2025年02月25日

【フラクタル】宇宙にとって能力主義(選別による見返りありき)とは‥何だろうか?

↓4)記稿.2025/02/25

> 「差別」は駄目だと当然の顔をして言っておきながら
> 「能力主義」をもて囃すのは、矛盾した偏見なのではないのか?


 ‥なぜか、世界にはランキング意識が根付いており、商いにおける利便を担っている
  その手の評価は‥正当な頑張り含みだからとして、差別やら偏見とは違うのだ‥
  とした解釈にはまぁそれ程に異論は無い

  然れど、商いゆえの建前・プライド・工作・インキチやらも雑ざるのも、その手の評価観なり

  まぁそんなこんなで、評価にもまた評価群の中から、ドヤ顔をした権威付けが登場するなり
  なぜそのような権威付けまでが登場できるのかに謎は尽きないが
  宣伝力の為せる資金力の差があるばかりだろう

  なぜ其れをするのかを問うなら、その者らが、文化への選別×評価意識に高いからにほかならん
  翻すなら、自由度に制限を設けてしまうのも又、その手の権威付けたる方向に成っている


> 其は、王様にあるあるの「新しきは、まず、我を通せよ」とも言えるだろう


  ‥当然ながら、気に入らんと思われたなら
   加筆やら、向こうアイデアでの追加を要求されるだろう
   其れに従わなかったなら、潰されるとも限らん

   ゆえに、権威付けとした其れのランキング等に参加するもしないも自由なり

   だが不思議と、参加して評価を博した方が圧倒的に宣伝の波に乗れるのら
   そんなこんなで、不参加の側が其を飛び越えて目立つような有り様はほとんどなし


> 斯様な取り組みを、グループ活動の差に見立てることも出来る
> 其れ其れのグループ活動なのだから、独占とした縄張り意識を持ち出されても困るにせよ
> 複数の団体のまとめ役なり元締めが同じなら、独占を笠に着るも同じだろう


 ‥活動意欲の差と言えばそれまでだが、資金力の差でもあることに変わりなし
  だが、世間の多くはそんな所まで細かくを気にせずに、ランキングを鵜呑みに受け入れるのら

  其は、与り知らぬ所で、誰か好みとした文化色(偏見思想)を受けいれんばかりなのだが
  庶民の多くは、其を仕切る側ほどに、それぞれへのこだわりが深いわけでもなし(残念!)


  ‥ゆえに、こだわりへの多様性の違いに関して
   際限なく対等に扱うべきが公平なり、自由なり、正しくあり‥
   諸々を唱えることに意味が薄い

  それはそれで、そちらの方が用を得ないとして‥無茶苦茶‥呼ばわりされるだろう
  何はともあれ、グループ活動とした主体性を尊重せずして、理想も公平も自由も糞もねぇ

  (ゆえに、ある程度のレベルの者らで、審査をすることに誰も異を唱えるところがない)
  (その者らの思想やら好みに偏りを秘めていようとも‥)


> だがしかし、そのような流れこそが「評価バイアス」となり
> 誰しもは能力の有る無しとした評価に縛られることにならん


 ‥表現することにおいて、活動することにおいて
  ランキングする側の好みやら、外の声に、四六時中縛られる意味など無いのに
  評価とは、外からの声重視が当然だ‥と思い込んだままに堕ちるのら

  (そこには、始めから自由とした見方が薄いのら)
  (代わりに、憧れとした空気に満ちて在り)

  結果、憧れを満たした者らをとくに「才能」と呼び、そこからはみ出すことを試みずに厭うのだ


> どうにも‥才能の側を権威として仰ぎ‥自らその掌の上で踊りやらかすばかりなり
> 其を「権威バイアス」と呼べり



1-4)1

> では問おう、斯様なる評価バイアス・権威バイアスなる掌の上を「搾取」と呼ぶだろうか?


 ‥それなりの利便性の提供を受けておいて、搾取されているなどとは思うまい
  だが、腑に落ちぬ部分も有るには在る
  だが、多くの者らはそこを気にする所が小さいのだ

  小さいがゆえに目立たないだけとも言えるし
  その様な些細は、才能を担う者らの活動意欲の波間に、もみ消されるばかりだろう

  気に食わないというのなら、対抗する評価団体をてめえで設立してやりきるしかなかろうって


> だがしかし、どこまで行っても、誰がやらかそうとも、「てめえ好み上等」なのら
> なぜか誰しもは、何の躊躇もせずに、てめえ好みとした「才能」を選んでしまうのら


 ‥そのてめえ好みを前にした時にだけ、なぜか誰しもは
  {私とした世界観}={至福}≒{私腹}を感じるものなり

  では、そのような個々の天然とも無意識に近しき選択を「差別」と呼べるだろうか?

  だが、多くの者らで、お約束と言わんばかりに
  同じパターンにほだされ、慣れ、見せつけんばかりに繰り返し始めると
  世間は其のような空気を「HENTAI」とも「偏見」とも‥叫びだすなり


   ‥おっぱいとか、おっぱいとか、おっぱいとか
   ‥美人とか、美形とか、美貌とか、綺麗とか、煌びやかとか、スタイルとか

   其の影では、其を見聞し、「才能」と呼ばれる枠外に追いやられた者らが
   諸々の劣等感を放ち、どうにもこうにも‥闇を彷徨うものらしい‥

  つまりは、当人らが、やらかす自由な選択、好みを選んで何が悪い‥とした言い分ですら
  集団化して、主流な選択とした偏りを垣間見せる事で‥「偏見」認識されてしまうのだった

   其れに別の言い方を用いるとすれば、「結果悪意」なり
                    「結果悪意」なり

  (パターンとしては「多数派vs少数派」なのだから、いじめ然・嫌がらせ然に見えるだろうz)


> もっともその元凶と在りしは、評価バイアス・権威バイアスの掌の上とした流れなり
> 其はなんだかんだと‥枠外に追いやられた結果を以て‥「搾取」を受けていたことになるのら
> 何に配慮を欠いていたのかと言えば、多様性としたお互いへの認識不足なりけり
> (そのあとはもう、民主社会にあれば、創意工夫とした善処に期待するしかねぇ)


 ‥だがしかし、只のグループ活動にそこまでを要求する段階とやらの認知性に関した理解は
  お互いには無かったのだから、事象として何らかの「うんざり闇」の発生せるは致し方なし

  そもそも、そこまでの事前なサーチ配慮に、何の意味がある?
  (主体性を認め合うということは、「未熟性の了承ありき」なのら)

  (うんざり闇を抱えてしまった側からして、どんだけ配慮の気遣いに努めてあるんだよ?)


 ‥科学的な公害やらで死に至る話になければ
  まずは、トラウマやらストレスと化しない限り、お互いの意見交換にすら及ぶまい

  もっとも、てめえ好みとした反応はお互い様なのだから、何の解決も見出さね
  対象となる其れを「禁じるべし」‥としたいのなら、てめえも何かを我慢すべきが理屈なのら

  (その時、相手が、始めから何かを我慢していたり、我慢の質の差を無視して)
  (それの口論に活路を見いだせると‥思うべからずなり)

   (お互いに抱え持つ、諸々とした‥うんざり闇を取り除こうと慮らない限り)
   (てめえのうんざり闇とて、取り除かれること能わず)
  (何はともあれ、てめえだって 他人のうんざり闇を認知し足りてねぇって話だろうがッ)



1-4)2

> 一方、モノの見方には、評価結果にこだわるのでは無しに
> 「あるがままを受け入れる」とした論調もあるにはあるが
> この「あるがまま」とした意味合いに弱さを含むゆえに
> 大抵が、敗者・弱者に対する「根気ありき」を諭す意味合いに用いる事の方が多い


 ‥では問おう、「あるがままを受け入れる」とした言葉の弱さとは何か?

  其は、善を善のままに、悪を悪のままに受け入れる事では無しに
  其れ其れの得手・不得手とした流れを見定めて
  善悪とした思いこみによる物事の判断を止めるべきだと‥説いているのだが

  どうしたって、高みの見物を決め込めば「沙汰無し」とした流れもまた「あるがまま」なのら


> そもそも誰が「沙汰」を下すというのだろうか?


 ‥評価バイアス・権威バイアスの掌の上で踊る者らに、その手の主体性など皆無なり
  それこそ、バイアスに気圧されるままに、てめえに対して、無能だから畏れ多いと思っている

  (そこに‥お家主義が混ざり合うと、格が違うから無理だとした格上任せのままなのら)

  そんなこんなで、鬨の声が上がるのを待ちにけり‥みたいな待ちぼうけ症候群なのら

  それで民主社会などとは、片腹痛いだけの話にあろう(いつまで戦国時代の感覚なんだよ)


> とはいえ、民衆感覚とは‥古今東西×老若男女‥もろもろとそんなもんらしい


 ‥であれば、その気になれば、チョロい構造ということですな

  ゆえに、加減を知らぬ存ぜぬは通じず
  「すべてはお見通し」とツッコまれては、言い返せねぇ図式なのら


> 「誰が?誰に?」って、宇宙だy


  ‥神でも、宇宙人でも、闇勢力でも
   てめえ好みの人材を欲して、目を皿にして、地上世界を眺めているのら

   それを一言で言えば、やはり‥能力ありき‥なんだろうけど

   それはそれで「選別フラクタルな構造」なのら


> 其を腸内菌にたとえると、善玉菌・日和見菌・悪玉菌とした活性度合い大会どえす


 ‥対象の環境が変わり出すと、日和見菌が、善玉菌にも悪玉菌にも変わるどえす
  すべてはそんな感じの活性化大会にあるらしい

  (其は、宇宙からして、てめえ好みを取り込んで、宇宙の安定をしたい草)
  (其は、モチベーションやらエネルギーの足しにならんと用を満たさん草)
  (恋愛観なんざ、とくにそれなフラクタルで草)



1-4)3

> 多様化を容認し合いながら、暮らし向きの底上げをしていくことの方が望ましけれ
> だが、その為にはリーダーが求められ、リーダーには能力を求めるのが空気なり


 ‥そのリーダーが又、派閥の勢いを示したいとばかりに、能力主義を掲げるのも流れで
  それに「右向け右」してしまいがちなのも、臣下や庶民の空気なり

  ゆえに、「能力主義」とはそのままに「見返り主義」でもあるのだ


> では、誰から、どこから、その手の配分可能な利潤を吸い上げてくるの?


  かつて昔なら、武力による制圧ありきの世界観だった
  現代に至っては、金力による制圧ありきの世界観になっている

  武力による制圧ありきは、土地絡みだったのに対して
  金力による制圧ありきは、債権絡みとしたオチになっている

  (このどちら共に、特定の一族による支配ありきなり)


> ‥だが今や、{消費力}={人気上等}とした世界観に及ぶのら‥


 ‥戦争にせよ経済にせよ、情報戦とした用向きが、今や、庶民の自主的な判断に晒されるのら
  市場信用とした支持を失えば、どのような大手企業とて、あっという間に経営に響くのら

   (もっとも、細かく調べる者ら%は、まだまだ低いにせよ)
   (自分たちの暮らし向きが違ってくるのなら、其れなりに気にせざるを得ず)


> 其は、あるがままなど受け入れている余裕など無し‥と云わんばかりの変化なり
> 其は、日和見菌が、善玉菌の動向を待たずして、活性化に奔りだすが如くなり



1-4)4

> 宇宙とて、創造とて、神とて‥全知全能に非ず‥思いこみによる停滞感を抱いてあり
> その結果としたフラクタルな構造体の末端こそ、私たちの日常なのら


 ‥私たちが私たちの思いこみによる結果悪意を解消すればするほどに
  宇宙も又それとした認識をフラクタル構造に反映し出すなり

  ‥其れが、宇宙の目指す(?)
   諸々多様化の末の安定に合致するなら尚のことだろう


  ‥其れの多様化とは、白黒を付け合うことに非ず、寛容とした見方の阿吽なり
   とは言え‥‥満たされる所に無ければ、飢えが増して、争わざるを得ず‥


> 争う段階に及んでは、どちら共に白黒を付けたがるものなり
> 争いが起こった事への見方として、あるがままもあるにせよ、結果、何を学んだだろうか?


  ‥然れど、勝ち誇るような情勢に、そのような判断など無し
   そこからの斜陽×転落とて、同じ様なのら‥(そもそもの活力が旺盛なのだから致し方なし)


  ‥其も又フラクタルなれば
   宇宙にだって、創造にだって、神にだって、失敗ありきとした情勢を
   腑に落とすのに、後ろ向きで下手っぴな傾向を抱え持つのだろう

   其れの傾向を改善するにも、正すにも、失敗を繰り返すのが最善と言うことらしいz
   (なんてクソッタレで、トライアンドエラーなフラクタル構造なんだろうか‥‥orz)


> 詰まる所、私たちの転生とした図式もそれに近しいのら
> 詰まる所、クソッタレな腐れ縁100%ありきどえむ‥‥orz
> 詰まる所、それなクソッタレから解脱したいなら、先んじて慈悲を識るべし‥(覚醒ありき)



posted by 木田舎滝ゆる里 at 17:35 | Comment(0) | 日記/2025 | 更新情報をチェックする
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