2024年04月12日

【詩】我を識る為に必要な心構え

向宜詠吟.2024/04/12


「我とは何か?」
其はまず、我たる計測の仕方を知らずにしては始まるまい。

それには、全体を俯瞰せずにしては始まるまい。
じゃがしかし「全体とはなんぞや?」


全体を識らずにしても又、計測するに値せぬ。


我が人間にあるのなら、人間としての尊厳を理解すべきである。
我が宇宙にあるのなら、宇宙の尊厳を理解すべきである。
我が循環にあるのなら、その循環たる尊厳を理解すべきである。

我とした好奇心の幅でしか世界を認識できぬのなら、どうしたって好奇心を育まざるを得ず。

されど、宇宙の側にも好奇心とした幅を有すのなら、その間の隔たりに、我たる限界を及ぼそう。
されど、環境の側にも好奇心とした幅を有すのなら、その間の隔たりに、我たる限界を及ぼそう。
それが、我とした尊厳の幅たる理解になろう。

だが、好奇心を育まざるのなら、どうしたってその我たる尊厳は、小さきモノだ。

小さき我に満足できるなら良し、満足できなければ嘘になる。
そこの葛藤を避けたままに居ては、我の計測など不能なり。


確かなる我の大きさを知らずして、満足も不満も意味を持たぬ。


ならば、何故に葛藤を抱くのだろうや?
其は、我を識らぬからだろうか?‥否、我とした本質を識りたきと求めての事なり。

されど、好奇心の幅の広がりを閉ざしたままにあるのならば、其は如何なる我にあろうや?

「我とは何か?」を計測するのに、もっとも単純な論理とは「足るを知る事」である。
そこが、現状の我たる好奇心の端境にあるのだと、まずは心に留めて理解することである。

されど、好奇心を閉ざしたままの者らは、不思議と足るを知る事にも疎いのだ。
その上、横並び意識に引きずられるだけ引きずられて、不満に満ちるのだ。
どべなら尚更だろう。だが、そのような葛藤に意味無し。


我とした好奇心が、宇宙とイコールならば、環境とイコールならば
不満など有るまい。満足とて有るまい。

我とした好奇心の及ぶ許容を知り、足るを知り、足りぬと思えばさらに好奇心を育まむ。
唯それだけのことを「生きる」と呼ぶだけのことなり。
翻せば、そこからのはみ出しは「死ぬ」だけのことなり。

生きているとも死んでいるとも判らぬのなら、尊厳を知らぬ事になろう。
死んだらそれまでと、思い寄せて信ずるままなら尚更であるな。


どこまで行っても、世界の理解の仕方こそが、我に相当しておる。


そこに不満が募るのなら、理解の仕方自体が危ういと言えよう。
危ういままを続けていては、いずれ滅びよう。

どうにも、滅びたいからこそ、育まざるを続けているようにも見えてしまうものだな。

我を育む即席とした何かを外に期待しようにも、我の内たる意思以外には何も存在せぬ。
何はともあれ、好奇心を宿さずままになんぞ始まるまい。始めたくも無し。

生かして貰えているから大丈夫などと思う依存と停止は、クズを宿すばかりなり。

我とした意思を育まざる肉も骨も脆い。
それと同じくして、我とした意思に基づかぬ人頼みとした調和など幻想の如きだ。其もまた脆い。

又、調和を求めずして、志さずして、目指さずして、育む・育めるなどお門違いも甚だしい。
斯様なる尊厳を知らぬ様、互いに推し量らぬ様を「狼藉」と申すのだ。


まぁ確かに、尊厳に生きるも、狼藉に死すも選択は自由にあろう。

だが、そのどちらかを選択することを以て、満足を思い描けると思うのは‥正しくない。
育むといえど、何事も葛藤の先にしか得られないのだからな‥
ならば、どちらから向かおうとも、歩もうとせぬ者に正しさなど訪れようがない。
其が世界の実像なり。

歩もうとして、歩んだ先でかち合って葛藤が生まれ、もまれて漸くにして気が付くことになろう。

其の目的とは、なんだっただろうや?

それは、至福や快楽・享楽を得る為だった‥だろうか?
それは、上から目線に名声を得ることや、勝ち誇ることだった‥だろうか?
それは、ささやかながらにも、世の為や人の為だった‥だろうか?
それとも、緩りと安らぐことだった‥だろうか?


誰だろうと、葛藤にもまれていては、ついつい、抗いたくなるものだ。
だがその目的は、憤り抗うことでも、イキがることでも、討ち果たすことでも無い。
其は、好奇心を拠り所にして、勇み歩んでみただけに過ぎぬ。

結果、どうにも好奇心の置き所を切り替えられずに脆さを垣間見せただけのことだ。

好奇心の再発見を忘れて、別の何かを得んとした目的にすり替わっていただけのことだ。

育んでいたつもりだっただけで、育むべきを忘れていたのだ。
全体を俯瞰もせずに勝手都合に事を進めたところで、すべてはやっつけだ。
尊厳たる我・我らとした形など現れようも無いのだよ。


されど、抗うのも好奇心である。達成したきも好奇心である。そこに期限も制限も無し。
だが、勝ち誇りたき好奇心を保持しては、葛藤から逃れられなくなるという謎かけがあるのみだ。
其を「闇」と申す。

「我・我らとは確かに、その反対からも来たった存在なり」



> うた詠み終わります、ありがとうございました。



posted by 木田舎滝ゆる里 at 11:59 | Comment(0) | | 更新情報をチェックする
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