2023年08月29日

【詩】天上天下唯我独尊

↓1)向宜詠吟.2023/08/29

世界とは私である。
だがその世界とて、不思議と派閥で構成されてある。


私以外にも存在が居るというのに、それもすべて私にあるのだ。
目の前に広がる「生老病死」たる苦しみのすべても‥私が創り出していた有り様だった‥

それが、「世界と私が繋がってある」というなんという無常、無情、無上‥

なんという無力、なんという非力、なんという傲慢‥
私は、それすら理解できずに救いを求めてきた。否、理想たる世界を求め問うてあった‥

私が私を意識する私たる世界において、私を救えるのは私のみであった‥
そこでは、私の心のみが比重を占めてある。
他者の介在など見えているだけで、無いも同然だ‥
私から他者を救い得るかと問えども、できることは私自身を私がどうにかする所からのみ始まろう‥


その証拠に、誰の声も、誰の汗も一時を生かしはすれど、私の今を、永遠を、満たす所には届かない。
それは私に、「世界とは私である」とした実感が伴っていないからだ。

ならばこそ、私から怠惰を好むばかりなら、世界は怠惰を成し遂げんばかりだろう。
ならばこそ、私から正義を始めぬ限り、世界が真っ直ぐに成るわけがない。

なんという果てしなき道のりだろうや‥
さてさて、本当の意味で、私は、何を正しさとして望んでいたのだろうや‥



1-1)1

世界とは私である。
だがその世界は、不思議にも派閥で構成されてある。


否、私を基軸に添えるならば、引き合うエゴと引き合わぬエゴに満ちてある。


そして、世界に有るすべてのエゴを捉えられるほどにヒト一人の器は大きくない。

言ってしまえば、誰だろうと、存在にある世界よりちっぽけでしか無いのだ‥とも言えよう。
無理にその全てのエゴを許容しようとすれば、私たる器が壊れる。
健康を損ねるという次第にある。仮にそれが真実なら、無理はしかねる次第なのだ。

まぁ中には健康を犠牲にしてでも、他者を犠牲にしてでも
エゴを束ねれば大きくなれると思い込んでも居ろう。それが「力こそ正義」とした殺伐さにあろう。
だが、所詮は病むのだ。腐るのだ。私の器の大きさが変わることなど無い。


大きく成れた‥なんて思い込みたい様こそ中二病だよ。(なんとザマァな中二病だろうや‥)


私にできる私への救いとは、私たる器を澄ます事だけにある。
他者の器を濁らすばかりなら、いつまで経っても私たる器の澄むに能わず。
それが辻褄というものだ。なんという恐ろしい世界だろう。

私の正しさとして、まず私を澄ます事かなわずして、どうして他者を導けるというのだろうか?
それこそ「理想が高いとは何か?」にも気を張らねばなるまい。

志に低き私のままでは、「私とは世界である」に胸を張るに及ばぬのだ。
だが、悲しきかな、すべてのエゴについて網羅・把握していない様では澄むに能わず。
それはそれで、私に挑戦を‥敗北を‥失敗を‥誘い追い求めて迫るかにも見えてこよう。


それでは、私の佇まう世界は、どこまで行っても、「学べ」と言わんばかりではないか‥


ならば、すべてから等しく学び合うエゴ(志)を持たぬ輩には、平等などあるまい。平道もあるまい。
常に安らかず、悩ましき「生老病死」からの鬱やら攻撃に晒されてあるばかりだろう。
又、自らに学ぶ姿勢を保てぬ者は、研鑽を始められぬ者らは、自己嫌悪ばかりだろう。


それこそ、身に覚えにあるなら、それが「世界とは私である」‥この世界の辻褄にあるのだ。


|ちっぽけな目標踏みね秋の空 振りかえ見ゆる秋の声来よ



> うた詠み終わります、ありがとうございました。



posted by 木田舎滝ゆる里 at 15:02 | Comment(0) | | 更新情報をチェックする
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