2023年08月11日

【宇宙全史】人生は遊べるオモチャなんかじゃ無い、だから遊べるオモチャが欲しくなる

↓2)記稿.2023/08/11

> 人生は遊べるオモチャなんかじゃ無い、だから遊べるオモチャが欲しくなる
> それは、絶望してしまっているようにも見えるし、一歩手前のようにも見える


 だが、誰もそんな見方になんか興味が無い

 興味が湧くのは、「何をオモチャにしようかな?」とした剥き出しの遊びたさにある

 其を‥エゴと呼ぶのも、自我と呼ぶのも勝手だが
 そこの多様性に何の意味があるのかまでは謎だ

 (他人様の趣味やら好みなんか、まさにどうでもいいワンダーランドだし‥)

 誰だろうと、そこここに興味が湧いて、遊びたいから飛びついているだけの事だ
 その衝動性を「サル」とも呼ぶが、まぁヒト種の劣化版がサル種だというし「猿」でも良いと思う
 人の猿っぷりにも、様々有りましたというだけのことだろう

 (なんでも、地球に調査に来たプレアデスチームは)
 (コソッと猿の遺伝子をてめえにお注射したらしいという謎記述がしたためられてある)
 (どうにもそれが‥子孫へと拡散したのだろう)


> だが、なんでオモチャを欲しくなると、低脳とした猿扱いになるんだ?


 まぁ人間に関して言うなら、それの大抵がヒトの間に発生するからだ
 ヒトがヒトをオモチャにして遊ぶという其を指してある

 もう少し食指が伸びると、別の種の生きものとなり

 動く構造を知る為の調査をしたり、製造してみたり、動かしてみたり
 世界に閉じ込めて、繁殖させつつ観察したり‥


 とまぁ、ヒトに課せられた実験側のそれに近しい欲求をヒトも求め出す

 つまり‥人生=被創造物立場は詰まらない、だから、創造側に成りたかった‥

 と本能的にキャッチして、それの意味が解らずに、ノイズとしてダラダラとやり合っている
 その途中経過が、力こそ正義とした支配と被支配の間なのだろう


 (‥もっとも、それの関係からして、マトリョシカ構造だったとしたら)
 (途中経過におけるマトリョシカが)
 (小さいマトリョシカを、我の支配下だと主張して一歩も譲らないなんて事にも成っていそうだな)
 (だからこそ、ノイズ感ありありな調教的ポチ状況なのかも知れないな)


> だが本当は、創造側への道に進むのが本道らしい(真我)
> 親マトリョシカ(真我)としたサイズ感こそが、本来あるべき成長の先にある脱皮‥みたいな


 でも実際はそうでは無い

 ヒトの多くが、詰まらなくならないように、一生懸命に楽しもうとして頑張ろうとする
 その猿な有り様を観て、自己満自我を育て合っているとして、創造側が不合格を下すのだ

 (僕も私もこのぐらいのサイズで十分ですと言わんばかりで、使えねぇみたいな)

 (まさにそれこそがプレアデス失敗作圧しくせぇ)
 (失敗作が語ります「宇宙の最後だろうと楽しいことを考えましょう」とかなんとか)


> なので、本能的にオモチャが欲しくなるのは、学ばせたいとした仕掛けだからだろうけど‥


 でも、ヒトがやらかす辿り着いたオモチャこそヒトだ
 だが、ヒトにも厭きるのがヒトだったりする
 お互いに遊びたいオモチャのうんちくを語り合って、気が合わないと、喧嘩別れしたりするのだ
 でもやっぱりまたオモチャが欲しくなるので、同じ事を繰り返す
 良い意味でも、悪い意味でも、同じ事を繰り返す

 ‥オモチャやゲームが簡単すぎると詰まらないと言い
 ‥オモチャやゲームが難しすぎても詰まらないと言い
 ‥難易度ふつうぐらいが楽しいと言うも、結婚相手がふつうだとリスク大で嫌だとか
 (背伸びさせたいのが親心、背伸びしたいのが娘心などと‥何様かを言い放つ)

 その姿こそ、人生を遊べるオモチャか何かだと勘違いした姿と言えるだろう



1-2)1

> では、「人生は遊べるオモチャでは無い」とした意味とは何なのか?
> という人生謳歌脳から見て、まったく真逆のアプローチを持たないと
> 「宇宙即我とした私を識る」無理ゲー攻略には至らないらしい


 ‥似たようなそれが釈迦の「生老病死」観になるわけだが
 生にせよ苦しいものだとの見解は、今どきアーティスト観とは異なるわけだが

 なにも、そこのバランス感覚を均に正せと
 死もまた素晴らしいものだ‥とすべし方向に言い放っているわけでは無い

 好みのアンバランスで眺めては、「生老病死」とした見方での本質は見えてこない
 (そういう事らしい)


 ‥宇宙全史とした見解から逆算して目測すると
 「生老病死」からの解脱を問うている意味こそ、尊厳としての私をどこに置いているのか?
 「天上天下唯我独尊」と言い放ってあるほどの私をどこに置いていたのか?

 (とてもじゃないが、私たちが平均的に口にする「人権」程度であるわけも無し)

 そこに私なるを据えると
 仏陀の大悟もとい慈悲をなぞらえられるのかも知れないヒントがそこにある‥みたいな


> まぁ愚直に、結果上等とした思考しか認めていない脳だと、辿り着くには程遠いくさいと
> 「私が在る」とした結果は、すでに在るのですから


 ‥なら、その境地には、それこそ
 楽しいひとときなり体験を得たいとか‥無意味に思うばかりに近しい感覚悦が有りそうですよね


 ‥自我がそこに在るばかりの真我を認められない、認知できない引っかけがあるみたいな
 (馬鹿シンジと同じ空気を吸うなんて我慢できないアスカがそこに居るみたいな場面)
 (陰キャを見つける度に陽キャが「ムカツク」言い放ちたくなるようなどうでも本能)

 (地球実験中の人類の平均値が、失敗作くささありありで今そこ‥詰んデレみたいな)



1-2)2

> では、「だから遊べるオモチャが欲しくなる」
> 其は、絶望的な無理ゲーからそっぽを向く為にだけ機能しているのだろうか?


 ‥まぁ落ちこぼれ対策とした素地はあるだろうね
 ‥まぁ落ちこぼれ対策とした素地はあるだろうね
 ‥まぁ落ちこぼれ対策とした素地はあるだろうね

 其をお為ごかしにも「愛」と呼ぶようになり
 モチベーションを競うように成ったのが運の尽きみたいな

 「もっと私向きのオモチャはありませんか?」方向に崩れてきたぽいと

 そして、より楽しめるオモチャをもたらす輩を評価する文化にすり替わったのだった
 そして、オモチャの利権を手放せなくなった輩のインチキ劇場が踊りだしたのだった

 (その一等席に座るのがトレンドとか、思い込んドルどえむ)
 (そのオモチャ屋さんの呼び名は「死の商人」「エージェント」「暗殺者」とか言う)


> だからといって、その一等席に座ったからと言って
> 希望に満ちて、絶望が遠ざかるなんてオチに無きは、地球の今現状を慮れば明らかだ


 ‥真我から見て、こちら世界は幻想だと言われている
 「そこを勘違いしてはいけません」というのが諸々覚者のお言葉なのだが

 目の前のオモチャにうだつが上がらないとばかりに、オモチャの奴隷に堕ちるどえむ
 そのオモチャを「プライド」「老害」「堕天使のささやき」とか言うらしい


> 所詮は落ちこぼれから見て、高嶺の花を、押し入れにしまっておきたくなる衝動みたいな
> エロ本を積み重ねるのが趣味・目的化してしまい、落ちこぼれ対策の意図から外れた模様くさっ



posted by 木田舎滝ゆる里 at 11:20 | Comment(0) | 黙示録 | 更新情報をチェックする
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