2024年12月05日

【ボケて痛っ】暮らしの中の善悪概念をモチベーションの変化に置き換えてみるべし

↓2)記稿.2024/12/05

> 人生の中の善悪概念をモチベーションに置き換えて振り返ると


 ‥其は単純に、てめえのモチベーションの上がる其れは正義にあり
  其れに有らざるものは悪にあり

  そもそもにして、自由主義とはそんなものであろう
  てめえの好き嫌いをモチベーションの上がる下がるに置き換えたような様なのら

  其を多数決とした見解で述べれば、攻撃性モチベーションへの警戒は高まり
  其を外して考えないのでは、生活における正義などどこにも存在しないに等しい


 ‥なのでまずは攻撃性モチベーションを外して考えるべきが
  日常を豊かにしていく上での物事の見方と言えようか‥‥


> では質問だ
> 攻撃性モチベーションを外して日常のモチベーションを保持できない割合はどのぐらいだろうか?


 ‥それにしてもこの問いは矛盾している
  なぜなら、てめえのモチベーションの上がることを正義に定義しておきながら
  周囲への影響、つまり、周囲のモチベーションの盛り下がりが多大ならば
  たとえそれが過半数の賛同を得ているモチベーションの高め方とて悪になるという
  多数決は必ずしも正義には成り得ないと説いたも同然だからだ

  其は、攻撃性モチベーションの描かれていないマンガ・アニメのタイトルを挙げて見よ
  と質問しているに等しい(タイトルの何%が生き残れるだろうか?)

  私たちの日常感(希望・夢・憧れ)とはザックリその程度なり


> では、攻撃性モチベーションとは何のためにあるのだろうか?
> 「上」を目指した所で「正しさ」を掴める道のりにあるとは限らない


 ‥そもそも、正しさを目指す者は、攻撃性を強要しないものである(むしろ避けるべきと説く)
  それは仏教からのうけうりである部分の方が大半に思うも
  それが東洋と西洋との宗教観の大きな差に思うも

  大半の者は、攻撃性モチベーションを抜きに人生を語ることが出来ない

  出来ないからこそ、文学表現においても「正しさ」を目指さずに「上」を目指してしまうのだ
  まさに「遭難したら山頂を目指せ」と言わんばかりに



1-2)1

> ならば、人類の大半が遭難者なのだろう
> 遭難者には救助が必要だ


 ‥だが、競争社会においてその救助方法が何であるかなど、誰しも良く知っての通りだ
  其を文言にして並べると
  「まずは山頂を目指しなさい、山頂に至れた者だけを救いましょう」
  其れではそのままに「獅子は我が子を千尋の谷に落とす」が如しだ

  (私たちの民主社会とは、まさに斯様なスパルタを強いて在り)


 ‥それにしても不思議だ、誰もそんな様相を民主化に想定してはいまい
  なぜなら、山頂に至った者らを救助する意味など無用に見えるからだ

  だがしかし、山頂に至った者ほど強かに優遇し合っているのも確かだ

  その上、山頂暮らしへの憧れを周りに高めんばかりに
  麓の幸を山頂へと荷揚げする(吸い上げる)ことに協力するように仕向けている
  (其は、増税→富裕層優遇政策→キックバック→天下り‥とした流れのそのままに)


> ではなぜ、山頂に至った者らは後ろめたさを感じているのだろうか?
> なぜ堂々としていないのだろうか?
> (バレたらお終いだとばかりに、麓まで殺し屋を差し向けるほどに)


 ‥豊かな暮らしを勝手気ままに手にしていながら
  どうして後ろめたさから救われたいのだろうか?
  (救いが正しさを手にすることでのみ得られると言うのなら、永遠に無理な話なのら)

  それこそが、攻撃性モチベーション抜きには生きられないとしたオチにあろう

  他者の不幸を創りだして、糧にして、漸くに手にできている豊かさでしかないのなら
  そりゃまぁ善意が顔を覗かせる限り、後ろめたさから逃れることは無理からぬ話だ


> そこで、エリート共らは、その手の悩ましさから逃れるための「すり替え」を処方している
> それこそが「神は死んだ」に始まる唯物思想であり、立憲正義とした社会観なのら


 ‥死んだら其れまで、生きている間だけが全てである
  なのだから、唯物世界相における正義とは立憲主義であり
  法に示されぬグレーゾーンは罪に問われない(なんら悩む必要など無し)

  まして、多数決で決まったことなのだから、過半数の者が支持する内容だとして
  何をしたとて、グレーゾーンであれば恥じる必要など無いではないか‥と言わんばかりだ

  (そしてやらかしているのが、攻撃性モチベーション大会なのら)
  (今だけ金だけ自分だけ‥)
  (それで勝てば勝ったで、派閥で法的機関を固めてりゃ、人権憲章も糞もねぇ)


> 罪の意識を骨抜きにした思想群にあるのは、闘争に生きるよろこびのみ草
> 「神は死んだ」はそっくりそのままに「善意は死んだ」に等しい
> 「勝利こそ正義」とした原理に生きているのだから、既に日常性からは程遠い感性群でもある


 ‥「死んだら其れまで」とした洗脳脳の行き着く社会性なんざ、上から下までその程度さね
  (まぁ救いようのねぇ「永遠の遭難者」を選択したのなら無理もなし)



1-2)2

> 人という文字は、「支え合うべきか‥突っつき合うべきか‥」とした問いでできている


 ‥人間とは、まさにそこに悩めと言わんばかりの攻撃性モチベーションを抱え持つ

  でも、抱え持つこと自体は悪ではない
  秘めたる性能にあろうと機能させ得ずままなら無いも同然なのだからな

  (だが、宇宙規模で眺めれば、それの襲来を躱すことは容易には無き事らしい)

  それにしたとて、其れの全貌を全く知らないという方向性こそ詰み(罪)なのだ‥
  ならば、攻撃性モチベーションからも学べるとする見方も成り立とう


> では何を学んだというのか?
> それこそ「力こそ正義」「金こそ力なり」‥程度の文言に括りまとめて頭打ちの如しだ


 ‥その程度を学んだとは呼ばぬ、持続継続たるを不可能とした有り様では片手落ちなだけにあろう

  自由に生きて良いという割りには、全体で丸ごと死滅に向かうばかりなら
  「自由主義とは死ぬことと見つけたり」としてドヤ顔の如しだ

  斯様に偏ることを「自由」とは呼ばぬ
  其を一般に、「馬鹿」「無能」「戦犯」と呼ぶではないか‥

  ならば、個々に好き嫌いだけを以て
  モチベーションの高め方に用いた所で、正義としては不完全なままなり


 (其は、健康を得たいなら、食べ物の好き嫌いの少ない方が良いのに似ている)


 ‥時として、必要とあれば、病院食でもサバイバル食でも耐え凌げなければ生き残れまい
  ならば、自由だけを以て、生きられたら素晴らしいなどとは‥何という誇大妄想だろうや
  斯様なる欲求の偏りを人としての「失敗作」と申す


 「攻撃性モチベーション」を「内なるチャレンジ精神」に転換できずにして完成への道など無し


 ‥其は、打ち負かしたり倒すことだけに非ず、単に受け入れられる様に努める事かも知れぬ
  受け入れられなければ、耐え凌ぐべしとした地味で惨めなだけの後ろ姿にも見える事だろう
  まさに、搾取されたままの庶民の姿そのものなり

  (其を人間完成への確かな歩みだったとして、斯様な見方ができぬ限り、徒労に終わるのみ)
  (良いではないか「我は遭難者に非ず」と思えば、山頂を目指す必要も無し)


> 生活の在り方の好き嫌いに囚われ続ければ、そりゃまぁ遭難者のままだよ
> それだけの違いだったとして落とし込めるか否かでもある
> 足りなきゃてめえで工夫せよ‥それだけの話で、そこにしか「私」も「自由」も存在せぬ


 (不得手なら、得手者を拝み倒すのも工夫の一つではあるけどな‥‥間に合わせに過ぎぬ‥)
 (間に合わせだらけのツギハギに陥る様を依存性社会と呼べり‥‥其は、失敗作中の怒失敗なり‥)



posted by 木田舎滝ゆる里 at 14:18 | Comment(0) | 日記/2024 | 更新情報をチェックする
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