2023年09月05日

【詩】運否天賦

↓4)向宜詠吟.2023/09/05

「世界とは私である」と言えるなら
「運否天賦とは私である」とも言えるだろう。

それが、些細なチャンスを引き寄せる事であれ
それが、戦場から無傷で帰還することであれ
それが、椅子取り競争で椅子に座り続けることであれ

選ぶ場所とタイミングを違えなければ、そういう事も成り立とう。
だが、一般にヒトは、三つの思いこみとした運否天賦の狭間に溺れるのだ。


まず、ドッチボールを例に挙げてみよう。
そのとき、一番に単純な運否天賦とは、ボールに当たらないことだ。

それには、ボールを取ろうとしないことが第一だ。
だが、ボールを取ろうとしないのは、ドッチボールに参加していることには成らない。
だから、無理にボールを取りに行こうとするものだ。
すると途端に、ボールを取りこぼすとした確率が発生する。

とはいえ、何ごとも無く過ごせればそれで良いだけなら
「取りに行かない」とした運否天賦も有りである。そういう運否天賦もあるのだ。


だが、大抵の者らは、その基本を失うのだ。
(今一度確認しよう。運否天賦とは私である。私の望んだ形がそこに現れる。)


次に、大抵の者らが思う運否天賦がある。
それこそ、戦って傷付いたとて、一命を取り留めて生還するとした流れが其れだ。

だがそれもまた、ドッチボールをして遊ぼうとしているのと同じだ。
「赤紙で召集されたからには勝って帰らなければならない」とした思考の中を彷徨うてある。
それは必然的に、何ごとも無く過ごせればそれで良いなどとは、程遠く、思考も気持ちも溺れている。

だから、成り行きに対して願っている形が誰だろうと曖昧で貧弱だ。

それはもう、経済とした日々の奮闘奮戦がそうだ。
誰かの犠牲を余儀なくしたとて、勝ちにこだわる渦の中だ。


結果的に、何かを失うことを捧げてしまっているようなオチが、始めから付いて回るのだ。
(今一度確認しよう。運否天賦とは私である。すべては私の望んでしまった結果だ。)


さらに、勝ちに特化した自惚れた其れを運否天賦などと思い込んでいたりするものだ。
伝統だからとか、加護があるからだとか、諸々と優勢だから‥などなど‥
ついつい、自らのモチベーションを上げんとして調子に乗りすぎるお門違いだ。

競争をして相手を追い落とそうとしているのに、そんなの関係ねぇとしてリセットができない脳だ。

そもそもは、「戦うからには絶対に勝ちたい」とした願いから運否天賦が発生するというのに
勢い余って、自分らこそを有位に思い込んでしまう‥不思議がそこに起こるのだ。

ここまでともなると、それはもう、願いと言うよりは、呪いの類だ。
確かに‥多少なりとも洗脳とした部分は見られるのだから
勢い余って自らをも呪ってしまうのだろう。

そんな指揮官を戴いてしまっては、もはや運否天賦も糞も無い。(残念)
だが不思議と、そこまでの状態に陥っていると‥組織を疑わずに戴いてしまっている情勢だ。
(バンザイ突撃みたいな‥バンザイクリフみたいな‥ブースト接種みたいな‥)



1-4)1

世界が私であるならば、抵抗もすれば反撃だってする事に成る。
運否天賦が私であるならば、敵の想定外を思いついてなんぼだ。
どうなるかなんて、それこそ判らない。


ならば、どう運否天賦を引き寄せるべきだろうか?
そこで私だ。まず、私が何者なのかを知らなければならない。


自分に真っ直ぐである時、チャンスが公平にこちらに向くというのなら
正義も悪も糞も無ぇ、てめえが何者であるかに真っ直ぐに務めれば良い。
其を踏まえて、一丸に成って協力すれば良い。確率は高まろう。


だが、大抵の者らはそんなの知らないし、始めての体験やらパターンには迷うだろうし
一般論で、正しいことをすれば大丈夫だなんて、糞当たり前の様に思い込んでしまってあろう。

だが、其れでは駄目だ。
其れでは、てめえに対する矜持が足りていないのだ。

(てめえに矜持を持ち合わせていないなら尚更だッ)

てめえの矜持に従って真っ直ぐに進もうとしない限り、運否天賦は振り向かない。
なぜなら、己の胸に戴いた矜持こそが私とした力であり、己を生かそうとするよすがたり得るからだ。



1-4)2

だが大抵は、始めてのケースだったり、今やどん詰まりパターンだったりで
どうしたら良いかに悩ましい。そして、そんな悩ましさにすら無頓着にあろうとしていたりする。
そんなのは、まったくに駄目駄目の最悪だ。

ゆえに、全体として矜持が薄まるケースにも見舞われよう。
お互いに自由上等とばかりに、そこに疎いのでは、とてもお話にならない。

一方で、てめえの矜持を持ち上げようとすると、どうしても他人の矜持が目に余り出す。
そこで競争とばかりに凌ぎ合おうとする。その安直さがまたまた宜しくない。


例えば、学校を出たら仕事に就かなければならないと思うのはなぜだ?

そこには税金を納めるべきだとした圧があろう。
圧が無ければ無いで、家の手伝いが相場になる。
売上を気にする必要になければ、人手が欲しければ、友達から誘うだろう。
知らねぇ奴なんかお呼びじゃない。それが人の間とした空気だよ。


だが、税金を正しく納めれば、世の中が上手に回るとした前提に圧されてある。
魅了されてある。思い込まされがある。

そのままの勢いで、才能だ努力だ売上だ‥なんだと凌ぎ合う‥それは何だ?

そうだ、まさに思い込まされであろう‥その通りでしかない‥
其はことごとく裏切られ、すでに誘惑と化しているような惨状だ。


‥政策に協力していただければ、補助金が出ます。まさにそれだ。
‥それで世の中が丸く良くなっているなどと言う実際は1ミリも無い。
‥あるとしたら、てめえに都合の良いお得があったぐらいの中身だ。

その程度だよ。

裏切られてあるのでは、自らの矜持にだって影響を及ぼすというものだ。
なのに其に無頓着では、矜持も糞も無い。

自ら、自らを裏切った行為にそそのかされてあるばかりだろう。
そんな私に、力の発生のしようもあるまい、それが辻褄なのだよ。


‥それでも運否天賦が舞い降りたとしたら‥


其は、誰かが、レールには乗らずに別の意味で歯を食いしばって、己を貫いたからだ。
良い意味でも悪い意味でも、それが辻褄だ。それが視界だ。

だがしかし、そんな奇特な誰かの矜持は、とても複雑で謎めいている。
良い意味でも悪い意味でも、それが辻褄だ。それが視界だ。

ゆえに、始めから理解を共有して貰えるなどと思うべからず。
てめえの複雑さをてめえで理解するなら、てめえから現状を批判したるままの裏返しにあろう。
良い意味でも悪い意味でも、それが辻褄だ。それが視界だ。

良い意味でも悪い意味でも、てめえとした矜持に善も悪もねぇ、お互いに両刃の剣さね。



1-4)3

例えば、私にはお金を引き寄せる才覚があると‥そう理解したとしよう。
ならば、遠慮する必要は無い。そういうのも矜持だ。

だが、実際に引き寄せているのはお金だけでは無い。
ヒトも引き寄せられてやって来る事になる。

でも、なぜか、その手の矜持を抱く者ほど‥
ヒトを選別するのが好きだったり、ヒトの好き嫌いが甚だしかったりとするのだ。実に不思議だ。


一方、私にはヒトを引き寄せる才覚があると‥そう理解したとて
そうだからとて、お金にまで縁があるとは限らない。実に不思議だ。


どちらも半々ぐらいだったりすると、成功もし易いのだろうけれど‥
なぜか大半の富豪は職人肌では無い。金の勘定が上手なだけだ。
失敗作にも味があるだなんて思いもしない手先不器用な頓珍漢ばかりの集まりさ。実に不思議だ。

それはつまり、本当の意味での育てるとした指導力の欠如を意味する。
でも大半の富豪は、自分には指導力があると思っている。実に不思議だ。

ヒトを‥ロボットか、ゴーレムの様に操るとした指導力ならあるのだろう。
それにしたって、成功しているのなら、それも一つの指導力たるのだろう。

だが、ヒトを人たらしめるプロにあるとは言い難い。それも又、世に格差ありきとしたままの辻褄だ。
大半の富豪は、格差解消などとしたそんなことにまで興味が無い。
それはもう‥「てめえの尻は、てめえで拭くべし」と言わんばかりでしかない。


そうだ、私とは何かを理解し、私の器に添うなら、私に運否天賦をもたらすのに無理ぞ無し。

そしてその運否天賦が、日々のサービスに見られるだけのお得に齧り付けるだけだとしても
それが貴方の自然体としたマイペースなら、それ以上にも以下にもなるまい。そんな運否天賦もある。

それだけの違いが大きいとして、残念として、手順をすべて端折ろうとするから駄目になる。
端折らせようと仕向けられてもいるのに、気がつかずに、真に受けるから駄目になる。


そもそも、貴方の「こうありたい」を貴方以外に誰が解るというのだろうか?(其をまず理解すべし)



1-4)4

今一度確認しよう。運否天賦とは私である‥迷い無き私が私としてそこにありたい姿なのだ‥
ならば、未だ迷いがある内はとても無理である。迷い無き私にはとても遠い。


さりとて、迷うには迷う理由がある。とても不思議なことだ。


どうしてそんな迷いが、私に用意されて付きまとうのだろうか?
それは迷いたいタイミングだからだ。

どうして、私の気にすることと気にしないことが、誰とも微妙にずれてあるのだろう?
それは私とした運否天賦の形が、誰とも異なっているからだ。

それ以上に理由が無いとしたら、それ以上に迷い悩むのは無駄だ。


だがそれとて、世の中には、理解し合わない圧というものが付きまとおう。
運否天賦を奪い合いの椅子取り競争だと思えば、思うほどに入り組んで来るものだ。

それは、偏見だったり、思いこみだったり、常識やらマニュアルとした隷属癖だったりとする。

てめえにしたって好き嫌いを保持しようとしていたりだよ。
其は、それら裏返しを抱えたままだ。

ゆえに、迷いたいタイミングなら、思う存分に迷いしまくるのも有りな話さ。
存分に駄々をこねてみて、相手の非を探り合うのも有りな話さ。
其もまた勉強なのだろう。させられてあるのだ。


世の中の圧の違いをまだまだ識り足りていないからこそ、迷っている姿がそこに生じてもあろう。
そうだ、お互いに、不思議と奪い合いだと思い込んでいる。不思議な相克だよ。

てめえの迷いに理由の焦点を見いだせる様になれば、そりゃまぁ運否天賦を掴みやすくなるだろうよ。
てめえにとっての圧の違いを識るには、その迷いたる時間がとても重要なことらしい。

それが他者より先んじるとしたちょっとした違いでしかない。

てめえにとっての肌に沿わないタイミングやら人間関係を瞬時に避けて通るというそれだけの話だ。
てめえがてめえに約束した礼儀作法みたいなもんさね。

そこに理解が及びと、今度は逆に、相手の纏う作法を蔑ろにはできなくなるものだ。


そういうものだが、時には作法を蔑ろにして来る輩も現れよう。
あの手この手と‥とても不思議なことだよ。
それこそ、運否天賦を試してみたかった私が居たとしか言いようがなき事象だよ。
愚かにも、人生をスリルに楽しみたいなどと思ったままだと言うことだ。

「答えまでは教えてくれなくて良い、コツだけ教えてくれ」‥そうに思うなら大概だな。



> うた詠み終わります、ありがとうございました。



posted by 木田舎滝ゆる里 at 12:26 | Comment(0) | | 更新情報をチェックする
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