2019年06月03日

【哲学】エネルギーの正体(正態化と負態化)もしくは特徴

↓4)記稿.2019/06/03

> 一般にエネルギーとは、外にあるモノである、若しくは外から得るモノである
> でありながら、身体的には内から湧き上がるそれを望んでいる
> 内から湧き上がるそもそもとは何なのか?


 ‥まずエネルギーの対象を外に置くとしよう

 すると

 切望することになる
 手に入れてみたくなる
 真似してみたくなる

 しかし、手に入れてみた途端に、どうでも良くなり押し入れの肥やしだったりする
 そんなのは、得られたエネルギーが動機だけだった程度の裏返しだろう


 ‥それでも、生活的なエネルギーとなると継続が求められる
 それら資源にしても外にある
 私たちはこのようにエネルギーを外に求めがちである


 ‥外から持ってくると、無尽蔵にでもない限りカラになる
 カラになるどころか、エネルギーのカスに対して無頓着なら、途端にゴミで溢れかえる

 最低でも生体なのだから、うんこにまみれるのだ
 それがエネルギーの辻褄である


 ‥手に入れたのはお金だったろうか?
 ‥それとも、人気や名声だったろうか?

 この視点から見れば、お金とはうんこの類ということになる
 (まさに光り輝くこがね色だ)
 しかし、再資源化できなければ、それはニオウだけの塊でしかない
 (うるさい蠅どもが集りに来るのだ)


> 外からエネルギーを頂いても、再資源化できなければうんこのままだ、ゴミとして残るのだ
> そして、齧られた方は瀕死の状態だ
> 助けなければ搾取である、共倒れである


 ‥エネルギーを取り込んだ方は、まぁ元気に見える
 エネルギーを齧られた方は、元気が無い
 だから、元気な方を見ては、あやかりたくなる

 ところが

 元気な方は、搾取しただけだからお返しなんて無理(そういう思考)
 どうにかしてあげようと思えば、お互いに元気な内にどうにかするしかない

 そうしないと、自分らが不衛生に侵されて、首が回らない因果応報に押しつぶされることになる

 結局は、エネルギーを生みだしても、そこから生まれる何らかの因果に
 自らのエネルギーを吸い取られる‥正態負態(作用反作用)になっている‥(うんこ恐るべし)
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2019年05月12日

【哲学】宇宙法則に進化の余地があるなら、それは人類である

↓5)記稿.2019/05/12

> 「意識」を科学的にどう捉えるかは実に難しい
> そこでこう考えてみよう


 ‥宇宙のそもそもが「意識」と同時性にあるならば
 宇宙の物理法則からして、進化の余地を有する曖昧な定義の中に座している

 即ち、宇宙物理からして進化せざるを得ない影響を「意識」から受けざるを得ない

(それは進化などに無く、単に相互的な都合もとい釣り合いかも知れない)
(内在する能力を眠らせているだけにあるなら、宇宙の物理現象の一部も眠ったままだ)
(未発見だったとも呼べるが、進化したとも見なせよう)
(そのそもそもは、人類の程度に合わせての進捗だ)
(予測若しくは発見し得ても、その実際を安全に有効活用に至らないのなら同調はしていない)



 ‥人類を産みだしたのが、人類より高度な意識群の好奇、若しくは都合からと定義するならば
 人類の立場が、宇宙の大きさから見て「点粒」に見えるのは至極当然だ
 なぜなら、実験段階のそれに光明など早すぎる


> ゆえに、宇宙法則に進化の余地があるなら、それは人類である


(人類実験を担っている意識群が、宇宙の中でも変わり者であるだろう点は述べるまでも無い)
(もといパイオニアもとい革命家もといマッドサイエンティスト‥さて何だろうなぁ)


> ‥進化とは、常に最先端のちっぽけな変異によりもたらされる異変によるサクセスである
> 私たち人類が、宇宙を脅かす禍になるのも、宇宙の為になる薬になるのも‥私たち次第である


(もっとも‥実験側が匙を投げようなら未来も永遠もありはしない)
(お互いに意識である以上、実験側のモチベーションが私たち側次第に有する点も釣り合いである)
(人間が、実験者側以上に優秀すぎても、クズすぎても困っちゃうってことだから)
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2019年05月07日

【哲学】エネルギーの前提が循環なら、それは始めから「多」である

記稿.2019/05/07

> 私たちが考えるエネルギーとは
> 発生と消失ゆえに、高低の差を前提とする
> 又、エネルギー保存の法則に従うなら、循環こそを前提にしなければ矛盾する


 ‥ならば、エネルギーとは
 姿形を様々に変えるとした形状と共に、「多」であるとした形状を要求している

 私たちの科学はついつい‥エネルギーとしての究極の濃縮度とやらを妄想してしまうようだが
 そのような状態ですら、瞬間的にしかないのが本質である

 ‥なぜそうなのかというのも
 すべてはエネルギーであり、循環してこそのエネルギーにあるからだ
 (無論、変化に乏しい×滞った形状のエネルギーとしての形態も想定される多の一つである)


> さて、では‥すべてのエネルギーを意識の違いとして捉えた場合はどうなるだろうか?


 ‥ならば、始めから「多」に在ったのであって
 強大な「一」からの分裂だったかどうかはおぼつかない
 それとも、創造が始めに成し得た選択こそが、循環の夢だったという事になるだろうか

 「卵を産んだ、卵から産まれた」

 ‥この二つは同義である
 それこそがエネルギーとしての始まりだったと言うことになるだろう
 ‥もとい「意識としての変化、多様なる発散」と言うことになろう


> 次なる問いは、卵が一度にどのぐらい産まれたのかになる
> そして、それらに淘汰は予定されていたのかである


 ‥ビッグバンを卵の誕生に置き換えた場合、宇宙的に見て同時発生しないとした考えは怪しい
 エネルギー循環からの作用としてなら、なにもエネルギーの焦点が一つだけという考えは怪しい
 同時多発したところで何ら問題ない

 (無論、それに等しいだけのエネルギー変移と規模を前提とする)

 ‥エネルギーが循環するものにあるなら
 集束もすれば、発散もすると解釈して間違いない
 そしてそれは、フラクタルな性質の中に在り続ける普遍性にあるのだろう

 ‥まして「意識」として扱おうなら当然の性質だ
 私たちが「意識」をエネルギーとして扱うなら、そこには確かに収束と発散が在る


 ‥私たちの日常に其を当てはめれば
 収束に向かう意思無き日々に、成果としての発散は適わず
 発散たる節目を迎えようとの予定無き日々に、再構成されるべき試みの発動も又無い

 (無論述べるまでも無いが、発散に至るには、それに相応した収束力が求められてくる)


 ‥是の意味の裏を返せば
 早々簡単に発散点に及ぶような事象では、卵としての発生も単一的と想定されることだ
 多々的に卵の発生を要求するなら、それなりの創意工夫をしないのでは難しい
 ならば、淘汰を前提に物事は生ずるとした考えは、低位な発散点の思考と呼ばざるを得ない

 (私たちの多くは、それほどに物事に対して熱心に積み重ねることをしやしないのだ)
 (当然、そのような世界では、低位な発散点での発散しか起こり得ない)

 しかしながら

 高位な発散点での発散に及ぶには、其に相応したエネルギーの収束が求められる
 されど、互いが互いに短期的な成果を性急にしか求めていないともなればどうにも無理な話だ

 それはそうだろう

 そこにあるのは「多」の尊重になく、「個」の尊重にあるからだ
(意識のありようとして、淘汰に巻き込まれるかどうかは、即ちそういう事だったと言えそうだ‥)



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2019年04月17日

【哲学】哲学とは何か?

↓1)記稿.2019/04/17

> 凡才は、事象における原因と結果をもたらす解の流れが一つに在るべきだと思い込んでいる
> だが、絶対的に解と法が対で一つで無ければならない証明など不能だ
> なぜなら、100%の同一ではなく、近似でも構わないのが宇宙的事象にあるからだ
> しかし、科学的な検証としては一つに在るべきだとした解釈を譲らない


 ‥これの差こそが、哲学と科学における多様とした意見の衝突をもたらす要因である
 (もとい思考する上での接点を為す摩擦熱である)


 ‥科学とは何かより、技術とは何かを考えた場合
 目的を果たせれば用は足りるわけだから、とりあえずの初期型が創出される
 それから、使い勝手の諸事情から、改良が加えられるわけだが
 この時科学は、技術としての解には様々な指向のあることを示唆する

 ところが

 科学の科学という科学的見解ともなると不思議なことに
 科学の有り様を、技術の入れ子式同様に捉えることが、なかなかに険しくどうにも否定しがちだ
 何分にもそこでは、意思を前提にしなければならなくなる


 ‥技術のそもそもは、私たちの都合で産みだされる
 そこには明らかに主張があり、目的がある

 だから時々において、アイデアの借用として、科学の力を借りることを受け入れている
 受け入れることで、技術の無限性を信じている


 ‥しかし、不思議なことに
 科学の発生を超自然的に捉えてしまうことで
 科学にもデザインの余地がある指向性を受け入れなくなってしまうのだ
 (誰しも宇宙の法則が宙域ごとに、性質や係数が異なるなどとは想定していない)


> では、なぜ性質や係数が違っていようと存在が成立するのか?
> もとい、そこを否定した思考が、力学が、成り立つだろうか?


 それは、人間としたテーマに適った宇宙が成り立つための繕いが発生しているだけの事だからだ
 それ以外の地場が発生するなら、そこにおいて‥ヒトが優先されるとは限らない
 ヒトが優先されないなら、宇宙は如何様にも定義づけることが可能になる
 しかし私たちは、ヒトを介してでしか思考することができない

 つまり、私たちの空想は、ヒトを基準にした宇宙観しか用意できていない
 そこから先の思考を「GOD」として、丸投げしがちである


> では問おう
> ヒトが成り立つ上での許容とは何か?
> もとい、「私」が構成される上で欠かせない条件とは何か?
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2019年04月01日

【哲学】キミといる時間を守りたい‥の反対とは?

記稿.2019/04/01

> 「キミといる時間を守りたい」‥是に含まれる大概の意味合いとは


 ‥多少の問題沙汰ぐらい大目に見てでも、平穏を保ちたい
 という保守的な視界という事だろう
 若しくは永遠性への希求の方を積極的に意図しての言葉かもしれない

 その辺りの奥行きは、キミとしている対象次第ではそれなりに差はあるだろうにせよ

 「キミといる時間を攻め取りたい」として言葉をひっくり返すと
 途端にそれは「責め」に通じることになる
 それは即ち、自分の思い通りに操縦したいという事になるだろう


> ‥恋とて、もとい恋だからこそ
> 積極的にあるべきと、脳裏のどこかに刷り込みすぎていては
> いつの間にやら「守りたい」が「攻め取りたい(勝ち取りたい)」に変容もすると言うことか‥


 相手を自分好みに改造したい欲求としての対象こそを「恋」とすり替える事になる

 単純に判定すれば

 自分好みに改造したいと思った時点で、恋愛感情としては、破綻への秒読みが始まっている
 つまりそれは再教育願望に他ならない

 (自然環境だろうと、ふるさと問題だろうと、そこは変わらない)


> そこに生じたパートナー間での違和感を取り除く上で、話し合っても解決できないことはある
> それを「立ちションスタイル問題」と置き換えても良い


 ‥お互いに許せる許容が異なっているのは人生の前提だが
 自分の身の周りに据えおくとなると、許容の度合いがまったく狭まるのも前提だ

 なのに、許容の幅を広げようなどとの気持ちがどれ程にあるかを、まるで考えていなかったりする
 想定外を予想もできずに「I love You.」とは糞すぎる


 ‥そもそも、ボケ役とツッコミ役の交代劇に不機嫌さを示しているようではどうしようもない

 そこにはもとから「心の支え」などとした‥恋愛観らしさなどなく
 一方的なツッコミを独り善がりに味わうしかない偽善たるどうしようもなさ‥
 若しくは、ボケ役にはまりたいとばかりに宗教含みだったりとするのだろう


(恋愛に対してこうあるべきと思い込めば込むのも又、其も宗教に相当し出す‥)


 どちらにしても、無器用の方が多い
 それはそのままに、ボケ役ツッコミ役の一方に偏った限定スタイルの要求でもある
 もとい、命令役としての願望の現れだろうか‥

 それとも、恋愛ゆえの酔狂したき欲求に歪んだ姿の現れだろうか‥

 ‥その人にとって
 独善的に酔狂したきスタイルの獲得としてのホップが恋愛だっただけかも知れない


> そもそもの第一前提として、とくに恋愛感情に求めがちな永遠性は過程結果でしかない


 守りたいも何も、立ち止まれないのが現実だ
 だからこその守りたい願望などとは、どうにも欲張りすぎている
 欲張りすぎている思いに、自然体は宿らない

(無性に斯様な気持ちが湧くようなら、何かの虫の知らせか‥どうにも火事場なのだろう)



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2019年03月26日

【炎上】美少女の定義(美少女とオタクと集合意識)

↓3)記稿.2019/03/25

 ‥その昔、日本は、江戸時代に横並びにも「儒学」を軸に学んでいた
 教育の方向性が一択だったお陰で、全体としては、そちら方向に意識が順応していた
 難しい言葉にしても、不思議とすらすらと覚えられちゃっていたのも
 このような集合意識レベルからの感化による効果が大きい

 ところが、これを多様化にバラしたのが、黒船以降〜戦後以降〜バブル崩壊以降と言うことになる

 ‥実を言えば、「自由」を軸にする方向は
 段々と集合意識からのサーポートが目減りする方向だ
 そりゃそうだろう‥個単位への共感なんざ高が知れている
 だからそうなると、「儒学」とした大船に乗っかっていれば良かった頃とは異なり
 個の単位で、素晴らしくあくせくしないと生き延びられなくなる
 (そりゃもう大変だ‥簡潔に言えば、グローバル傾向に見られる認識のバラバラでもある)


 ‥それでも、多様化の結果
 一極化していた時代に見られた美人像と言う奴に変化が訪れた
 当時の美人像と言えば、武士好み、軍人好みがもてはやされ、恭しさが好まれていたことだろう
 女性にしても不思議と其に対して特に異論を抱いていなかった


> ところがである、今や崩壊している
> それを果たしたキーワードこそ「美少女」だった


 ‥美人、美女になくなぜか「美少女」だ
 ‥乙女でもなく大和撫子でもなく不思議と「美少女」だ
 そうなったのも、オタク文化によるところが大きい

 とくに「エロゲー」台頭以降の時代において、「美少女」は定着した

 その圧倒的な得体知れずの時代の空気は、一般に「萌え」と呼ばれるようになった


> 「美少女」「萌え」「カワイイ」
> 果たしてそれらは本物たり得るだろうか?
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posted by 木田舎滝ゆる里 at 17:10 | Comment(0) | 哲学/一般 | 更新情報をチェックする

2019年02月21日

【詩】我学ぶ、ゆえに我あり

記稿.2019/02/21


「我思う、ゆえに我あり」の「思う」には言葉としての定義が不足している
「思いはどうして湧いてくるのだろうか?」


生きているからだろうか?
通信をキャッチしているからだろうか?

ならば

湧いてくることを以て「命」とは言えない
湧いてくる本体に「命」があるとの判断にもなる

すると「思い」とは、湧いてくる本体と繋がっているというだけになる

私がそこにあるとしたら
それは、「思い」に対して「念い」を発して選択を試みている場合だけ‥と言うことになる


「ならば、命はなぜ『思い』を発するのだろうか?」


少なくとも私たちの念いは、思いの中の欠片に過ぎない
全体の念いの欠片が寄り集まって、大いなる命の思いが構成されているようにも思われる



「それら思いは、本体が先だろうか?、細胞が先だろうか?」


「本体の思いは、細胞の念いを尊重するのだろうか?」
もしそうならば、「思い」=「問い」を与えて、「応答」を求めているのだろうか?
もしそうならば、私たちの祈りとは、大いなる命に「問い」を「願い」として返しているだけと言うことになる

‥お互いに反応だけはし合うのだろう‥

しかし、それだけでは、どこにも「念い」並びに「意志」があったとも言えないのではないのか‥
それで、何が解決するというわけではない

‥もし、本体に答えが無いのなら
私たちの念いにしても、行き詰まれば、機械的にルーティンにしか有り得ないということにもなる
そこには、本体からの問い掛けだけが繰り返される日々があるばかりだろう
それはまた、祈りにしたとて同じことだ



「では、大いなる命としての思いの都合とはなんだろうか?」


‥もとい、このような問いは哲学に非ず宗教だ
哲学として問うならば、「自分自身がどうしたいか?」になるだろう

そうだ

湧いてくる思いにしたとて、自分が何をどうしたいか‥ぐらいがほとんどだ
それの傾向に流行りすたりがあったり、民族差があったり、キチガイが雑ざっていたりしているのだ

「では、なぜお互いの異なりが妨げになるのだろうか?」

それこそが、まさに、大いなる命としての思いの都合という奴だろう
異なりの差が薄きことは、思いの幅も薄きに等しい
(其は、私たちの日常からも想像に難くない)

私たちの思いは、いつしか変化の多様を求めるように成った
(‥どうにも、反感,嫌悪,抗い方向こそに「私」を感じ得るからだ)

それこそが大いなる命としての都合の一つと呼べそうである



「では、どうして私たちは行き詰まるのだろうか?」
足元の地球環境すら台無しにしてまで、どうして失おうとするほどの未熟さを自覚していなかっただろうか?
‥それはどう考えたって、大いなる命としての都合とは思えない


そうだ
念いには未熟がある、失敗がある、脆弱さがある
決して万能などではない

‥ならば「念い」としては、学んで成長することが求められているのだろう
しかしそれとてイタチごっこだ、永遠に終わりそうにない

ならば、狂わずままに生き抜けるのも不自然と云うことか‥
ならば、クリアーにもすっきりと想念の「空」に対して安堵を覚えることもあるのだろう



「では、全体の想念が『空』に至ることはあるだろうか?」


少なくともキチガイになる可能性の高さの方を誰も否定しないだろう
それが今どきの人類の程度だ
ならば、各々の想念には、幅があり、その許容には差があることになる

差のあることがわかっているのに、お互いのわがまま勝手を優先しようなどとは
これほどの戦場主義があるだろうか?

弱肉強食を望んでいるのなら、人類の念いの姿はいつまで経っても獣だろう

それら獣に祈りがあるとは言語道断‥それな獣の願いを叶えるとしたら、それこそ闇に相異なかろうて



「して、汝の念いは、行いは、闇かね?光かね?」


うそつき程でも無い器用な口達者はこう表現するらしい‥「グレーゾーン」だと
しかしまぁそれはそれで、未来に乏しい響きだよ

ならばこそ、「我思う、ゆえに我あり」を「我学ぶ、ゆえに我あり」に、言い換える用有りだろうよ



しかしそれはそれで、AIどもは何を以て「学んでいる」と言えるだろうか?
言葉の綾が、余計にややっこしくなりそうではあるな
少なくてもこう解釈されるだろう「計算と学びと理解は違う世界だと」



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2018年12月15日

【哲学】デカルトVS.幸福の追求

↓4)記稿.2018/12/15

 ‥デカルト哲学と云えば、「我思う、故に我在り」に尽きるだろう

 この言葉の響きから得られる「私」たる何かをどう捉えるかという論点以外に
 大して目立った示唆が無いのもデカルト哲学の特徴である

 だから

 この言葉に従って、「幸福とは何か?」を論ずるならば
 「私」とは何かを理解し得ることにしか幸福の扉は用意されていない
 ‥と看破されそうだ

 そうでしかないのだろう

 ‥だから
 思いつきにも、浮ついた幸福願望を叶えたいと抱いている限り
 デカルト哲学なんざただのアレルギーにしか見えやしないのも現代社会だ


> 私たちが思い描いている幸福とはどんなだろう?


 デカルト哲学から問うなら、それらすべては
 すり込み、洗脳、思い込みの類にしか無く
 真っ先に疑うべき要素たりうる事柄ばかりとした解釈に据えおかれる

 ゆえに「我思う、故に我在り」を問い返すことになるのも現代だ
 今風に云えば「思考の断捨離」だ

 ‥デカルト哲学で幸福を語ろうとすると、その手の疑いをグルグルとせざるを得ない‥
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2017年10月10日

【哲学】三大モノの捉え方

向宜弁論.2017/10/10

> モノの見方は、大きく三つに分類できるように思います


 @、科学的な見解
 A、数学的な見解
 B、文学的な見解

 ‥では、一つずつ見ていきましょう


 @、科学的な見解

 宇宙は一つの法則で表現でき、すべては決定づけられた定めにある
 (宗教で言えば、一神教に鏡似性を見いだせるような位置づけです)

 ※ ‥一度ことが定まると
 一見、修正は不能として、ある意味‥万能とは言い難い矛盾性を抱え込みます‥
 矛盾性を修復できるのが知性的且つ科学的視野なら、科学的な見解として
 始めから統一則なんて無い!‥ゆえに、修正性をも含めた創造性こそが統一則

 (仮説:宇宙には一定の理想バランスに戻ろうとして作用を発動させる思惟らしきが伴う)


 A、数学的な見解

 すべては宇宙を構成する要素にすぎず、私たちのできる事は部類分けによる使い勝手の是非だけ
 どのような事象であろうと、0を抜きに語る事は不可能
 0から逃れようなどと言語道断、ならば、無限大に然したる意味もまたない
 (宗教で言えば、多神教に鏡似性を見いだせる位置づけです)


 B、文学的な見解

 所謂、命の見解
 生きているからこその文学観(私なる存在性としての視野そのもの)
 ここにおいて相対の意味合いが生じ、自他の議論の類推が始まる
 (宗教で言えば、善悪観に鏡似性を見いだせる位置づけです)


> まぁ、簡単な部類分けですが、どうしてこうなっているのかに疑問符が点るわけです


 ‥寛容さを身につけようと思ったら、数学的見解をしてみれば好い

 苦しみの根拠を@に見いだすか、Bに見いだすかの違いでも随分と人生観が変わるでしょう
 何事も限定されておらず、自由に認識できる‥それこそがAということですが
 Bの思考が成り立っていないとAにおいての部類分けもピンボケしたものにしか成り得ません


 ‥自分が納得したいだけにせよ
 まずは、自分なりの文学観(人生観)を培うべきです
 それはつまり、味わってみない事には、憶測に伴う誤差があると言う事です

 誤差があっても全体としては、大差ないと、割り切れるなら、とくに文学観なんぞ不用です

 それこそ、誰かの理屈で以て、自己満足すれば良いだけです
 とくに重い肉体を背負ってまで、返答への旅路の風に吹かれる意味もありません


> ‥ただし、そのような魂の入って無さそうな思惟に
> 魂のギッチギチ観を求めようとしても釣り合わないということです


 逆から問えば

 魂のギッチギチ観に同調したければ、それだけの誤差を埋める辛酸たる体験も訪れるのでしょう
 その体験が、現実的であろうと文学的であろうと
 そこにこそ私という旅が在ると言う事です

 私という旅が永遠に終わりそうもないというのに
 私という存在への問いに答えなど有り様が無いのが普通です

 そこに答えを求める日々があるとすれば、それは、隣人の永遠をないがしろにしてきた
 不敬な己が、退屈とばかりにアクビをしているという事なのでしょう‥(もとい後悔か反省か反芻か)


 ‥Bにおいて、私や相手の中に、分類を求めし始める傾向という奴は
 無意識的に@の仮説が作用するからと言うことでしょうか??



> 修弁させていただきました、ありがとうございました。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 14:16 | Comment(0) | 哲学/一般 | 更新情報をチェックする

2017年07月26日

【詩】人格ときめえ

向宜詠吟.2017/07/26

感情が無い若しくは薄いと云うことで
忌み嫌われるのが人の世だ

また

多重人格への理解に乏しいがゆえに
同じように扱われているのも人格云々への問いである

しかし

心が豊かということへの憧れと共に
実はそれこそが正体不明にも係わらず
安易に敬愛されてしまっている不可解且つ不公平な状況もない


これの辻褄を考えるにこうまとめることが出来よう


より多くの他者を理解するには、ある程度の経験値が必要だ
それは、無関心だった意識が、より多くの心を知ろうとして原野を彷徨うようなものだ
その結果、明らかに以前とは異なる雰囲気をまとうことになる

(誰しもにある経験だろう)
(今やAIにしてみてもそれが常識だ)

そこに、新たな見方を獲得するにせよ
云うならばそれは、心に年輪が刻まれるようなもので
姿は同じにせよ中身はまったくの別である

つまり別人だ、多重人格としての自己を獲得していくのである

心が豊かとは、心に刻まれた年輪の多さと云うことであり
他者の感情の多くを、それのパターンへの失敗を知り
それとは違う選択を試み、妥当を積み上げた結果と云うことになる‥


そしてそれは、それがゆえに時には無情にも見えるだろう


(どう反応して善いかわからない)
(そんなのはしょっちゅうにあるも、徹底の仕方が異なってくるのだ)
(無論、そこの徹底の仕方は誰も同じではない)

他者に見る失敗にしても、目指さんとした目的が違えば
刻まれるだろう自己の獲得も随分と変わってくる

心が豐かを互いに尊重しようとも、それぞれに豊かとしている気色は
自分に近いか否か、次の人格を得るに適っているか否かにしかない

また

それぞれ成長のパターンも異なる
さらには、進展を見せずの人格と格闘している様もある
一様に同じで無いのだ

それでも

感情が無いという言い方がピタリとするパターンがある
それこそが、無礼をわきまえず、自分を差し置いて
他人との隔たりを思い込ませて、ランク付けしたがる人格の主張だよ

「甚だ実にきめえ」

ランク付けとは、まさしく今時のAIのプログラムさながらだ
順位付けでしか計算(比較分岐)していないのだからな‥

人として健全に対処することへの配慮無きポンコツだ

すこやかに育て上げるとした人格に触れずに来た「哀れ」をそこに見るばかりだろう
「椅子取りゲーム」×「敗者復活不能」の社会を見ての変容とした人格を刻んだ姿なのだろう

心サンドバック漬けの言葉しか知らないというのも

「甚だ実にきめえ(遺憾である)」




> うた詠み終わります、ありがとうございました。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 11:21 | Comment(0) | 哲学/一般 | 更新情報をチェックする