2023年09月19日

【ネタ文学】矛盾こそ摂理か?

記稿.2023/09/19

> 真我と自我を野球に例えてみよう


 いつでもホームラン打者(打率十割)
 いつでも三振ピッチャー(防御率十割)というのを、誰しも夢に馳せるわけだけど

 そんな王者の心理を想像してみよう

 ズバリ‥「野球なんて簡単でつまらないスポーツだよね」とそう思うに違いない


> そこを慮れるか否かが、真我と自我の相異に他ならないかも知れないな
> (自分自身に対しても、他人に対しても)


 ‥ところが私たちは、そうあれたなら格好いいだろうなあとしか頭に無い
 ‥不滅の記録を打ち立てられたならスゴイだろうなぐらいしか頭に無い
 ‥上手ければやるべきとしか頭に無い、それが才能だとか、贈り物ぐらいにしか頭に無い


> つまり、凡才ゆえに夢馳せる私たちは、そこを推し量れないので自我が濃い(エゴ)となる
> とくにお子様の夢見がちなそこん所なんか、とても自我が濃いことになる


 (‥自我を薄くしろなんてのは)
 (実のところ‥子供や青春なんかそういう意味では‥全然可愛くないと言っているような話だz)


 他者に「生きることは素晴らしい」類の口を叩いておきながら
 てめえが極まってしまうと、途端に窮まったかの様に「つまらないよね」と吐き捨てる

 この卓袱台返しとしたモチベーションの低下こそ突然としていて恐ろしいわけだけど
 人それぞれなんでまぁしょうがない(他者を理解する為にも色々と心は揺れるどえす)


> 下手な側からすれば、羨ましいくらいに下らない悩ましさな訳ですもん
> そして下手ゆえに、上手の悩ましさなんかお構いなしに憧れるのだ
> (自慢し・されるぐらいが楽しいひとときかも知れないのに大変な線引きだz)


 (だがしかし、そこに興味を持ち合わせない御仁もまたゾロゾロと居そう)


 でも、私たち側が、なぜ王者とした側に憧れるのかというと
 肖りたいから、勝利の美酒に酔いたいからに他ならない

 そういう色の付いた様をエゴというのであって

 絶対無敵なんて有り得そうに無いからこそ期待したくなる‥みたいな
 糞謎めく心理に突き動かされてもしまうのだ


 さらに言うと、その手の常勝とした色を付けたくなる欲求に濃い輩ほど
 期待外れだったりすると、難癖やらケチやら悪態を吐くのが大好きだったりするどえす
 (とても不思議な人達です、掌返しがご趣味みたいな)


 ‥誰にだって未熟を感じるという幸せも有るからこそ
 エゴに絡んだ自我の側の世界に居られるという話なわけですから
 それに対して悪態を突っつくって事は、真我の側に追い出したいオチみたいどえす

 (居なくなりやがれとした意味は同じなんでしょうけど、まぁ、こんがらがってきます)
 (宇宙的に見込みがありそうに見えるから、そういう空気を引き寄せちゃうみたいな)


> これを文学のネタとして捉えると
> 悪態を付くような輩ほど、油断が付いて回るのだから、それに馬鹿にされても
> 頑張って喰らい付けば、踏み超える可能性はゼロでは無い(超え行くのは当たり前)
> とした形はありきたりなのでは無く、アイデンティティー次第だ


 ‥つまり何が言いたいかというと
 「失敗こそ面白い」というと角が立つが
 「失敗もあるから面白い」という矛盾こそエゴの世界だというオチどえす

 (仕事のモチベーションが上がらないのは、その矛盾を否定してしまうから‥)
 (「失敗をしてはいけないのだ」とのエゴは、おいしくないし、おもしろくもない)


> エゴを薄くするとは、エゴにもおいしいとおいしくないがあるので理解しましょう‥みたいな
> (そこに好みの差がまたあるという無限性‥其は、成功と失敗とした矛と盾の差でもある‥)



posted by 木田舎滝ゆる里 at 02:29 | Comment(0) | 日記/2023 | 更新情報をチェックする
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