2016年01月25日

【歴史認識】明智光秀の謀反に裏組織ぐるみの可能性

記稿.2016/01/25

> 明智光秀の謀反が起きたのはまだ薄暗い夜明け前‥というか丑三つ時だろうか。


 移動から戦を終えるのにおおよそ4〜5時間。
 そしてなぜか昼時には、堺を訪れていた徳川一行にもその報が伝わる。
 ‥電報のある時代でもあるまいに、どうしてそんなに早く広まるのか?


 早馬よりもはやい感じに思える。何しろ伊賀越えの危険を自覚しているのだから。
 ‥光秀にしてみれば、できれば少しでも長く箝口令で進めたい所のはずである。


 想像するに、狼煙が使われたはずである。
 謀反成功なら一本、失敗なら二本。そんな感じの合図。
 そのような合図を送るのに欠かせないのが、知らせの取り決めだ。
 ‥明智光秀のした謀反には、指図した連中が裏に居た。そう考えるのが自然。

 裏返せば、光秀は嵌められたとも言えるだろう。
 秀吉にも連絡が届いている。当然とは言え、大返しの手はやさは、どう見ても用意周到すぎる。
 ‥秤に掛けた何者かが居たという感じになる。

 明智光秀が、天海として生き延びたのが本当なら、そこも織り込み済みに見えるが
 組織から欺かれたのを知ったのは後のことかも知れない。武士としては、
 忠義を踏みにじられたのだから、その憤りと決意は比例する。信長への謀反より大きそうだ。
 ‥そんな裏側のやり口の恐ろしさから、江戸城に綿密な結界を施したとも見える。
 ‥後々の家康の動きからも、それは読み取れそうな空気がある。


> 一向宗はどうして台頭したのか?


 信長の野望をプレイしていると一向宗の本願寺家所領は、飛び地で三箇所ある。
 一向宗よりの勢力は、鈴木家、六角家、浅井家、浅倉家&足利家‥そんな感じ。
 ‥土岐家は中立だったのか、その勢力に参加していなかった模様。

 斉藤道三の謀反台頭に、浅倉家が織田家と組みしたものの、なぜか裏で斉藤道三と話をつけて
 大垣城から織田を立ち退かせている。まるで時間稼ぎ。

 面白いのは、浅井・浅倉は盟友であるにもかかわらず、浅井家は六角家の従属な感じにある。
 今で言う‥アメリカと日本とイギリスの関係に見えなくもない。

 六角は早くから楽市に目を付けていた。うなるほどの繁盛ぶりはその城を見ればよく分かる。
 ‥それで浅井はカネでも借りてしまったのだろう。それを知った浅倉が警戒した感じだろうか。


 六角のお得意さんは、どう考えても一向宗だったと思う。
 当時のお寺は自衛だったから、刃物は大きな値の付く商品だった。
 一向宗の配置は、そんな商品を運ぶ為の街道に目を付けて配置されていたが、
 ‥最重要だった関の刃物を運ぶのに、どうしても大垣を別勢力に押さえられる訳には行かなかった。


> 信長は知ってか知らずか


 この勢力が傘下にしていた刃物流通の拠点を押さえてしまった。
 ‥さらに西にある刃物生産地を自分の傘下に押さえんと駒を進めている。
 ‥当時、鍛冶屋はどこにでもあっただろうが、産地には敵わない。
 ‥信長もそこをキッチリ押さえながら駒を進めていた模様。


> 信長が未だ小国で喘いでいた頃


 近畿の勢力は、カトリック熱に揺り動かされて、いざこざを繰り返していた。

 ‥これはどう考えても
 一向宗で推し進めようとしていた国の立て直しに
 外国の宗教を取り入れるかどうかの騒ぎだったように見えなくもない。

 つまり、近畿内部ではすでに新しい国造りに向けた試みが着々と成されていた。
 ‥それをひっくり返したのが信長の台頭と言うことになるだろうか。


 その前段階として、台頭したのが斉藤道三だった。
 道三の台頭は、イレギュラーだったように思われる。

 道三は、そのとある勢力の話に一度は乗ったのだろう。
 ‥でも信長を見るに付け婿殿に賭けてみたくなった。

 それを知ったとある勢力側は、道三の息子を焚きつけるなどを試みた。
 土岐家時代より、内部にはすでに手が回っており、その手の者がそのままに仕えていれば
 ‥揺さぶりはそれ程に難しいことではない。


 ‥その中核を担っていたのが
 明智家周辺という推理になるのだが、そうすると細川家が手引きしていたのかなとも思えるが
 実際な所を問うても、細川家がどっちよりだったかは見えてこない。
 中には、織田信長に惚れ込んでいた御仁の個人的感情もあっただろうしね。

 信長はそのツテから、明智光秀の素性を理解したのかも知れない。
 でも、信長は敢えて排除せず、能力の高さの方を買っていた。
 ‥まぁそういう性格だったんだろうと思う。

 ‥それはそれで、とある組織側にしてみればこれ幸いだったのだろう。
 でも、とてもじゃないけど食える相手ではないことを知ったのはだいぶ後だったと。(まぁ参考に)
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2013年01月24日

【参考】独裁者の陰にどうしようもない男惚れあり

1-3)改稿.2015/09/17...20130124...

 恋愛感情の中に見られるよくわからない感情の一つに
 「あなたが私のモノにならないのなら、あなたを殺して永遠に私だけのモノにする」
 ‥というのがあるが、そいつを歴史上の独裁者にあてはめてみた。
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2012年12月11日

【歴史認識】戦艦大和特攻、生き残り乗組員のもの凄い証言

1-4)改稿.2015/08/17...20121211...

> NHKドキュメント番組で、もの凄い証言をされていたので記録。


 「あれだけの巨躯の中に取り残されて尚、生き残った‥!?」
 「しかも、缶詰のまま海に引きずり込まれ、心臓が止まった(?)のに復活したとのこと‥」


 脱出そびれた乗組員たちが今にも息絶えそうだったその時、白光りの閃光が辺り一面を覆った。
 そして次の瞬間、自分の身体が、ペンギンかイルカかミサイルにでもなって水中を突っ飛んでいた。
 その衝撃波の威力で止まっていた(?)心臓も心臓マッサージ効果で復活。
 押し出された我が身は、なんと海面に復帰。

 しかし

 動転覚め止む間もなく、空から恐怖の塊が降り注いだ。
 気が付けば、目の前に一緒に浮き上がっていたはずの戦友の首がスパッと落ちて消えた。
 それは、艦内の内部爆発に乗じて同時に舞い上がっていた爆発物の破片やら色々な残骸が
 空高くから降り注いだ鉄くずの雨だった。


> 絶句・・・
> 生かされる時は生かされるという話。生かさない時は生かさないという話。
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2012年02月10日

【歴史認識】西郷隆盛と実直

1-1)改稿.2015/09/03...20120210...

 俺は昔から、西郷隆盛の人気ぶりが不思議だった‥だからずっと考えていたのかもしれない。


> 西郷隆盛は実直な人間である。


 ただし、それは自分が上司に提言する側にいた場合である。
 自分が組織の上に立つ場合のスタイルは、また別の顔をする。

 組織という奴は、どうしたって一人と比べれば、ずっと良い面も悪い面も持ち合わせている。
 西郷は本能的に、それの悪い面を正すのは下の側の義務にあり、
 上に対して実直に提言することが、下の仕事だと確信しているように思える。

 その一方で

 上なら下に対して、「徹底的に好きにやってご覧なさい」のスタンスだ。
 西郷の凄いところは、それに対して腹を括っている点に尽きる。


 軍の大将ともあらば、下の者がなにをやらかすかなんてわかったものではない。
 それは薩摩藩士の過激ぶりを見ればよくわかる。

 ‥それでいて、上から見ていて正すべき事でも、
 下の者が気が付かないのであれば、敢えて知らんぷりをするのだ。
 それは外交にあろうとも同じで、博打の如しに渡ろうとする。


> そして


 上は下の言葉に対して、どんなことでもトコトン聞く耳を持つべきだと言わんばかりに構えるのだ。

 ‥まるでその姿勢には
 組織統治に苦心すべきがリーダーであるとした通常のイメージなんぞどこにも見当たらない。

 西郷の実直は、下の時のそれは、自分の言い分をストレートに投げ出すはもちろん、
 上の時には、それを相手に要求してくるのだ。

 たいていの人間は、頭で理解して返事を決めてしまうのに、西郷はそうではない。
 頭での了承を基準にするのではなく、相手側体制の懐の最大点を要求するのだ。


> 薩長同盟の場合


 ‥まずは自分側の言い分を押し通す。それが、薩摩の利益だからそこに始終する。
 そうすると長州にも言い分があるからぶつかり合うのは当然になる。
 だからといって安易に譲ることはない。
 徹底的に最後まで相手が是が非の実直を見せるまでは一歩も動かない。(まるでコンピュータだ)
 そして、長州の懐道理の最大点を引き出した後、待っていたかのように、

 「その通りでごわす」を口にして、一手に引き受けるのだ。
 ‥そのスタンスは、山岡鉄舟との対面でも同じにある。


> ゆえに


 相手から最大点の実直を引き出せずに、何かしらが戦禍に見舞われようとも、
 「‥しかたなし、
 本当に実直な姿勢で解け合える大人物が一人もいないのなら‥斯様な組織
 あってもなくてもどっちでもいいことだ。」‥まるでそんな感じだ。

 そこには‥その時々での責任を、自身で背負うとの気概が見てとれる。

 自分の本音が別にあったにせよ、内側からその手の声が上がらなければそのままだ。
 外には、組織を押さえ込む上での実直に徹しなければならないから、尚更にそのままで行く。
 そこには、決して自分から撤回するという動きがない。私意を挟むことをしないのだ。
 ‥私意を示すにしても、それは自分が下側に回った場合の上申に限るのだ。


> それはそれで


 普通にある大組織の典型だ。腐った組織の上から目線のニオイがプンプンして見えてくる。
 人の良い中小企業のオヤジなどどこ吹く風で、そんな西郷はとんでもオヤジにしか見えないのである。

 責任を自らが背負う次第を、安く請け負う気などまるで無いとした形相だ。
 ‥自らの命を差し出すに相応しい実直のみを受け入れる鬼なのだ。

 ただし、それが上に居て通せるにしても、自らの立ち位置が優位の場合だけである。

 しかし、優位だからこそ、実直だけを要求するというもの凄さ‥姿勢‥牽制‥
 普通なら‥いろいろと下心を満たそうとばかりに、
 裏がありそうな内情を持ちかけたり、なんだかんだとキツネだタヌキだと言われるのだが、
 西郷の実直だけを相手に要求し続ける‥その粘り強く本懐を手繰り寄せるエネルギーという奴は
 ‥まさに文学の傑作そのままに見えてくる。

 それでいて

 西郷の「その通りでごわす」の場面を一見するだけなら、
 「言われるまで気が付かなかったって、あんたって本当にサムライなんですか‥」って
 ツッコミを入れたくなりそうな場面ばっかりだ‥なんも格好良くなんか見えてこない。つまり、


> ボケ役に徹することの方が、交渉において実直を最大点に導く上での秘訣だということになる
> 西郷隆盛は、頭の下げどころを心得た天然だったということか‥


 下の立場ではツッコミ役に徹し、上の立場ではボケ役に徹する。
 ‥簡単に言えばそうなる。どちらにしても、腹が座っていなければできることではない。
追記
posted by 木田舎滝ゆる里 at 06:34 | Comment(0) | 歴史 | 更新情報をチェックする

2012年02月02日

【歴史認識】露寇事件からの鎖国表現

改稿.2015/09/03...20120202...

> 最近の研究によれば‥「鎖国」は、露寇事件の時に初めて用いられた方便用語だったとの次第
> 参考:「さかのぼり日本史|鎖国が守った繁栄」


 当時の幕府はまだ外国の脅威をあまり理解していませんでした。

 露西亜の戦艦が大砲を引っさげて出島に現れた時の話です。
 向こうは手順を踏んで、わざわざ長崎にまで回って、通商交渉に現れたわけですよ。

 ‥これが呆れかえっちゃう話で
 なんと半年も待たせて、ようやく考えた末の文言が、なんと方便としての「鎖国」にありました。
 うちでは鎖国をしているので、これ以上の外商交渉は致しかねるの意を突き付けたというのです。

 あちらさんとしては、
 そんな屁理屈の返答を聞くために半年もの間、手持ち無沙汰に待っていたわけではありません。
 それでなくても、出島では他国の船が出入りしているのです。
 ‥是にキレた船長以下乗組員が暴走して、蝦夷地で大暴れしたというのが、それの下りだそうです。


> 学校で習ったのとは随分と様相が違います。


 ‥少し不自然だとは思っていたのですが、
 その頃に痛い思いをした記憶があったから、
 黒船の時に、幕府が大騒ぎをしたんだという筋書きになってきます。(よーく理解できました)


> もし、露寇事件がなかったなら


 「ペリー艦隊に江戸城陥落されり」‥なんて過激な展開も有り得たと言う事ですね。
 ‥日本としては、露寇事件は救いに神の事件だったことになります。

 で、一方の

 露寇事件をやらかしてしまった露西亜側の船長は、ロシア皇帝から一任されずだった事情もあり、
 外国と騒動を起こしていることがばれるとクビになり、事件のその後も自然消滅になったとの話です。
 ‥でもその露西亜の態度は、どう考えたって上から目線の知らぬ振りになります。
 ‥日本からの応答が何も無いのなら、それはそれで下に見られっぱなしにもなってきます。

 当時の日本の武士たちは、外交感覚という次第について深く考える所がなかったと言う事です。
 相手からの訪問が無ければ、居ないも同然で過ごしてしまっていたという事です。
 ‥通常の生活感覚ならそれも通るのでしょうが、自治経営にあらばそれでは通らないということです。


> そんな話題を


 どこまで当時の士たちが情報を共有していたかは定かになっていませんが
 蝦夷地に派遣されたのが東北の藩士たちばかりだった為、
 それと縁のあった藩士の筋から情報がそれなりに全国に伝わったようには思われます。
 ‥でも、黒船の時に、薩長の藩士たちがその話を前提に開国論を唱えた様子は伺えません。
 ‥知らなかったと考えてよさそうです。文言にしたって鎖国ではなく攘夷だったのですから。


 戦後日本の政府が

 当時の様子を教えるのに、鎖国を前提に教育したのであれば
 時の明治政府の中に於いてすら、見解の一致なきままに、
 いつからともなしに聞き覚えたその鎖国なる文言を、攘夷とはまた違った意味を込めて
 さも当たり前のように、使用し始めた‥と考えてよろしいのかと思われます。


 早い話が当時の幕府に、閉鎖的な交易だったとする概念もまた無かったのでしょう。
 そもそもにして幕府は、黄金の流出に歯止めが掛からずに一杯一杯にあったのです。

 「その状態を以て閉鎖的だなどと申されましても、死ねとおっしゃるおつもりか‥」チャンチャン。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 21:38 | Comment(0) | 歴史 | 更新情報をチェックする

2012年01月17日

【歴史認識】忠臣蔵

1-5)改稿.2015/09/03...20120117...

 「忠臣蔵って何?」


> 実を言うと‥2011年の師走まで、忠臣蔵の中身を知りませんでした。
> 「なぜ、日本人はそんなにも忠臣蔵に心惹かれているのか?」‥のレベルでした。


 そこに、2011年の師走のタイミングでTV各局で特集が重なったので、全部視ました。
 ‥中でもテレ東番組で紹介されていた大奥の陰謀説はおもしろかったです。

 以下‥その紹介内容と、個人的な推理と感想を加味してまとめておきました。
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posted by 木田舎滝ゆる里 at 17:03 | Comment(0) | 歴史 | 更新情報をチェックする

2011年10月21日

【参考】士農工商は、平民を印象づけるための明治政府の用いた対比用語だった

1-3)改稿.2015/08/19...20111021...

> 江戸当時、士農工商の序列がどのように認知されていたかはもはや謎である


 政権批判の類いにおいても、それが
 将軍に向けられたものなのか、地元の殿様に向けられたものなのか‥
 日常の心情においても、一極集中に無かったのだから、まとまりなどまず無かった‥
 (一極集中に無かった点に、ここでの論の切り口がある)


 ‥そもそもにしてゴミ一つ落ちていない社会性と、ゴミ落ち放題の社会性との民度を比べようがない。
 江戸時代に情報に娯楽が少なかったからとは言え、この違いをそのままに比べる事はできない。
 庶民の間には、公家と士と坊主と民衆ぐらいの違いにしか認知されていなかったように思われる。

 その理由として、日本昔話のような民話が挙げられよう。

 日本には数々の民話を言い伝える文化がある。
 それほどに、身分差の誇張があったなら、其を基点とした悪政があったなら、
 もっと多くの形で伝承され、表面化していたとしてもおかしくない。

 そこで、江戸時代の身分制度が如何様なものであったかを改めて考察してみた。
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2010年03月15日

【歴史観】下克上の下とは忍びのことである

1-9)改稿.2014/10/20...20100315...

> 戦国の世、下克上の下とは忍びのことであった。
> その象徴こそ、誰あろう豊臣秀吉だった‥などと推論してみよう。


 ついでに、秀吉と仲の良かった前田利家もまた忍びである‥そう判断しておこう。
 他にも怪しい人物はいろいろといるだろうが、とりあえず前田利家である。

 加賀百万石の農政制度(十村制:とむらせい)
 越後の薬売りからなる販売権の独占(時代は江戸に下るが‥)
 前田利益(慶次)の歌舞伎振りが大名たちの前で不問である点、徳川家との婚姻関係‥等々
 ‥どれをとっても忍びの習性そのものかと。

 忍びゆえの村統制・結束力、薬の知識、スパイ、両建て懐柔策‥である。

 それはそれで、利家の方が忍びとしての立場が上であり、
 秀吉の方が下だったのではと思わせる所だ。

 なにしろ忍びの本懐は、目立たぬ事、忍びであることを気取られぬ事なのだから‥
 一族勢力が存続して行くためにも、それなりの手を打っていたに違いは無いと思う。
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2009年12月04日

【歴史認識】上杉鷹山を斬る!

1-4)改稿.2015/08/17...20091204...

> 命題:
  他藩すべて蓄え豊かにある時、または、他藩すべて蓄え貧しくある時、
  自藩の借財を石高増のみの手段で返済することは不可能である。



 他藩すべて蓄え豊かにある時は、米価が安く支払いのコメも多く必要になりがちです。
 ‥むしろコメで支払う事を諦めて別の算段を考えるべきになります。
 他藩すべて蓄え貧しくある時は、貸し手が引く手あまたなので、借りられるとは限りません。
 ‥元手を手配できない以上、事は一向に進まないでしょう。

 さて、この命題を上杉鷹山に引っ掛けて問うて見たいと思います。
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posted by 木田舎滝ゆる里 at 15:10 | Comment(0) | 歴史 | 更新情報をチェックする

2009年07月12日

【歴史】インカ帝国の政治

1-4)改稿.2014/10/21...20090712...

> インカ帝国の政治で一番に際立っているのは、
> なんといっても、全長5万キロにも及ぶと言われるインカ道です。


 インカ道にチャスキと呼ばれる飛脚を置き、皇帝への伝令伝達を機能させていました、

 チャスキを機能させるために、
 3キロ毎にチャスキワシと呼ばれる待機小屋が用意されていました。
 それと同時に、タンボと呼ばれる宿場町が20キロ毎に設けられていました。

 その20キロなる単位は、リャマの一日に移動できる距離です。
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