイギリスのとある一門が我が物として主張しまくっています
 しかも独占禁止法の例外として主張しまくっています

 (そんなんまかり通るのも不思議な感覚です)
 (まさにこれこそが、お金の元締めとしての所有権行使です)


 まぁ述べるまでも無く、歴史経過の末に、これらは表看板と裏看板で合体してしまってます
 (二十世紀は、ガチでお家の利権の奪い合いでしたから)
 (そこで、ロイヤルな味方は多い方が良かろうとかなんとかで、保守勢爆だったとかなんとか)
 (結果的に大ざっぱに云えば、世界中の王族は、遠かれ近かれ今やどこも親戚なんですな)


 でも、骨肉の争いとしたスタンスは保持されていて
 お金の量の取り決めの在り方に派閥が起きています
 つまり、世界中の投資の加減の大元がロイヤル群から始まるのです
 (民主社会なんかただの表看板なだけですから‥ぶっちゃけ今も奴隷制くさ)
 (少なくとも、一方の派閥は、未だに大衆を奴隷としか見ていない見下し派)


> ‥と言う骨肉の争いなので、所有権の主張はズブズブで「俺の物」発想がスタンダードです
> でもそれぞれの王様には鋳造権が保持されてあるので、一番の注目は資源採掘です


 ところが、紙幣発行権だけは、どこかと組まないとロイヤル間での支払いが通りません
 組まないとそれこそ只の紙切れなんですね
 (この感覚で言うと、デジタルで表現しようと同じって事っす)

 でも、紙幣発行権には原理的な無理が伴うので、誰が担おうと大した差をもたらさない
 (貴金属を裏付けにする兌換券だと、発行量が増えるほどに割り当て分にデフレが起こる)
 (貸付による権利を裏付けにした不換券だと、発行量が増えるほどに格差社会が巻き起こる)
 (どちらにしても金庫の中で名義変更されたログが、延々と記載されるだけ)
 (社会が混乱を見せようと金庫の中の名義変更下克上になんの支障も無い)

 ‥という事から、紙幣発行権を主張する一族は高みの見物で、勝つ方に着く構えっぽい
 (いやぁもう両方に投資してきたスタンスそのまんまなんですな)
 (なにはともあれ、金庫の蛇口の番人気取りなんすから)


 ‥ちなみに、ここでの兌換に求められる貴金属と市場価格とでは相場が異なってきました
 (今後どのように取り計らうのかは、まだまだ激戦中なので、謎っすね)



1-3)2

> そもそものロイヤルからして事の責任(地球環境の悪化など)を下に丸投げです
> このようなフラクタル構造が連綿としてあります
> このような状況をロイヤル側が覆そうとしたくも、違法とした見方しか無いのも現代社会です
> すると、駒の側が頑張らないとならないわけですが、そのような駒たり得るのはポチ体質です
> 駒同士は駒同士で、評価競争なので、結果が伴わないとレールから降ろされます
> 中には仲良しだけで固まろうとして、屑判定・敵判定されると降ろされます
> いやはや、やる気にならない仕組みなのに頑張れとかパネェ有り得ねぇ

> という事で、所有権者様の我が儘気ままな指令こそが神の御言葉の如く扱われる一方です

> だってポチなんだから、ご褒美が多いに越したことないじゃん
> 全体がどうなろうと背かず指令に従うのが第一で、その中身で競えば良いんです‥とかなんとか


 ‥だからこそ、評価のルールを変えれば良いんじゃねぇ?
 となりますが
 ‥所有権者様は、自分の駒が勝手をやらかすことをお気に召さないので
 なかなかどうして、社畜構造を押してきます
 ‥それのポチ群団にしたって、勝ち組とした保険を失いたくないと主張します
 だって、顎で使える部下がいるって、おいしいじゃんとかなんとか

 (そんな腸でしか無いくせに、選挙の度に「私たちの民主主義」を吐きまくるのだから嫌になる)



1-3)3

> さて、そろそろ問題発覚っす


 ‥これではいつまで経っても所有権者様の我が儘気ままな風任せ社会です
 ロイヤル群の任命責任という代物になるわけですが
 そもそもは、人に投資をしないと始まらないのに
 出てきた技術に期待して投資するだけの繰り返しです(しかも能力主義の椅子取り競争)


 ‥人に投資できないそもそもは、人民を奴隷として見下している派閥の大きさです
 技術をもたらす才能に投資するだけの社会教育規模でしかないので
 モラル等の民度改善には期待しようがありません
 (旧キリスト教派閥時代の黒歴史の延長みたいに、真に教育を施したくないらしい)


> 科学技術の推進だけで、モラル改善が見られた前例があるなら持って来いやッ(ボケッ)
> すべては割れ窓理論で実証されてる通りでしかニャ
> 敢えて有ったと言えるのは、「トイレの有る暮らし向き」ってなもんだけだろう


 ‥科学が進んでも公害公害また公害の連鎖で
 トイレ無きマンションを未だに財産っていう天然ばかりが支持される世界なんやで
 その昔にはトイレ無き宮殿をおっ立ててどや顔しまくりの血筋だったりするし、無理ッ
 (投資する側のセンスに、微塵たりとも、改善の期待しようが無い)


> というところで、意識の改善とした用向きも兼ねて
> 基本的管理権とした概念の導入から始めるのがステップとしての第一かと


 ‥面倒くさいぐらいに明文化主義の世界ですからね
 ‥解釈の仕方で、個々に語弊が付きまとったままでは拉致があかんのです



posted by 木田舎滝ゆる里 at 16:04 | Comment(0) | 日記/2022 | 更新情報をチェックする
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