2023年01月25日

【ツッコミ隊】自由を正しく解析すると格差上等に陥る

↓1)記稿.2023/01/25

> 好き嫌いに理由は無い
> むしろ、取って付けたような理由なんか後からいくらでも壊れる
> (後で壊れるぐらいなら、始めから無用なのだ)


 ‥だがしかし、そこに見られる好き嫌いの多くにしても、只のなんとなくでしかない
 只のなんとなくでしかないはずのそれに
 人類の多くが、オリジナリティを見出さんとしてすがり込む


> 自由を求める本質こそ、オリジナリティの創出にあるのだろう


 ‥だがそこには怪しさが付きまとう
 気に入ったか気に入らないかには、概ね、流行り廃りが付きまとう
 それは本当の意味でのオリジナリティたり得ない

 だが不思議なことに、大衆の多くは、それでも満足げだったりする

 そのような流動性を見せるお気に入り観こそが人類独特の特性だとすれば
 それはそれで一つの個性群たり得るのだろう

 だが其を「自由」とした言葉では誰も飾りはしないのだ
 其は通常「収集」と表現される


 ‥収集なる多様さとしての部分的な在り方を
 オリジナリティの創出として思い込むのは勝手だが
 大抵のそれは流行り廃りのどんぐりの背比べにハマりがちだ

 とはいえ、商う方としては有り難いことなので
 それをもひっくりめてオリジナル群として称するのもありだろう

 だが買い手の反応が、常に、定番たる誰かの創出を高評価しているわけでは無い
 そこはやはりシビアに流行り廃りに流されてもいるわけである


> それもまた自由だからという見方にもなるわけだが
> 人々の収集欲に流された創出には、すでに本来培うべきにあったオリジナリティとした影は無い


 ‥明らかに流動的なスタンスに堕ちたそれを、どうして「オリジナル」と呼べるだろうや
 理由として、あれこれ足せば流行りに乗れるからとしたオチがそこに在ろう

 それら多くの実は「迷い」であって、自由とは掛け離れてある

 「オンリーワン」と「ナンバーワン」との違いがそこにあらむ



1-1)1

> 自らに秘められたオリジナルを得ようと思えば、他者はただの参考にしか映らない
> だがしかし、それはそれで無味乾燥な見方だ(悩ましい)


 ‥そして気がつけば、好きなモノばかり集めていたりする
 ‥そしてそれはどう足掻こうとも、格差思考・偏向思考と化して行く

 人類の多くはそれにハマっており、だからこそ差別や偏見という鏡似性にぶち当たるのだ

 自由の弊害を理解せずに、自由のみ強調して見せたところで道は開かれず
 汝らのすがる只のなんとなく群とて、なんら意味など無しになろう


 ‥其を食事としてなぞらえるなら
 きちんと咀嚼して、消化して、滋養に‥きちんと動いて、血肉に転化させるべきになる
 そこまでの過程を得て、漸くに意味が発生するぐらいだ

 其は、思考の未熟が有ったとして帰結しなければ、学び取ったことにならん
 (おもてなしとして提供された類の思考たる想念原型に意味なし)


 ‥好きになるも嫌いになるも
 どう味わったか?どう理解したか?
 求められた解に辿り着けなければ、同じ問いを繰り返すばかりだろう
 求められた解に辿り着けないままを、自由などとは誰も呼ばん


> 集群として不自由きわまりない段階なのに、自分だけ自由というのも怪しげだ
> 一定の解に辿り着ける段階に達したなら、引き上げる側に回らざるを得ず


 ‥だがその時、オリジナリティと思っていた何かとて
 うんこのように排出されて、無用と化する流れを辿るのだ

 ‥その時に漸くにして汝らはこう思うだろう
 己に去来する‥訪れる問いにこそ‥オリジナリティを培うべき扉があるのだと

 (そこにはもはや、好き嫌いや自他の区別とした好奇心などほとんど無し)
 (訪れた問いに、自分なりに納得できる解を得られなければ、恥ずかしいと思うばかりだ)


> ならば、不得手については学ばざるを得ず
> 汝の心根が真っ直ぐならば、不得手の存続とは、得手者への尊敬の存続たり得ると思うべし
> 得手事とて、完全な形など無いと理解すべし(訪れし問いほど、魔物たり得るものだろう)



posted by 木田舎滝ゆる里 at 17:12 | Comment(0) | 是論 | 更新情報をチェックする
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