2023年09月12日

【ツッコミ隊】記憶を失って生まれることは、祝福だろうか?呪いだろうか?

記稿.2023/09/12

> 記憶を失って生まれると言われても
> 気が付きゃいつの間にか「私」という感覚が有り
> それがわたしという肉体に関連付けられてある


 誰だろうと、それが気に入るも気に入らないも知ったこっちゃない話で
 私とした自分との付き合いをせざるを得ない

 (記憶を失う事への恐怖なんか1ミリも覚えちゃいないのだ)

 だが不思議なことに、一つ一つのことを覚えていく事への好奇心は人それぞれでバラバラだ
 特定の分野になると生き生きとしてスイスイと頭に入っていく
 そんな感覚は、覚えていくと言うよりは、思い出している最中なのだろう

 (だが誰しも、それを適正だと判断し、思い込みたくも、地球の人口は多すぎる)

 ‥負けず嫌いで色々と試してみたけど、結果知れたのは、自分が器用貧乏だった事実とか
 ‥負けず嫌いで一途に頑張ってみたら、実は一つのことしかできないタイプだったとか
 ‥負けず嫌いで凝り性で、それこそ周りが見えない職人肌だったとか

 (負けず嫌いも程々にすれば良いのに‥と思うも止められないのだ)


> そんな負けず嫌いの御仁らが、例えば、自分の正体だけを覚えていたとしよう


 正体を知っていたって、それに見合った遺伝子を内包してなかったらどうするよ
 それはそれで相当に頑張らないと、正体に恥じぬ実現を得るに及ばないのだ

 死ぬほどに泣きたくなるほどに大変だと初めから解っていて目指せるだろうか?
 それとも、肉体の可能性と相談してから、適性を確認後に、目指すべき目標を変更するだろうか?

 (まぁ自分の正体とした前世なんちゃらとは時代も違うし、同じ事をする必要も無い)
 (だが不思議と‥上か下かでしか見ないプライドありきなら、堕ちやすい‥)


> では、自分の正体は忘れて、様々な情報だけを覚えていたらどうだろうか?


 所謂、神童になぞらえられるタイプだが、情報の質次第では、途中で息切れするだろう
 その間に、いい気になって好奇心を磨いていなかったなら、一気に落ちこぼれにハマるだろう

 だが、どこまでも知ってる様な情報ばかりだと気が付いたとしたら
 自ら好奇心を発揮して切り開く骨を見せないと、それこそ、すべて情報は誰かの知識だ
 自分は神か何かに思っていたのに、自分では何も発見できない人伝頼みのポンコツに悩むだろう


 ‥だがしかし、それもこれも競争のある社会だからこその、ストレスまみれに満ちた話になる
 否、競争意識が強いからこその流れだ


> 記憶を失っても、競争意識(負けず嫌い)だけは保持し続けるというオチがそこにある
> それは祝福だろうか?呪いだろうか?


 「祝福だ」と思うなら、多分、子供や子供時代を楽しいなどとした考えをしないのだ
 「呪いだ」と思えるなら、のんびりと過ごせる子供時代こそを謳歌したい口だろう
 「どちらでもない」なら、バランス型だ


 ‥実は、このバランス型を得るというのがなかなかに難しいのだ
 なぜなら、誰も注目していないし、願ってもいないのだから、その手のタイプの増える縁が無い

 (売上競争にお熱な社会なら尚更だよ)
 (幸福の追及にしたって、売上ありきなんだからインチキ甚だしくて馬鹿げた権利だ)
 (総合すれば、私利私欲上等、私利私欲万歳とした宣言こそ、その手の保障もとい憲法だ)
 (無い袖は振れないルールにがんじがらめにしてあるんだし、何が幸福の追求だよ)

 (本当の意味で、世界平和を望んでいない‥澱に包まれてある、困ったものだよね)



posted by 木田舎滝ゆる里 at 01:53 | Comment(0) | 日記/2023 | 更新情報をチェックする
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