集合意識なる言葉そのものは、精神世界で用いられている特定の意識を指す用語です。
なんでも宇宙における実験の星である地球において、始めて採用されているシステムだとかなんとか‥
単純に見れば、人類の総意です。是には民族単位などの総意も含まれます。総意でありながら、それ自体が個の意識として機能していると言われています。
語られている表現において、そのように判断できる範囲でしか述べられませんけどね。
しかしながら、そんな情報を基に、昔からの人間の行動を社会学と折り合わせてみるとふとした感覚に導かれるのです。
例えば漢字です。
平安時代辺りで言えば、漢字を読み書きするのは一部の階層の人達だけでした。
そこで得られた集合意識としての情報は、日本人に求められる古き伝統もしくは教養として蓄えられているように思われます。
ところが、江戸時代あたりでは、寺小屋による読み書きの学習が進み、多くの方が昔ながらの教養を受け継ぎます。娯楽と言えるものがそれほど多くない時代でしたから、みんなで同じ教養を身につけたわけです。
そこには日本人として斯くあるべしと言う精神性が蓄えられたように思われます。
時代は下り、戦後教育として一貫した横文字学習が導入されると、横文字が生活のあちこちで用いられるわけですが、そこで記憶され始めたことと言えば、欧米化です。
漢字での置き換え表現を試みていた明治とは異なり、生活様式そのものに当てはまる要素が失われ始めたのです。
その結果、日本人の気質に変化が起き始めました。
それから後、急激な変化が起こります。それがIT革命です。
会社でもPCを用いることが当たり前となり、その流れとして文字そのものを筆記する機会がめっきり減りました。
その結果、文字と接しているにも関わらず、漢字が記憶の中から浮かびにくくなってきたのです。
是が社会現象であれば、このように推理されるのです。
仮説1‥記憶というものは、現象一物で蓄積される一面を備え、それは社会現象(共有体験)においても強化・共有されるものである。
従って、生活様式が一極化していた時代と多極化している時代とでは、時代に反映される記憶の度合いに社会現象としての濃淡が生ずる。
それはまた、個の時間に創出される喜びと、他と共有していた時間に創出される喜びとに差があることの理解でもある。
では次に、主食文化です。
日本人で言えば、お米です。それの変化が起きたのも戦後です。
米国の経済戦略とか言われていますが、食の記憶として一貫した流れを想像するのであれば、胎児の頃の記憶に影響があるように思われます。
その根拠は、胎児の頃の栄養を考えてみたとき、昔のそれとは明らかに様式そのものが異なります。その記憶の中にお米を食べる喜びが少ない胎児は、その後もお米に関心を持ちにくい。そう考えても不思議はないと思います。
そして極めつけは給食パンです。
みんなで食べた記憶が鮮烈に刻まれた生活習慣です。
それが集合意識に影響を与えた‥その一面は否定できないと思います。
そう言う見方においては、米国の戦略は功を奏し、食の欧米化は加速したと言えるのです。
また違った見方をすれば、戦中・終戦直後の主食とされた芋に対する偏見は、日本の歴史上飢饉の記憶と合い重なって、かなり根強く記憶されているように思われます。
さらに時代が下れば、様々な加工食品が登場してきます。加工食品を好む人もいれば、外食ばかりの人もいると思います。そこで賄われている食材は輸入物であったりするわけです。
結果、食生活が地場然で一極していた時代は、同じ釜の飯を食うのと同じで社会全体にも一体感が醸し出されていたが、そうあれない時代ともなれば、一気に老若男女を問わずして一体感にかけ離れた空気が醸し出されるようになった‥。
特に記憶において述べるのであれば、日本人は地場の米を食べることで、先祖と繋がる記憶というものが精神性という一面に確立されて来たとすれば、それは集合意識の中で人格化している側面もあると予想されるのです。
仮説2‥集合意識に蓄えられる情報には、時代における一過性と、時代を超えた所で蓄積され形成される人格性との二つの側面が想定される。
仮説3‥仮説1と仮説2より、人間ひとり一人の個の意識は、常に集合意識の影響下におかれる。是により、より全体での場で一体感の起きている方が、集合意識にも隆盛が生じ、個人の能力にも特典が付加されるものと予想される。
仮説3の説明現象としては、何事に関しても日本人は弱くなったとお互いの口からこぼれるようになった‥それは男女の関わりにも言えそうです。定量的実験の代わりとしてそれらが挙げられます。なにぶんにも分野は社会学ですからね。
( さらに是の予想として、戦国の時代の方が現代人の科学的なスポーツ訓練などより、より身体能力において秀でていた何かがあったものと想像されるでしょう。
でなければ人力で石垣など築けない‥と思います。)
経済の二極化による多様化の推進は、仮説3から導かれる現象そのものに拍車を掛けるものであると予想される事になります。
なぜなら、今の不況社会への拒絶感が大きくなればなるほど、そこに生ずる生き甲斐そのものへと拒絶感が及ぶからです。
それが負の集合意識ともなれば、結果は自ずと想像に難くないわけです。(※犯罪・自殺・奇病の増加など‥)
仮説4‥共有における喜びへの多様化は、集合意識においても好奇心の拡大として受け入れられるが、そうでないのであれば拒絶されると予想される。
ただし、仮説3からなる心相エネルギーと覚しき現象面への投影は、両極性において起こらなければ、エネルギー現象として相応しくない。ゆえに両極面への展開が予想される。
仮説4に関しては、地球におけるシステムとして人格付けられた側面と思われます。
それはまた人間自身の生き方にも通じる所です。
それを本能と申し上げても過言ではありますまい。
仮説5‥仮説4より、心相の具象化には、集合意識の承認が程度無意識下において反映されるものと予想される。
これは個人の努力や能力を越えた全体での総意に影響されると思われるわけだが、時代を超えて成り立つ側面もあることにも注目されたい。
また、これにより、心相下に形成される心相エネルギーは、物理現象として具象化される方向性を持つと予想される。
※心相:日常心理から深層心理までを形あるものとして認識し表現した造語
※心相エネルギー:形あるものであれば、そこになんらかのエネルギー現象が発生していると考えられることから、想定的にエネルギーとして認識し表現した造語
2010年01月28日
2010年01月27日
民主主義と集合意識
みんなで考えることは概念として成り立つものの、実質的な全員参加は得られない。また、ひとり一人の細かい意見は、多数派の前においてはノイズにしかならない。
それゆえに、民主主義なる思考は多数派意見が大手を振ることになる。
そして、大抵の意見は二つの傾向に落ち着く。いわゆる保守勢力と革新勢力である。
それでもおもしろいことに、本当の意味での斬新な物事というのは、民衆の暮らしの意外な所から発生するものである。
そう言う意味では、形式的な話し合いの場というものは、議論すべき対象というものを点で見ることをもって論ずるの感覚でしかない。それが日常である。
そんな在り方に意味などあるのだろうか?
仮に地球を眼下に眺め、すべての人の思考が手に取るように見えているとしたら、どうだろうか?、誰しもはそこに新たな好奇心を抱き、斬新さを求めて事細かに分類し出すはずである。
それに基づいて様々な意見の仕分けが為されるのであれば、科学的かつ合理的に適材適所で対応することの民主主義の本質が成り立つと、誰しもは思う事だろう。
仮にここではそれが可能という立場にあるとしよう。
それはまさしく神の領域である。そう考えられればそれが一番なのかも知れない。
しかしである。誰かが奇妙なことを言い始めたり、新しい何かを興したりすれば、それにどのような反応を示すのかを予想立てる段階にでもなれば、結局はその認識において個人差が生ずるのである。
そして、人であろうと神であろうと、それの予想をより適確に言い当てる存在を優れている者として認識し、優れている存在の発言を注視するものである。
それでもおもしろいことに、本当に優れている存在は、納得の出来るまで物事の流れを冷静に見定めるまで動かないものである。
ゆえに、本当に優れている存在は、独創的な意見を述べる所がほとんどない。
断っておくが、是は間違っても独創性に疎いという意味ではない。独創的な意見を述べることに興味がないと言った風情にあるのだ。
なにしろ、誰がどんな反応を示すのかを適確に見抜いておれば、それの適任な者に言わしめれば良いだけである。
それをもって誉めるという影響力に関心を抱けばそうなるであろう。その逆も然りだ。
ただし、そこに根ざすものが、悪意であるのか善意であるのかは渦中にいるとこれがなかなかに見分けが付かないものである。
それゆえに独創的な事を語る立場の者は、独創的な意見を述べておしまいとするのが賢い生き方となる。
自ら動くことでのリスクに何のメリットも見いだせないと思えばそうなるであろう。
さて話を戻そう。
より優れていると言っても、その前提において何でもかんでも自由に事を成して宜しいと決められていれば、そこには派閥が発生することになる。
つまり、趣向の違いで意見が分かれるのである。
その時、本質的に優れた存在がその派閥内のリーダー格になると言うよりは、如何に強い主張を声高々に述べられるかの才覚こそリーダーに相応しいと言えるだろう。
もちろん思惑という要素があることも外せない。
なにしろ自由にやって良いのだから、むしろ、そちらの方が優先されるはずである。
結果、民衆は優れているという云々よりも、自分たちがどうありたいかを主体として、派閥の宣伝に乗っかって選ぶ傾向を見せるのである。
余裕があり、とことん自由が信条だと思えば、自分たちの思惑により従ってくれるメンバーに投票するだろうし、乱れて来て、モラルが重要だと思えば、斬新な意見などどこ吹く風で、真面目にやってくれればそれで十分の選択支になるだろう。
そもそもにおいて、悪化の一途を辿らない限り、本当の意味で再建するための発想を求めるなどあり得ない傾向なのも民衆である。
なにしろ民衆は、発想と実行とが成り立って執り行われる‥在るべき日常というものが、自らの問い掛けの中から生ずる譲ることの出来ない絶対視野から端を発することを知らないからである。
実権を握り、その旨味を啜る側が常に全体の三割を満たし、そのおこぼれに有り付く側が全体の二割であれば、それで半分である。
景気が良ければ、過半数を占めるのは道理、それが民主主義の盲点である。
「一体全体、民主主義とは何であったのかである?」
弱い立場の側を何とかするための選択肢の一つに民主主義という見解があった。そう思われるわけだが、その決め事の論理の足元に注目する者は実に少ない。
また、そうでないのであれば、うまい汁を啜るための選挙云々が民主主義ということになる。いわばマジックショーに近い。
そもそもにおいて、民衆とは、どうありたいかうんぬんよりも、何を体験してみたいのかという日常の衝動の方にこそ意識の針が傾くものである。
個人においてもそれは言えるのだ。
どうありたいかよりは、何を体験したいかと言う思いで一杯なのである。
それが日常に好まれる「刺激」という奴だ。
自分の好みとする刺激を求めて動こうとする傾向に傾いて行くのである。
昔からよく「初心忘れるべからず」「初志貫徹」などと言われるが、実にそのままである。
民衆のひとり一人が不動心乏しくまた思慮浅くしてそのようでしかないのであれば、民主主義とは、どうあるべきかよりは、何を興すべきかという哲学無き妄想的期待・アメとムチから成される活動的消費に陥ることを指すことになる。
そこで、政は云々どうあるべきかではなく、民衆の意識傾向自身の中にある、生活自体についてどうあるべきかと思っている深層の部分で、常日頃から定まっている意識の指針の部分を捉えてみる必要が生ずるのである。
民衆がそれを望んでいないなどと言うことはない。時代時代における集合意識下で確立しているだろう部分部分を掘り起こす事が、政を見極めるにおいて重要な意識の辿り方である。
意見を聞いて給わるのではなく、自ずから民衆として持ち合わせている感覚に聞いてみるのである。
その時、自らが民衆の感覚から掛け外れていると自覚されれば、その感覚がどの辺りを徘徊しているのかをまずは探る必要が伴う。
そして、これらはまず、各人ひとり一人の個人意識の中で行われるべきである。
すると、集合意識下において回路が繋がり、お互いの中で、在るべき事が成り立たないという仕組みに、とことん憤りを覚える事になるだろう。
何を興してくれるのかではなく、どうしてそれが成り立たないのかを問いたださずにには居られなくなるのである。
当然、流れとしては、在るべき形にしておくことに理を覚える事になろう。
それが民衆としての己であれば、そこに到るはずである。
在るべき形になることで、在るべき形として織りなされるであろうひとり一人の中に咲く文化性の違い‥それ自体との交流こそ民主主義として保たれる姿である‥人権の尊重とはそういうものである。
そのための最低限の事は、政が采を奮って取り計らうべきである。
生産・物流・分配に、いつまでも権益を競うのではなく、在るべき生活の形として、成り立つべきは成り立たせ、個人の中から目覚めるだろう才能や価値観、その違いを文化性の交流として尊重し合える生活感こそ民主主義としてあるべき姿勢である。
そのように思う次第である。
また民衆もそれを理解できなければ、完成形は成し得ない。
そして、生活をしているのは民衆である。御大層な理想論や理想家ではない。
現状は少なくとも公平な状況下にはおかれていない。可能性の追求においてその足元に公平性が成り立っていないということだ。
民主主義に対して、物質的な公平さの主張として対極を為す思想があるのであれば、そう言うことになる。
民主主義の名において、個々の人権尊重として、人生の可能性の追求における最低限の生活基盤という公平性の確保が成り立つべきだと誰しもは思っている。
花は誰しもに咲いて然りである。
しかしそれに向けられた政は何一つ為されていない。
それはまた民衆の側にも言える。そこに民衆の意識の針が向いていないのであれば当然の結果である。
ゆえに、民主主義が進化を果たすためにも、すべての意識は深層下において繋がるものであるという集合意識への理解と学問的な確立とが求められる事になろう。
それゆえに、民主主義なる思考は多数派意見が大手を振ることになる。
そして、大抵の意見は二つの傾向に落ち着く。いわゆる保守勢力と革新勢力である。
それでもおもしろいことに、本当の意味での斬新な物事というのは、民衆の暮らしの意外な所から発生するものである。
そう言う意味では、形式的な話し合いの場というものは、議論すべき対象というものを点で見ることをもって論ずるの感覚でしかない。それが日常である。
そんな在り方に意味などあるのだろうか?
仮に地球を眼下に眺め、すべての人の思考が手に取るように見えているとしたら、どうだろうか?、誰しもはそこに新たな好奇心を抱き、斬新さを求めて事細かに分類し出すはずである。
それに基づいて様々な意見の仕分けが為されるのであれば、科学的かつ合理的に適材適所で対応することの民主主義の本質が成り立つと、誰しもは思う事だろう。
仮にここではそれが可能という立場にあるとしよう。
それはまさしく神の領域である。そう考えられればそれが一番なのかも知れない。
しかしである。誰かが奇妙なことを言い始めたり、新しい何かを興したりすれば、それにどのような反応を示すのかを予想立てる段階にでもなれば、結局はその認識において個人差が生ずるのである。
そして、人であろうと神であろうと、それの予想をより適確に言い当てる存在を優れている者として認識し、優れている存在の発言を注視するものである。
それでもおもしろいことに、本当に優れている存在は、納得の出来るまで物事の流れを冷静に見定めるまで動かないものである。
ゆえに、本当に優れている存在は、独創的な意見を述べる所がほとんどない。
断っておくが、是は間違っても独創性に疎いという意味ではない。独創的な意見を述べることに興味がないと言った風情にあるのだ。
なにしろ、誰がどんな反応を示すのかを適確に見抜いておれば、それの適任な者に言わしめれば良いだけである。
それをもって誉めるという影響力に関心を抱けばそうなるであろう。その逆も然りだ。
ただし、そこに根ざすものが、悪意であるのか善意であるのかは渦中にいるとこれがなかなかに見分けが付かないものである。
それゆえに独創的な事を語る立場の者は、独創的な意見を述べておしまいとするのが賢い生き方となる。
自ら動くことでのリスクに何のメリットも見いだせないと思えばそうなるであろう。
さて話を戻そう。
より優れていると言っても、その前提において何でもかんでも自由に事を成して宜しいと決められていれば、そこには派閥が発生することになる。
つまり、趣向の違いで意見が分かれるのである。
その時、本質的に優れた存在がその派閥内のリーダー格になると言うよりは、如何に強い主張を声高々に述べられるかの才覚こそリーダーに相応しいと言えるだろう。
もちろん思惑という要素があることも外せない。
なにしろ自由にやって良いのだから、むしろ、そちらの方が優先されるはずである。
結果、民衆は優れているという云々よりも、自分たちがどうありたいかを主体として、派閥の宣伝に乗っかって選ぶ傾向を見せるのである。
余裕があり、とことん自由が信条だと思えば、自分たちの思惑により従ってくれるメンバーに投票するだろうし、乱れて来て、モラルが重要だと思えば、斬新な意見などどこ吹く風で、真面目にやってくれればそれで十分の選択支になるだろう。
そもそもにおいて、悪化の一途を辿らない限り、本当の意味で再建するための発想を求めるなどあり得ない傾向なのも民衆である。
なにしろ民衆は、発想と実行とが成り立って執り行われる‥在るべき日常というものが、自らの問い掛けの中から生ずる譲ることの出来ない絶対視野から端を発することを知らないからである。
実権を握り、その旨味を啜る側が常に全体の三割を満たし、そのおこぼれに有り付く側が全体の二割であれば、それで半分である。
景気が良ければ、過半数を占めるのは道理、それが民主主義の盲点である。
「一体全体、民主主義とは何であったのかである?」
弱い立場の側を何とかするための選択肢の一つに民主主義という見解があった。そう思われるわけだが、その決め事の論理の足元に注目する者は実に少ない。
また、そうでないのであれば、うまい汁を啜るための選挙云々が民主主義ということになる。いわばマジックショーに近い。
そもそもにおいて、民衆とは、どうありたいかうんぬんよりも、何を体験してみたいのかという日常の衝動の方にこそ意識の針が傾くものである。
個人においてもそれは言えるのだ。
どうありたいかよりは、何を体験したいかと言う思いで一杯なのである。
それが日常に好まれる「刺激」という奴だ。
自分の好みとする刺激を求めて動こうとする傾向に傾いて行くのである。
昔からよく「初心忘れるべからず」「初志貫徹」などと言われるが、実にそのままである。
民衆のひとり一人が不動心乏しくまた思慮浅くしてそのようでしかないのであれば、民主主義とは、どうあるべきかよりは、何を興すべきかという哲学無き妄想的期待・アメとムチから成される活動的消費に陥ることを指すことになる。
そこで、政は云々どうあるべきかではなく、民衆の意識傾向自身の中にある、生活自体についてどうあるべきかと思っている深層の部分で、常日頃から定まっている意識の指針の部分を捉えてみる必要が生ずるのである。
民衆がそれを望んでいないなどと言うことはない。時代時代における集合意識下で確立しているだろう部分部分を掘り起こす事が、政を見極めるにおいて重要な意識の辿り方である。
意見を聞いて給わるのではなく、自ずから民衆として持ち合わせている感覚に聞いてみるのである。
その時、自らが民衆の感覚から掛け外れていると自覚されれば、その感覚がどの辺りを徘徊しているのかをまずは探る必要が伴う。
そして、これらはまず、各人ひとり一人の個人意識の中で行われるべきである。
すると、集合意識下において回路が繋がり、お互いの中で、在るべき事が成り立たないという仕組みに、とことん憤りを覚える事になるだろう。
何を興してくれるのかではなく、どうしてそれが成り立たないのかを問いたださずにには居られなくなるのである。
当然、流れとしては、在るべき形にしておくことに理を覚える事になろう。
それが民衆としての己であれば、そこに到るはずである。
在るべき形になることで、在るべき形として織りなされるであろうひとり一人の中に咲く文化性の違い‥それ自体との交流こそ民主主義として保たれる姿である‥人権の尊重とはそういうものである。
そのための最低限の事は、政が采を奮って取り計らうべきである。
生産・物流・分配に、いつまでも権益を競うのではなく、在るべき生活の形として、成り立つべきは成り立たせ、個人の中から目覚めるだろう才能や価値観、その違いを文化性の交流として尊重し合える生活感こそ民主主義としてあるべき姿勢である。
そのように思う次第である。
また民衆もそれを理解できなければ、完成形は成し得ない。
そして、生活をしているのは民衆である。御大層な理想論や理想家ではない。
現状は少なくとも公平な状況下にはおかれていない。可能性の追求においてその足元に公平性が成り立っていないということだ。
民主主義に対して、物質的な公平さの主張として対極を為す思想があるのであれば、そう言うことになる。
民主主義の名において、個々の人権尊重として、人生の可能性の追求における最低限の生活基盤という公平性の確保が成り立つべきだと誰しもは思っている。
花は誰しもに咲いて然りである。
しかしそれに向けられた政は何一つ為されていない。
それはまた民衆の側にも言える。そこに民衆の意識の針が向いていないのであれば当然の結果である。
ゆえに、民主主義が進化を果たすためにも、すべての意識は深層下において繋がるものであるという集合意識への理解と学問的な確立とが求められる事になろう。
2009年07月22日
郷活主義
「郷活」の文字を目にしてまず思い浮かぶのは、自給自足、地産地消だと思います。
確かにそこは基本ラインにある言葉です。
しかし「郷活主義」として大きな方向性を打ち出すには、理想とする社会体制のあり方を提示できなければ成り立ちません。そして、自給自足に地産地消をモットーにされる方は多くおられても、なかなかそこまで意見主張を広げられる方は無いように思います。
そこで、その辺りをうんちくしてみようと思い立ちました。
グローバル化した経済構造において現在為されている主張は資本主義です。
その資本主義の危うさは我が国の食糧自給率40%にまで落ち込んでさえもなお、成り行くと誰しもに錯覚させている所にあると思います。実際、そんな地に足のついていない国家経営はまやかしに過ぎません。
なぜなら、経済不均衡の現実がそこにあるからです。お互いの国家がフェアーにあれていないからこそ成り立ってしまっているのです。だからといって、即刻、為替変動を廃して1:1の世界にしてしまえば、我が国に住む人口の7割はたぶん、半年をしのげずに餓死に直面するように思われます。
(※ 為替が1:1ならば運送コストの分、産地に近い方が買い負けしないため。最後に日本に売ってやれば良いという転がし転売が可能。北米なら中南米に競り負け、豪州なら東南アジアに競り負け、中国なら内陸部に競り負ける。)
そこに潜む危機感をないがしろにして、地球温暖化対策を資本主義で推し進めて行くしかないと考えていれば、その危機感はますます現実的なものになるはずです。
所詮は資本主義です。勝ち残ることだけが正義にしかあれていない世界観です。一次産業主体への転換を人々が求めようとも、シェア獲得の早い者勝ちにしかない=生活するのに十分にあれないのであれば、それは深刻化するだけです。
また、深刻化してしまえばしてしまったで、地球規模での人口増加にはなおさらに対応できず、万民に向けられた幸福の追求などそれこそ幻想のまやかしにすぎない無力さを覚えるだけの後の祭りです。
資本社会・グローバル化の基本にある市場競争の論理で行けば、地場産業の成長速度には何らおかまいなしに事が進んでしまいます。お互いに生きている以上、待ったなしはそれなりに受け留めるとしても、説明も準備も十分になく、いつの間にか地場の方から淘汰に追い込まれているのがそのスタンスです。
その上、市場での主権を担うには、シェアの獲得であるとか、資本効率であるとかばかりが殊更に主張されています。一体全体、一部の勝者・挑戦者たちにそこまでの権利などあるのでしょうか?
地場を育てると言うことは、そのような競争の論理とは違います。
人間ひとり一人には成長を地道に歩む権利もあるのです。
そう言う社会体制が生活の中心にあっても良いと思います。
歴史や時代の天才をもてはやし、そこにばかり人間的価値を集中させている姿勢も如何なものかと思います。
そして結論づけたかのように、才能ではなく努力にあるとは言うものの、実際、基本的な人間の価値は努力の大きさでそれほどに変化するような代物ではございません。差が生じるとすれば、民族的規模で為される文化力の差となります。
医者はどうでしょう?、努力のあり方の差で患者を診ますでしょうか?
レンジャーの方はどうでしょう?、経歴を調べてから助けようとしているでしょうか?
馬車馬労働のなれの果ての不養生の末に、努力の足りない人だからと‥医者にそんな顔をされたら、歯を食いしばる頑張りなど何の価値もないという裏返しになってしまいます。
そのくせ、同じやり方で医者が競争し合っていれば、そうあったで、医療ミスの増加は織り込み済みです。努力って何でしょう?、競争って何でしょう?、経済成長ってなんなんですか?
資本主義のやり方で、みんなでぼろぼろになるまでがんばっても、良い医者の数は増えません。
良い治療に巡り会える絶対数の方が少ないのです。それが競争社会の刹那です。矛盾です。
一流はしょせんどんな時代でも指の数でしょう。それが一流という評価にあります。
それでも、底辺の底上げはやり方を変えればいくらでも望めます。
そしてそれは資本主義ルールの下においては不可能です。
上場企業は、社会的責任を背負うことにあると自慢げに主張しています。
その割には、生き残ることをその理由に挙げて、今の時代は即戦力だけを求めている有様ですとこぼします。
自分で自分を完全に育て鍛えてから門を叩きなさいなどとは、何様のつもりなのでしょうか?
育った環境の善し悪しの差がそのままに繁栄されてくる状況を露呈し始めているのが今の時代です。資本主義構造の末期症状です。
これほど人権のあり方に矛盾した主義主張が、これ以降も世界のスタンダードとして成り立つとすれば、民主主義における平等は死ぬだけです。
今こそ足下を見直し、本来あるべき人間同士の和を保てる構造にあらためるべきなのです。
そのような方向性を見いだす言葉として「郷活主義」をここに主張して行きます。
確かにそこは基本ラインにある言葉です。
しかし「郷活主義」として大きな方向性を打ち出すには、理想とする社会体制のあり方を提示できなければ成り立ちません。そして、自給自足に地産地消をモットーにされる方は多くおられても、なかなかそこまで意見主張を広げられる方は無いように思います。
そこで、その辺りをうんちくしてみようと思い立ちました。
グローバル化した経済構造において現在為されている主張は資本主義です。
その資本主義の危うさは我が国の食糧自給率40%にまで落ち込んでさえもなお、成り行くと誰しもに錯覚させている所にあると思います。実際、そんな地に足のついていない国家経営はまやかしに過ぎません。
なぜなら、経済不均衡の現実がそこにあるからです。お互いの国家がフェアーにあれていないからこそ成り立ってしまっているのです。だからといって、即刻、為替変動を廃して1:1の世界にしてしまえば、我が国に住む人口の7割はたぶん、半年をしのげずに餓死に直面するように思われます。
(※ 為替が1:1ならば運送コストの分、産地に近い方が買い負けしないため。最後に日本に売ってやれば良いという転がし転売が可能。北米なら中南米に競り負け、豪州なら東南アジアに競り負け、中国なら内陸部に競り負ける。)
そこに潜む危機感をないがしろにして、地球温暖化対策を資本主義で推し進めて行くしかないと考えていれば、その危機感はますます現実的なものになるはずです。
所詮は資本主義です。勝ち残ることだけが正義にしかあれていない世界観です。一次産業主体への転換を人々が求めようとも、シェア獲得の早い者勝ちにしかない=生活するのに十分にあれないのであれば、それは深刻化するだけです。
また、深刻化してしまえばしてしまったで、地球規模での人口増加にはなおさらに対応できず、万民に向けられた幸福の追求などそれこそ幻想のまやかしにすぎない無力さを覚えるだけの後の祭りです。
資本社会・グローバル化の基本にある市場競争の論理で行けば、地場産業の成長速度には何らおかまいなしに事が進んでしまいます。お互いに生きている以上、待ったなしはそれなりに受け留めるとしても、説明も準備も十分になく、いつの間にか地場の方から淘汰に追い込まれているのがそのスタンスです。
その上、市場での主権を担うには、シェアの獲得であるとか、資本効率であるとかばかりが殊更に主張されています。一体全体、一部の勝者・挑戦者たちにそこまでの権利などあるのでしょうか?
地場を育てると言うことは、そのような競争の論理とは違います。
人間ひとり一人には成長を地道に歩む権利もあるのです。
そう言う社会体制が生活の中心にあっても良いと思います。
歴史や時代の天才をもてはやし、そこにばかり人間的価値を集中させている姿勢も如何なものかと思います。
そして結論づけたかのように、才能ではなく努力にあるとは言うものの、実際、基本的な人間の価値は努力の大きさでそれほどに変化するような代物ではございません。差が生じるとすれば、民族的規模で為される文化力の差となります。
医者はどうでしょう?、努力のあり方の差で患者を診ますでしょうか?
レンジャーの方はどうでしょう?、経歴を調べてから助けようとしているでしょうか?
馬車馬労働のなれの果ての不養生の末に、努力の足りない人だからと‥医者にそんな顔をされたら、歯を食いしばる頑張りなど何の価値もないという裏返しになってしまいます。
そのくせ、同じやり方で医者が競争し合っていれば、そうあったで、医療ミスの増加は織り込み済みです。努力って何でしょう?、競争って何でしょう?、経済成長ってなんなんですか?
資本主義のやり方で、みんなでぼろぼろになるまでがんばっても、良い医者の数は増えません。
良い治療に巡り会える絶対数の方が少ないのです。それが競争社会の刹那です。矛盾です。
一流はしょせんどんな時代でも指の数でしょう。それが一流という評価にあります。
それでも、底辺の底上げはやり方を変えればいくらでも望めます。
そしてそれは資本主義ルールの下においては不可能です。
上場企業は、社会的責任を背負うことにあると自慢げに主張しています。
その割には、生き残ることをその理由に挙げて、今の時代は即戦力だけを求めている有様ですとこぼします。
自分で自分を完全に育て鍛えてから門を叩きなさいなどとは、何様のつもりなのでしょうか?
育った環境の善し悪しの差がそのままに繁栄されてくる状況を露呈し始めているのが今の時代です。資本主義構造の末期症状です。
これほど人権のあり方に矛盾した主義主張が、これ以降も世界のスタンダードとして成り立つとすれば、民主主義における平等は死ぬだけです。
今こそ足下を見直し、本来あるべき人間同士の和を保てる構造にあらためるべきなのです。
そのような方向性を見いだす言葉として「郷活主義」をここに主張して行きます。
2009年07月03日
民族人道
民族人道を口で語るにしても、それを政でとりまとめて行くにしても、誰もに「これだ!」という見解を示せるものではないと思います。とくにこの場合は一民族のことを指しているのではなく、地球民族としての人道とは何か?‥どのようにあるべきなのか?を問いかけておるわけですから、なおさらに道は険しいと思います。
とくに一昔前の人道観と今どきの人道観とは見解もまったく異なっています。
昔は今と比べれば、何もないぐらいの暮らしで成り立っていましたから、人道を通すこと=土着を生かすことでした。大局で見ればそれでほぼ釣り合っていたと思います。
でも今はそうではありません。
「モノが無ければ無いで、有るところから持ち込んでくればいい‥」皆さんふつうにそう思っています。その結果、外来生物問題であったり、海外市場との競争にさらされていたり、大気汚染の煽りを海の向こうから心配しなくてはならない状況にあります。
それでも、一度味わってしまった取り組みを今更やめられないとばかりにあります。
海外支援の話にしてもそうです。でも実際、モノや箱だけの支援は本当の支援ではありません。人材の派遣から始まって、現地での技術者の育成、そしてその物事に関連した理解がその土地の人々に浸透してはじめて支援が成り立つのです。
しかしながら支援と言っても資本主義の本質はそんな生やさしい論理を持っていません。
教わった→理解した→じゃ競争しましょうね。それが資本主義の刹那的な側面です。
そんなのは、ちょっと子供におしえたばかりの麻雀でプロが賭けをふっかけているようなものです。それで、かわいそうだからと言わんばかりに誰かがフェアートレードを推進しましょうと言い出しているのが最近の流れです。
実際、生活はゲームではありませんから背に腹は代えられません。それが一つの人道なのかなぁと思わせるところがあります。
しかし、よくよく考えてみれば、それは何一つフェアーになどあれていません。
本当にフェアートレードを突き詰めて行けば、変動為替を廃止して、1:1の取引をしてゆくことが一番であるはずです。
すると、その瞬間からチョコレート1枚は千円2千円‥して当然になるでしょう。
輸送コストや人件費を真面目に考えればもっと高くてもおかしくありません。
まずいうまい、その土地に暮らす人々の口に合う合わない、そのような要素を考慮したとしても、輸送コストと賃金とが世界均一にそのまま商品にプラスされることになりますから、どこの国でも食料生産における保護政策、輸出規制をする必要などないぐらいになるはずです。
それはなによりもまず、自国での食料自給率の確保が大前提になるからです。
その次に建材の確保です。国内だけで資材がまかなえなければ、家を建てることはやっぱりお金の掛かることになるわけです。コストを勉強しようと思っても1本の柱が育つのに20年は掛かります。人間の成長とさほど変わりのない年月が必要になるのです。それが土地に根ざしたリズムというものです。
そのリズムに魔法をかけていたのが為替変動です。
為替市場の相場が需要と供給の関係で成り立っていると思ったら大間違いです。
銀行家同士の話し合いで決められていたのです。銀行家と言っても闇組織・一族ぐるみという内容にあると聞きます。
彼らにとって為替変動とは、右から左に資金を自由に動かせるようにしておくための上策です。お互いにそう思い込ませておくための一つのトリックでしかあれません。なんにせよ資金力が多ければ多いほど市場を操作できますし、そのための紙幣発行権限を手中にしておくという巧妙なカラクリにありました。
もともと金本位制時代に、限られた金・銀をやり繰りするための手段だったのです。為替で変動させることができれば、それなりに都合を謀りやすかったはずです。
国の代表同士、政治家同士の話し合いなど大方茶番だそうです。その闇組織が上から仕切って指図しているか、両立てで手先を送り込んでいるかのどちらかだそうです。
たとえそうであろうと無かろうと、フェアーにトレードすることを考えて行けば、答えは決まっています。為替の割合に何を?どう基準とすれば?定めれば?この先の公平が確保されるのかを、よく考えてみれば良いのです。
民族人道の考えであれば、うむを言わせず「1:1」それがフェアーにあると思います。
まずはそこからはじめなければ、どこの国も納得しないでしょう。人口大国であれば小国よりもより多くの通貨発行を希望して当たり前です。そうでなければ一人あたりの持ち高など国際間で公平にあれるわけがないのです。
人間の価値が等しくあると思うのなら、同職同種にあたる基本賃金のあり方に世界のあちこちで差があると言うこと自体がおかしいのです。為替という差が発生し続ける限り、永遠に解決することはありません。そう思います。
そこをまず押さえることで、他国への工場進出等を見直した場合、自国で足を固めるのが手っ取り早い仕組みとして戻って来るのです。人件費が同じであれば、わざわざ海外に展開するメリットなどあまりありません。それこそ進出した国で技術や文化を土着させて行かせるぐらいの勢いでないと続けられないと思います。そして、その国の人たちに受け入れてもらえなければお話になりません。それが人道的にあれる流れなんだと思います。
その時、技術的支援を求める国があれば、支援を求める方も支援する方も、最先端を導入して行くのか、それともその国にあった方向で検討して行くのかを選ぶ必要があると思います。
ここを従来通りの商いの競争だけで考えてしまえば、それは単に売った買ったの皮算用の限界として現れます。高い資金を出しました→うまく行きませんでした→街のど真ん中にゴミができました→資金がないのでそれ以上に展開させることができません。
それが市場競争の罠であり、限界です。
でも国民通貨としてその代表である政府が赤字と無縁な通貨を必要なだけ発行が可能であり、かつ、どこの国とも為替が1:1にあるならば、足踏みをしている必要はもうありません。可能な限り挑戦することができるのです。
しかし、この時に注意しなければならない点があります。
それは国家が、国民が、お互いに自分たちの方針に理解を持ち合わせていなければ、ゴミが溜まって行く一方になるという結果を招くことです。買い物をし続けるとはそう言うことです。
それらの資源をあとからリサイクルできずに埋もらせてしまうことこそ、宝の持ち腐れであり、本来あるべきデフォルトなのです。でもそんな話は聞いたためしがありません。
「お金の価値(経済的価値)が無くなったからデフォルトが起きる‥」
皆さんそう理解されています。しかしながら、お金の価値がなくなるというのは、実際の所、その国の文化価値が無くなったことであり、暮らしている人間の価値が低下したという意味です。
一体誰がそんなことを断言できるというのでしょうか?
あり得ないと思います。たとえ昔ながらの暮らしで十分であっても、その国に国際的な交流を望む者が一人でもおれば、そこに適度な資金を投じて行ける仕組みはあるべきです。そこに文化価値がありませんからそのような通貨の発行はよろしくないなどと誰も決めつけられないと思います。
あえて言っておくならば、それをダメだと決めつけて来るのはいつも投資家の論理です。
「お前に投資したのはこの私だから、私に従え、嫌ならすぐに資金をお前が払って返せ‥」お約束の台詞です。払えないとわかっていればこそ、借り換えを永遠に続けさせて、逃がさず殺さずの金利を求めて来るのです。このようなお金のあり方のどこに人道があるというのでしょうか?
その後ろでは、変動為替と強い通貨の発行権限をいくつか手にしている算段が控えています。
そして強力な軍隊の確保です。それが闇の投資家の恐い者知らずな論理です。
それを人類の有史の記憶から述べてみれば、村の掟とよく似ています。
村に属することで外敵からの安全を保障してもらっていた。その掟が嫌なら、この村から出て行け‥実によく似ていると思います。それでも土地に根ざしてやっていた分だけ、村の掟の方がまだ自然とのリズムを守っています。それが村の掟でもありました。
でもどんな投資家にもそんな論理はまずありません。儲けるためには科学で証明されないことに耳を貸すこともまずありません。まずは兎にも角にも損失を出さずに経営してもらうこと‥それが大前提なのです。
世の中持ちつ持たれつなので投資としての掴みはそれで十分だと思います。
しかしながら、民族人道の視点からすれば、明らかに自分たちの足下である生態系の破壊を押し進めてしまっている事柄に対してははっきりと‘NO’であるべきです。
とくに原子力がそうです。核汚染廃棄物の増加で何が一番に良くないかといえば、汚染水が出続ける点にあります。地球は生きています。その中にある水は連動しています。人体で言えば体液と連動しています。たとえ頑丈に隔離しておいても連動しているのです。原子力の廃棄から出た物質を冷やすのに大量の水が必要とされています。200年ぐらい漬けておかないと冷えないと聞きます。そんなんで原子力開発を盛大にやろうなどとは全滅行為に等しいのです。
DNA操作にも同じ事が言えます。外に広まらなければ良いと思われていますが、地上で興されていることはすべて地球上に存在するすべての生命に波及します。人間がわざわざ行っているDNA操作は自らの遺伝子に奇形や新種のウイルスを持ち込んでいるようなものなのです。ラボである内は大丈夫などと考えていると、それらの行為の蓄積が次第に取り返しのつかない事態を招き寄せてしまう可能性を持っています。
この2点は現在、非常に悲観的な末路を可能性の中に引き寄せてしまっています。
民族人道は、もはや科学知識の誤認すら許してもらえない段階にあるのです。
競争の一側面である美酒に一喜一憂している発想では成り立たないのです。そのような難しさがあるのです。それこそ宇宙人や神霊にでもうかがってみなければなりません。
しかし、実際の所‥彼らの人類に対する見解は、実験とか修行とか、宇宙の縮図だとか何やら人類のやること為すことの善し悪しを知っているにも関わらず、必要だと思われている範囲でしか諭してきません。その教えたことをどのように解釈するのかも実験に観察の模様なのだと言います。
所詮は、地球民族として解り合おうとする姿勢にこそ、真実がもたらされるのだと言わんばかりです。まぁそんな話に宇宙人も神霊も居ようがいまいが関係ありませんけどね。でも実際ちゃんと居ることはいます。それで死んで会えるのか?と言うと、そこもまたケースバイケースでしかあれないようです。死んでも生きていることの意味、それが証明になることの意味すら理解できないようでは会う必要もない。
そこはもう、死んでからもお付き合いの世界の続きにあるだけです。
ただし24時間ベタで観察されていることだけは確かです。否、見守っておられると言っておきましょう。
とくに一昔前の人道観と今どきの人道観とは見解もまったく異なっています。
昔は今と比べれば、何もないぐらいの暮らしで成り立っていましたから、人道を通すこと=土着を生かすことでした。大局で見ればそれでほぼ釣り合っていたと思います。
でも今はそうではありません。
「モノが無ければ無いで、有るところから持ち込んでくればいい‥」皆さんふつうにそう思っています。その結果、外来生物問題であったり、海外市場との競争にさらされていたり、大気汚染の煽りを海の向こうから心配しなくてはならない状況にあります。
それでも、一度味わってしまった取り組みを今更やめられないとばかりにあります。
海外支援の話にしてもそうです。でも実際、モノや箱だけの支援は本当の支援ではありません。人材の派遣から始まって、現地での技術者の育成、そしてその物事に関連した理解がその土地の人々に浸透してはじめて支援が成り立つのです。
しかしながら支援と言っても資本主義の本質はそんな生やさしい論理を持っていません。
教わった→理解した→じゃ競争しましょうね。それが資本主義の刹那的な側面です。
そんなのは、ちょっと子供におしえたばかりの麻雀でプロが賭けをふっかけているようなものです。それで、かわいそうだからと言わんばかりに誰かがフェアートレードを推進しましょうと言い出しているのが最近の流れです。
実際、生活はゲームではありませんから背に腹は代えられません。それが一つの人道なのかなぁと思わせるところがあります。
しかし、よくよく考えてみれば、それは何一つフェアーになどあれていません。
本当にフェアートレードを突き詰めて行けば、変動為替を廃止して、1:1の取引をしてゆくことが一番であるはずです。
すると、その瞬間からチョコレート1枚は千円2千円‥して当然になるでしょう。
輸送コストや人件費を真面目に考えればもっと高くてもおかしくありません。
まずいうまい、その土地に暮らす人々の口に合う合わない、そのような要素を考慮したとしても、輸送コストと賃金とが世界均一にそのまま商品にプラスされることになりますから、どこの国でも食料生産における保護政策、輸出規制をする必要などないぐらいになるはずです。
それはなによりもまず、自国での食料自給率の確保が大前提になるからです。
その次に建材の確保です。国内だけで資材がまかなえなければ、家を建てることはやっぱりお金の掛かることになるわけです。コストを勉強しようと思っても1本の柱が育つのに20年は掛かります。人間の成長とさほど変わりのない年月が必要になるのです。それが土地に根ざしたリズムというものです。
そのリズムに魔法をかけていたのが為替変動です。
為替市場の相場が需要と供給の関係で成り立っていると思ったら大間違いです。
銀行家同士の話し合いで決められていたのです。銀行家と言っても闇組織・一族ぐるみという内容にあると聞きます。
彼らにとって為替変動とは、右から左に資金を自由に動かせるようにしておくための上策です。お互いにそう思い込ませておくための一つのトリックでしかあれません。なんにせよ資金力が多ければ多いほど市場を操作できますし、そのための紙幣発行権限を手中にしておくという巧妙なカラクリにありました。
もともと金本位制時代に、限られた金・銀をやり繰りするための手段だったのです。為替で変動させることができれば、それなりに都合を謀りやすかったはずです。
国の代表同士、政治家同士の話し合いなど大方茶番だそうです。その闇組織が上から仕切って指図しているか、両立てで手先を送り込んでいるかのどちらかだそうです。
たとえそうであろうと無かろうと、フェアーにトレードすることを考えて行けば、答えは決まっています。為替の割合に何を?どう基準とすれば?定めれば?この先の公平が確保されるのかを、よく考えてみれば良いのです。
民族人道の考えであれば、うむを言わせず「1:1」それがフェアーにあると思います。
まずはそこからはじめなければ、どこの国も納得しないでしょう。人口大国であれば小国よりもより多くの通貨発行を希望して当たり前です。そうでなければ一人あたりの持ち高など国際間で公平にあれるわけがないのです。
人間の価値が等しくあると思うのなら、同職同種にあたる基本賃金のあり方に世界のあちこちで差があると言うこと自体がおかしいのです。為替という差が発生し続ける限り、永遠に解決することはありません。そう思います。
そこをまず押さえることで、他国への工場進出等を見直した場合、自国で足を固めるのが手っ取り早い仕組みとして戻って来るのです。人件費が同じであれば、わざわざ海外に展開するメリットなどあまりありません。それこそ進出した国で技術や文化を土着させて行かせるぐらいの勢いでないと続けられないと思います。そして、その国の人たちに受け入れてもらえなければお話になりません。それが人道的にあれる流れなんだと思います。
その時、技術的支援を求める国があれば、支援を求める方も支援する方も、最先端を導入して行くのか、それともその国にあった方向で検討して行くのかを選ぶ必要があると思います。
ここを従来通りの商いの競争だけで考えてしまえば、それは単に売った買ったの皮算用の限界として現れます。高い資金を出しました→うまく行きませんでした→街のど真ん中にゴミができました→資金がないのでそれ以上に展開させることができません。
それが市場競争の罠であり、限界です。
でも国民通貨としてその代表である政府が赤字と無縁な通貨を必要なだけ発行が可能であり、かつ、どこの国とも為替が1:1にあるならば、足踏みをしている必要はもうありません。可能な限り挑戦することができるのです。
しかし、この時に注意しなければならない点があります。
それは国家が、国民が、お互いに自分たちの方針に理解を持ち合わせていなければ、ゴミが溜まって行く一方になるという結果を招くことです。買い物をし続けるとはそう言うことです。
それらの資源をあとからリサイクルできずに埋もらせてしまうことこそ、宝の持ち腐れであり、本来あるべきデフォルトなのです。でもそんな話は聞いたためしがありません。
「お金の価値(経済的価値)が無くなったからデフォルトが起きる‥」
皆さんそう理解されています。しかしながら、お金の価値がなくなるというのは、実際の所、その国の文化価値が無くなったことであり、暮らしている人間の価値が低下したという意味です。
一体誰がそんなことを断言できるというのでしょうか?
あり得ないと思います。たとえ昔ながらの暮らしで十分であっても、その国に国際的な交流を望む者が一人でもおれば、そこに適度な資金を投じて行ける仕組みはあるべきです。そこに文化価値がありませんからそのような通貨の発行はよろしくないなどと誰も決めつけられないと思います。
あえて言っておくならば、それをダメだと決めつけて来るのはいつも投資家の論理です。
「お前に投資したのはこの私だから、私に従え、嫌ならすぐに資金をお前が払って返せ‥」お約束の台詞です。払えないとわかっていればこそ、借り換えを永遠に続けさせて、逃がさず殺さずの金利を求めて来るのです。このようなお金のあり方のどこに人道があるというのでしょうか?
その後ろでは、変動為替と強い通貨の発行権限をいくつか手にしている算段が控えています。
そして強力な軍隊の確保です。それが闇の投資家の恐い者知らずな論理です。
それを人類の有史の記憶から述べてみれば、村の掟とよく似ています。
村に属することで外敵からの安全を保障してもらっていた。その掟が嫌なら、この村から出て行け‥実によく似ていると思います。それでも土地に根ざしてやっていた分だけ、村の掟の方がまだ自然とのリズムを守っています。それが村の掟でもありました。
でもどんな投資家にもそんな論理はまずありません。儲けるためには科学で証明されないことに耳を貸すこともまずありません。まずは兎にも角にも損失を出さずに経営してもらうこと‥それが大前提なのです。
世の中持ちつ持たれつなので投資としての掴みはそれで十分だと思います。
しかしながら、民族人道の視点からすれば、明らかに自分たちの足下である生態系の破壊を押し進めてしまっている事柄に対してははっきりと‘NO’であるべきです。
とくに原子力がそうです。核汚染廃棄物の増加で何が一番に良くないかといえば、汚染水が出続ける点にあります。地球は生きています。その中にある水は連動しています。人体で言えば体液と連動しています。たとえ頑丈に隔離しておいても連動しているのです。原子力の廃棄から出た物質を冷やすのに大量の水が必要とされています。200年ぐらい漬けておかないと冷えないと聞きます。そんなんで原子力開発を盛大にやろうなどとは全滅行為に等しいのです。
DNA操作にも同じ事が言えます。外に広まらなければ良いと思われていますが、地上で興されていることはすべて地球上に存在するすべての生命に波及します。人間がわざわざ行っているDNA操作は自らの遺伝子に奇形や新種のウイルスを持ち込んでいるようなものなのです。ラボである内は大丈夫などと考えていると、それらの行為の蓄積が次第に取り返しのつかない事態を招き寄せてしまう可能性を持っています。
この2点は現在、非常に悲観的な末路を可能性の中に引き寄せてしまっています。
民族人道は、もはや科学知識の誤認すら許してもらえない段階にあるのです。
競争の一側面である美酒に一喜一憂している発想では成り立たないのです。そのような難しさがあるのです。それこそ宇宙人や神霊にでもうかがってみなければなりません。
しかし、実際の所‥彼らの人類に対する見解は、実験とか修行とか、宇宙の縮図だとか何やら人類のやること為すことの善し悪しを知っているにも関わらず、必要だと思われている範囲でしか諭してきません。その教えたことをどのように解釈するのかも実験に観察の模様なのだと言います。
所詮は、地球民族として解り合おうとする姿勢にこそ、真実がもたらされるのだと言わんばかりです。まぁそんな話に宇宙人も神霊も居ようがいまいが関係ありませんけどね。でも実際ちゃんと居ることはいます。それで死んで会えるのか?と言うと、そこもまたケースバイケースでしかあれないようです。死んでも生きていることの意味、それが証明になることの意味すら理解できないようでは会う必要もない。
そこはもう、死んでからもお付き合いの世界の続きにあるだけです。
ただし24時間ベタで観察されていることだけは確かです。否、見守っておられると言っておきましょう。
2009年06月29日
100万ドル資産保有割合のうんちく
世界で100万ドル以上の資産を保有する富裕層人口
2007年末時点…前年比+ 6.0%の1010万人
2008年末時点…前年比−14.9%の 860万人
※UFBメリルリンチ日本証券発表
世界人口2007年7月現在の推計、66億人
※フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』参照
100万ドル(※円換算100円で1億円)以上を保有する割合は、全体比0.13%程となる。
ちなみに日本の富裕層は−9.9%の136万人
2005年国勢調査時点1億2776万7994人
およそ1億2700万人とすれば、全体比1.07%程となる
富裕層が持つ資産残高は−10.5%減の32兆8千億ドル
3千億ドル以上の資産を保有する超富裕層−24.6%減、数公開なし
08年度末富裕層の上位5ヵ国
米国 246万人 −18.5%減
日本 136 − 9.9
ドイツ 81 − 2.7
中国 36.4 −11.8
英国 36.2 −26.3
この情報を参考にすれば、100万ドル以上を稼げる割合は全体の1%を満たすことがないとよくわかる。そして、0.13%ならば、富裕層は全体の一人あたりから769ドル程度売り上げている計算が成り立つ。円換算95円ならば7万3千円程である。
これはそのまま、個数売却の差を無視すれば必要品目あたりの利益率の差を示唆しているのだと思う。生活必需品を必ずしも対象にしているかどうかを推し量れるデータにはあれていないが、全体での利益率の不自然な格差を感じさせるに十分な数値なのだ。
なにしろ地域住民一人あたりからではなく、地球人類一人あたりからなのだから‥DVD一枚がヒットしたところでそんなレベルでなんか売上も利益率も生じない。ならば不自然極まりないのである。それで真面目に単価競争をしたところで、返済など全体でまかなえるわけがない。
それが自由競争・市場主義社会構造の不確実さである。どこかで、需要と供給だけで価格が決められていないことの確たる焦臭さなのである。
ここから逆にこう考えることもできる。
・仮に、資源が無尽蔵にありかつ資源価格の上昇が緩やかで、従来通りのやり方を通し、一人あたり769ドルずつ人類に毎年等しく給付したとする。
・当然、デフレは止み、インフレへと流れは逆転する。
・そのインフレ上昇分もまた毎年加算して等しく給付し続けるものとする。
・その結果、富裕層の上昇率が倍増して中間層が安定的に増えたとしても、根本的な競争による敗者の割合が常に従来通りにあるのならば、負債破綻の割合もそれに伴って追随し、結果、それはバブル崩壊的な経済危機の起こされる比率に何ら変化を与えないことを意味する。
・もちろん資源が無尽蔵にあるのならば、バブル危機の崩壊も無さそうに思われるが、人口増加による、不動産不足から起きる森林資源の伐採は避けられない事態であるからして、酸素不足危機の不安からなるバブル崩壊だけは絶対に避けられないのである。
・よって、資源が無尽蔵でない現実を賢明に見つめるのであれば、循環型社会を競争によって演出されれば良いとする考えは不毛でしかない。
・たとえ、科学力の上昇がそれを補うとしても、新技術理解の伝搬がそれに伴わなければ、宝の持ち腐れにしかならない。それを避けるにはまず博士教育までの教育無料化が大前提なのである。
まずはなにより、精神的な舵の切り替えが根本的に求められるは必然であろう。
とりあえずの一番の理想は、地球民族総一次生産者にあると思われるが、人口増加し続けるのならば、お互いの耕す割り当ても割切れず、そもそもの課題は多いと言える。
少なくとも従来通りの競争原理が成り立たないことの意味ぐらいはイメージされたであろう。
がんばれば何とかなるの時代から、一致団結しなければどうにもならない時代になっているのである。国内勢同士の競争などまさに愚の骨頂なのである。そういう時代なのだ。
ついでながら、「切磋琢磨」と「競争」の意味の違いをはき違えていてはどうしようもないとだけ付け足しておく。
2007年末時点…前年比+ 6.0%の1010万人
2008年末時点…前年比−14.9%の 860万人
※UFBメリルリンチ日本証券発表
世界人口2007年7月現在の推計、66億人
※フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』参照
100万ドル(※円換算100円で1億円)以上を保有する割合は、全体比0.13%程となる。
ちなみに日本の富裕層は−9.9%の136万人
2005年国勢調査時点1億2776万7994人
およそ1億2700万人とすれば、全体比1.07%程となる
富裕層が持つ資産残高は−10.5%減の32兆8千億ドル
3千億ドル以上の資産を保有する超富裕層−24.6%減、数公開なし
08年度末富裕層の上位5ヵ国
米国 246万人 −18.5%減
日本 136 − 9.9
ドイツ 81 − 2.7
中国 36.4 −11.8
英国 36.2 −26.3
この情報を参考にすれば、100万ドル以上を稼げる割合は全体の1%を満たすことがないとよくわかる。そして、0.13%ならば、富裕層は全体の一人あたりから769ドル程度売り上げている計算が成り立つ。円換算95円ならば7万3千円程である。
これはそのまま、個数売却の差を無視すれば必要品目あたりの利益率の差を示唆しているのだと思う。生活必需品を必ずしも対象にしているかどうかを推し量れるデータにはあれていないが、全体での利益率の不自然な格差を感じさせるに十分な数値なのだ。
なにしろ地域住民一人あたりからではなく、地球人類一人あたりからなのだから‥DVD一枚がヒットしたところでそんなレベルでなんか売上も利益率も生じない。ならば不自然極まりないのである。それで真面目に単価競争をしたところで、返済など全体でまかなえるわけがない。
それが自由競争・市場主義社会構造の不確実さである。どこかで、需要と供給だけで価格が決められていないことの確たる焦臭さなのである。
ここから逆にこう考えることもできる。
・仮に、資源が無尽蔵にありかつ資源価格の上昇が緩やかで、従来通りのやり方を通し、一人あたり769ドルずつ人類に毎年等しく給付したとする。
・当然、デフレは止み、インフレへと流れは逆転する。
・そのインフレ上昇分もまた毎年加算して等しく給付し続けるものとする。
・その結果、富裕層の上昇率が倍増して中間層が安定的に増えたとしても、根本的な競争による敗者の割合が常に従来通りにあるのならば、負債破綻の割合もそれに伴って追随し、結果、それはバブル崩壊的な経済危機の起こされる比率に何ら変化を与えないことを意味する。
・もちろん資源が無尽蔵にあるのならば、バブル危機の崩壊も無さそうに思われるが、人口増加による、不動産不足から起きる森林資源の伐採は避けられない事態であるからして、酸素不足危機の不安からなるバブル崩壊だけは絶対に避けられないのである。
・よって、資源が無尽蔵でない現実を賢明に見つめるのであれば、循環型社会を競争によって演出されれば良いとする考えは不毛でしかない。
・たとえ、科学力の上昇がそれを補うとしても、新技術理解の伝搬がそれに伴わなければ、宝の持ち腐れにしかならない。それを避けるにはまず博士教育までの教育無料化が大前提なのである。
まずはなにより、精神的な舵の切り替えが根本的に求められるは必然であろう。
とりあえずの一番の理想は、地球民族総一次生産者にあると思われるが、人口増加し続けるのならば、お互いの耕す割り当ても割切れず、そもそもの課題は多いと言える。
少なくとも従来通りの競争原理が成り立たないことの意味ぐらいはイメージされたであろう。
がんばれば何とかなるの時代から、一致団結しなければどうにもならない時代になっているのである。国内勢同士の競争などまさに愚の骨頂なのである。そういう時代なのだ。
ついでながら、「切磋琢磨」と「競争」の意味の違いをはき違えていてはどうしようもないとだけ付け足しておく。