2015年08月16日

【哲学】供養とは何か?

1-1)記稿.2015/08/16

> 一般に、供養=成仏と誰もがそう思っている‥それは本当だろうか?


 成仏できないから供養する‥「はて、成仏できないとは何か?」

 ‥命の真実とは、分かち合いに行き着く。
 それは、精も糧も肉も生も死も分かち合うと言う事である。
 生きている間にさんざんに他の生物からの生を受けてきた。食してきた。
 ならば、死んだ時に‥魂ごと食われたってどってことなき公平感だ。

 ‥そう言われると、無神論者だって身をすくめる事になろう。
 小心者や迷信にこだわる者なら、それこそ死ぬのが恐いと思う事になる。

 それはつまり

 最後の最後で分かち合う姿勢を拒絶したという意味合いに見て取れる。
 ‥本当の意味で、心の底から分かち合っていないという事だ。
 (でも、普通に考えても、自分の魂が食われてお終いになるなんてのは、身も蓋も無い話さ)


> だから


 供養とは、生きとし生けるものすべてに再生を祈る心を指す。
 すると、自らが死んで魂を食われたとしても、再生を祈る心を分かち合うのなら
 ‥たとえ、自身の魂が食われたとしても、転生すれば良しの判断に至る。

 転生が可能かどうかなんてそんな事は分からないにせよ

 そこに説法的な形での輪廻なんぞ無く
 有るのは、ただただお互いの再生を望む姿勢が縁を紡ぐという分かち合いのルールという事になる。

 奪い合いが好いというままの態度でいては、喜縁に恵まれるわけがない。
 (そもそもにして‥当の本人が拒否してしまっているようなものだからどうしようもない)


 生まれ変わりが生命の仕組みだとするなら
 ‥拒否している者が再び生まれ出る世界はいたって、刹那な価値観を含むのだろう。
 ‥拒否していずとも
 再生を祈る姿勢の如何によっては、不公平から学ばざるを得ない気持ちを抱える事になりそうだ。


 ‥基本的に
 お互いの再生を祈る気持ちが強ければ強いほど、物事を粗雑に扱う事に腹が立つということになる。
 でもそれも‥過ぎたれば、過保護につながろう。
 それはそれで、公平にあれているかどうかもまた怪しくなるわけだ。
 当の本人に、成長が見られないとか、感謝の気持ちがなかったなら尚更だ。 
 (そんな状態では‥誰が見たって不健全極まりないではないか)


 「如何にして、宇宙的に見て公平とは何か?」


 其を考えられぬ者に、本当の意味での再生などやって来ないと言えるだろう。
 それは、正解がどこにあるかを識る事ではない、正解への道を歩まんとする心掛けが有るか無いかだ。
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2015年07月23日

【哲学】LOVEにチャレンジは必要か?

1-2)記稿.2015/07/23

> ‥なんとなく生理的にも好感が持てるから好きになる
> それはLOVEの始まりに於ける一つの流れだが、そこにチャレンジなど無い
> 何を欠いているのかというとこんな視点‥


 ‥例えば、宇宙に於いて異星人とも付き合わざるを得ない時
 友好とは即ち、お互いに混じり合う段階に達する向きを指す。

 それでも

 純血を保とうとすれば、そこまでの緩和などとても容認されたものではない。
 なぜ容認できないかと言えば、その理由はそりゃ様々だ‥

 だが

 なんだかんだ政治的な申し述べをすれば、そこにチャレンジは存在しない。
 ‥そうだ、純血を保とうとすれば、友好上に発生せざるを得ないチャレンジとて先送りされる。


> 遺伝的な意味合いにおいて、其はお互いの行き詰まりにも関わること‥


 しかし、行き詰まっておらず
 不死鳥の如き活性を保っていられるというのならば
 とくに混じり合ってまでのチャレンジをする必要は無きこと。
 ‥そしてそれは、唯一の例外的な存在もしくは関係性として目立つことになる。

 ところが、例外的であるというなら

 相手にしてみれば、またとない魅惑的な存在に見えると言うことだ。
 誰しもにそう見えることになろうか‥それが例外的な可能性の保持と言うものだ。
 ‥時間的経過で捉えれば、一対多のケースにもつれ込もう。それが流れであり相場でもある。

 だから八方美人にも
 ラブコールされて付き合い始めたものの‥婚約話の段階になるとそっぽを向く。
 そんな流れにもなる。(まるでどっかの国の外交だ)

 ‥それでは、お互いに端迷惑な事情を抱え込むばかりになる。

 それでも、相手にしてみれば、そんなこたぁ知ったこっちゃないと言わんばかりに押せ押せだ。
 要求すべき事のあらゆるを、重箱の隅を突っつくようにして、押し迫ろうとするだろう。


> そんな時


 「受け入れることがLOVEなのか?」それとも「距離を保つことがLOVEなのか?」

 ‥相手にしてみれば、行き詰まった瀕死の様を抱えているだろうことに違いはない。
 ‥また種の純血は、一度失えば、宇宙的な規模での損失にもなろうか。
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2015年06月24日

【哲学】善悪は人間計画の都合より発生した

1-4)記稿.2015/06/23

> まずはじめに、ここをハッキリさせておこう。


 鏡似性の観点からここでは
 {意識}={宇宙}として扱うものの
 意識と宇宙は、お互いに関係性を保つ存在同士にあるが、別の何かという扱いをする。

 ‥これはつまり

 {私の意識}={私の肉体}もまた同じ相似形にあることを指す。
 ただし、私の意識が私の肉体に対する所有権を放棄するような状況なら、その鏡似性は維持されない。
 まぁ経験上、私の肉体が、主体的に主を変更しようなどとの叛意は持たないのだから
 {意識}={宇宙}にも同じことが言えるはずである。

 そうでないなら、そもそものフラクタル性‥もとい、鏡似性そのものが不能だ。
 ‥まぁ、意識の側が肉体を好まないという事はあるだろうから、それへの叛意は見られることだ。

 これはまた

 {原因}={結果}を前提にしてもいる。
 この法則が崩れていると、現象それ自体を解釈しようが無い。
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2015年06月23日

【哲学】頭ではわかる無為自然

1-3)改稿.2015/06/23...20150621...

> 人生には大きく二つの選択肢がある。


 ・ 太く生きる。
 ・ 長く生きる。

 問うまでもないが、無為自然は後者の思想である。
 しかし、字句の意のままに本当に何もしないのでは、とても長くなんぞ生きられない。
 ‥では、何を以て無為自然と言うのか?


> まず、凡人はこう考える。


 宇宙は無限。その時間は永遠。
 ‥どうしてそう言えるだろうか?
 しかしそう考えることで、人は無限の可能性を信じ込む‥

 だが、宇宙は有限だし、時間も有限だ。

 だからこそ、永く生きながらえる上での思索が求められた。
 ‥これはなにも、有限だと断言しているわけではない。


 無限をひねり出すも何も
 私たちは常に{空間}={意識}、{時間}={意識}の係わりに置かれている。
 私たちの選択で、私たちの空間も時間も維持されているのだ。

 ‥エゴ・貪り・搾取・盲目な生産が生ずると、途端に行き詰まる。
 そこは、常に私たちの意識次第だ。


> では、問おう。「永く保つ上での究極とは何か?」


 超越した意識を携えれば永遠も可能かも知れない。
 ‥それは、神と思しき境地ということだろうか。
 否否、人にそのような器などないし、得られるだろうにせよ死期と同じやも知れぬ。

 そこでこう考えるに到った。

 仮定された意識の超越を携えて永遠が担保されるなら、其を∞と定義できる。
 つまり、時間において終わりが無いに等しいと言うことだ。
 時間において終わりが無いと言うことは、始まりもまた無きに等しい。
 よって、∞≒0の解釈が発生する。

 ‥それに酷似した様を「無為」と呼ぶ。
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2015年06月12日

【哲学】THE・ニーチェにツッコミ

記稿.2015/06/12

 ニーチェ
「客観的事実なんてない、あるのは一人一人の解釈だけ」

 木田舎滝
「主観的事実だって怪しいもんさ、あるのは一人一人の都合と忘却と後悔と心の成長とやり直しだけ」
「事実は、瞬間的且つ点でしか存在できていない」
「事実が欲しいのではない、解釈が欲しいのだ」





 ニーチェ
「『物事には本質がある』という考え方は絶対ではない」

 木田舎滝
「本質のそもそもは、人が知りたいと思うところにある」
「人の理解の前提には、その理解はすべての人にとっても同じだと思い込むところにある」
「しかしそれがどうして正しいかについて、誰しもが、等しく注意深くあるかは考慮されていない」
「誰もが同じ注意深さを保つ前提などどこにも無い。つまり、解釈としての等しさなど存在しない」
「誰しもが考える本質とは、時代的地域的多数派的思い込みに陥りがちである」
「つまり、そのような本質とは、ピントを合わせようとする行為そのものだ」





 ニーチェ
「『自我』なんて、実はただの思い込みでしかない!」

 木田舎滝
「自我を思い込みと定義するとは、とんだ端折りである」
「ならば、『自分とは何か?』‥否否、個を識別する意図をどう考えるというのか?」
「個に意味もなく、目的もなしとするなら、どうして物事の種別は存在しうるのか?」
「お主が、哲学者として回答する‥生への活欲を持たせる意味も又必要あるまい。」
「考えることの主体の放棄を勧め、欲望の赴くままにあるべしとは、倫理無き他力本願だ」
「否否、心も又無いとするわけだから、獣以下への脳天気誘導に過ぎん‥」
「人生のすべてを受け入れろと言いつつ、全否定しているのはお前だ!!」
「お主の説く運命愛とは、蓄群をそれの信仰へとすり替えただけの超人一択教ではないか!」
「生に目的など無いなどと満足げに言い放ちつつ、目標を求めよるわい‥このクズが」
「そういうのを‥お主こそが、始終、思い込みだと言い放っていたであろうに」
「ならば、最後まで目標など掲げず、骸のままに生きることを本懐にすべきであろう」
「‥哲学者として其は死である。神が死んだのではない、お主が哲学者として死んだだけにあろう」





 ニーチェ
「『自分探し』は私たち自身を苦しめてしまう」

 木田舎滝
「自身の本質を知ろうとしなければ、もっと苦しむことになる」
「それこそ‥知りたいを閉ざしたただの骸だ」
「閃いたように欲に走ってみようと、そこに本質などない」
「そもそも、どうして欲だけを本質に扱えるのだ?‥客観的事実にも本質にも絶対は無いのだろうに」
「もっともっと○○とか‥其もまた虚無と言うことだ」
「人としてピントを合わせるにしても、人が何かを分かっていなければ意味が無い」
「人を知るには、まず、人としての性質をまんべんなく心得ることだ」
「貪ることはその一つにすぎん。そのためにもまずは、貪ってみないことには分かるまい」
「その意味で言うなら、まぁ確かに善悪の価値概念に絶対など無いわ」
「行為や形に本質などあるわけがない。あるのは自分の心が何を感じ取ったかだ。そこに本質が在る」
「真っ直ぐの自分、そこから生まれた価値観を大切にしよう。着られなくなったら着替えよう」



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> 「まんがと図解でわかるニーチェ」より


 エリザベートは、病床の兄に無断でニーチェの原稿を集めて勝手に編纂し
 ニーチェの思想がナチズムに悪用されるにまかせた。

 つまり、歴史的に変容した可能性もあるにせよ

 ニーチェの哲学は、自我を無い物と思い込んだ時点で失速している。
 結局、彼が哲学を通して目指していたものが、キリスト的な呪縛からの解放だったにせよ
 ‥生きとし生けるものすべてを生かしめる力が働いているのは至極当然のことである。

 それを神という言葉を使わずに、哲学的に表現してみたということになるだろうか。

 ‥そもそもの力への意思が、個人差を有する因果や意図については、何ら思索が無い。
 自分の否定していた形に、ミイラ取りがミイラになるが如く返り咲いている点に気がつかないのでは
 まだまだとしか言いようが無い。


> 神が居るのは不可解 → 神が居なくても納得
> 神を捨てよう → 私に頼ろう


 これの思考と選択の流れに、客観的事実はもとより不能だから、なんら哲学など絡まない。
 それこそ、自身の都合的な解釈としての差し替えだ。
 ‥まぁニーチェの解釈は、最終的にそんなのばっかじゃん。

 「是のどこが哲学なの?‥ただの誘導じゃん」
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2015年06月09日

【哲学】鏡似性と自他の発生と超越

1-4)改稿.2015/06/12...20150608...

> まず、鏡似性とは何か


 ・イメージは鏡の世界のフラクタルと言える。
 ・常に物事は同時発生的に存在する‥ということである。
 ・そしてそこには、意識と実の対峙が関わるということである。

 ‥自分の意識の中に潜む
 自分のようで自分じゃない‥でも自分として認識される
 そう言える自分が数々に居り、それが個体と言うことではなく群体で以て交互に意識を醸し出す。
 そんな要素が、お互いに面と向かい合って、実において対を成し得ているということである。

 それを可能性として扱うか、機能として捉えるかの解釈は勝手だが
 相対的にも、主体的にも、心には気持ちと映像が同時に去来するという
 そのように‥心と実が対の状態に置かれ続けるのが、私たちの実相だ。

 つまり

 お気に入りの実を迎えたければ、認識を変えるしかないと言うことでもある。
 なぜなら、同時発生するのが鏡似性の世界だからだ。


> もう一度言おう


 心と実は普通に考えても繋がっているように見えている。(其もまた鏡似性だ)

 しかし、そこでは自分という存在をまだまだ一つの単体としてしか見ていない。
 他人という見方にしてもそうだ。頭で理解しようとして限定的にしか見ていない。
 ‥それが私たちの日常だが、それではそのまんまの鏡似性しか訪れないままだ。

 それはつまり、わからない私とわからない貴方とした鏡似性だ。(‥分かり合えない現実とも言う)


 意識の感覚、物の見方、集中の仕方、理解の仕方‥
 それぞれの瞬間瞬間において、それに通じる事象を引き寄せ合って、お互いの鏡が形成される。
 同じ物事を得ていても、見方が異なれば、それは同じ事象であっても鏡としてまったく異なるのだ。
 同じ理解をしていても、瞬間の判断に差があるなら、引き寄せた鏡が異なっていたと言える。
 引き寄せた事象や状況が鏡としての接点を有しただけで、それの対になっていた意識が異なるのだ。
 ‥心の中で何を見ていたかでもある。何に焦点を合わせていたかでもある。

 一見、当たり前のような話だが

 鏡似性を理解することは、是非の問題ではない。
 まずは、水の中を水の道理に従って泳ぐべき状況にあるというだけの話だ。

 ‥まず
 水の流れに適応できるだけの自分が求められる。
 その水の中で自由になろうとする自分が求められる。
 アレが駄目とかコレが駄目とかグダグダやっていると、不自由な因果を引き寄せることになる。
 泳げないなんてのは最悪だ。始めからそれでは辛いばかりだろう。
 ならば、まずは水の中の世界を受け入れる姿勢が肝心だ。
 そこに生まれてきたのだから、其を受け入れるべきが始まりにおいての自然体になるのだ。

 それの事象自体に罪も罰も無い。価値に差など無い。
 しかし、物事は均一には成っていない。それは心が異なっているからだ。

 意識の中に内包されているよすがが異なれば、その瞬間から、引き寄せている鏡は異なる。
 また、何らかの事象に引き寄せられている場合もあるだろう。
 それは、意識に強弱の差がある次第を意味する。また、力の釣り合いを意味する。

 引き寄せる側と引き寄せられている側の総量や力の釣り合いは互いに等しい。
 釣り合いを欠いたり、認識がかけ離れていたりしても‥事象はそれに従う流れになる。
 (物理的に避けられない状況にしても、最後までわからないと言うことだ)

 そうでもなければ、鏡似性はバランスを欠くことに成り得、鏡似性とは呼べなくなる。
 (‥其は、同時に発生するがゆえの鏡似性の特徴だ)
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2015年06月06日

【哲学】心の色彩

1-2)記稿.2015/06/06

 暗算の達人は、数字の並びを一つ一つ数えたりはしない。
 桁をカンマの位置で覚えて、その形を元に数える。

 囲碁や将棋の有段者は、新手でもない限り、石や駒の一つ一つの手順を考えない。
 定石でわかっていることは、概ねそれに沿って全体の利を把握する。(とくに序盤)
 ‥検討の段階ですべきことと、対局の段階ですべきことの頭を切り換えているのだ。


> では、心はどうか?


 人生において事前把握すべきは、様々な事象の結果もたらされるお互いの気持ちと言うことになる。
 ところがこの手の定石について人はとんと無頓着なままだ。
 ‥愚かと言えるほどに、そこに注目する者が少ない。


 「心にもたらされるすべての反応を理解することはできるか?」

 否否、そんなことを知らずとも、上段者ぐらいには為れる。

 ‥そうだ。
 人生の上段者と思える者とて、心にもたらされるすべての反応を知り尽くしているわけではない。
 敢えてそれを知る段階を「神」と定義しても良いだろう。

 時間軸の外から、時間軸の中で起きている事象の人の心の様をじっくり観察していれば、
 人がどのような時にどのような色彩を放つのかを観察できるだろう。
 その対象とできるデータ量は、たかが惑星一つの数十年歩いた程度の人のそれとは雲泥の差だ。

 しかし

 実際のところ神の視点からは体験が無い。体験が無い以上、想定外も起こり得る。
 それは、反応を起こす段階で、何がその者の心に強く植え付いていたかの差だ。
 神にとってそれは、大いなる不可解だ。どうしてそれを強く思い残すのか‥
 それでも、それが彼の者の特徴であるなら理解は早い、それがその者の色彩と言うだけの話になる。


> ‥私たちは、そんな自分自身の心の奥行きさえ、朧にしか存ぜぬ代物だ


 まさに、目の前にその事象がやって来ないと、一つ一つの気持ちすら分からずにいる愚者である。
 自分に訪れるだろう気持ちで受け入れがたいなら、先回りして断固拒否すれば良いだけのことだ。
 ‥つまり、それをしない。そうならない上での選択をしていない。それだけの話になる。

 しかし人は、知らないと言うことに夢中になる。知りたいとばかりにのめり込む。

 その先が知りたいとばかりに、のめり込む。
 いかばかりにも他人の言葉に誘われ、その扉を開けてみようとも
 心の中で、なんらかの色彩が程度変化するだけのことなのに、一生懸命になって、
 他の者の色に自分を染めようとしている。実に愚かなことだ。

 誰かの気持ちをわかろうと努めても、最終的に、彼の者が心に強く抱くそれとは同じにならない。
 つまり、先端の部分では彼の者には相寄れないと言うことだ。
 それはまた、自身の心の色彩を知らないとした鏡似性の現れでもある。


 自身の心の色彩を知る者は

 自身の心の色彩への理解を以て、その至福感を頂点とする。
 それは鏡似性において、相手の欲する心を得たと言える鏡似性に置かれる‥そう言えるのだ。
 ‥呼吸が合う感覚とでも、表現できるだろうか。

 それでも間違ってはならない。
 自身の内に無いからこそ、外にも興味を示している自分が居ることを‥


> では、もう少し具体的に突っ込んでおこうか。
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2015年06月04日

【哲学】至遊【じゆう】の定義

改稿.2015/06/12...20150604...

> 人生は幸福が目的ではない、まして不幸はゴールなんかではない‥ではなんだ!?


 競争社会がなぜ求められたかは、物理的幸福が公平に分配できる性質に無いことが要因だ。
 まぁようするに、自らの手で掴み取れと言うことだ。
 その意見に反論する気は無いが、物理的に‥刹那な社会観しかもたらさない。
 (終いには、足元である地球ですら破壊しかねない)

 つまり、真ではない。

 それについて異を唱える者はもはや少ないと思う。


 ‥とはいえ、チャンスを掴み取るライン上に立てば、多くの者が
 そりゃ、きちんと最後まで辿り着きたい心理に駆られることになる。
 そのような人としての感覚は、如何なる社会であろうとも訪れる個人的感情の問題だ。

 そのチャンスを掴み取る上で重要なことはリラックスである。
 不動心とも自然体とも、冷静さとも落ち着くことでもある。

 しかし

 リラックスとて、リラックスを維持する上での感謝と至福を意味する言葉ではない。


 チャンスを引き寄せ、その土壇場でも尚我が物とするには、リラックスが欠かせない。
 一流になればなるほど、その重要さに注目するにもかかわらず、
 リラックスを維持する上での感謝と至福を意味する言葉は存在しないのだ。

 それは

 中庸でも中道でも和でもない。
 幸福でも不幸でもない。
 されど、すべての入り口で必要とされる踏破への鍵である。
 ‥すべてをそぎ落とした先に見えし、志の命綱である。


> 鍵を得ずに幸福論を語るのは、無味なことだ。
> 命綱を結ばずに踏破を目指すのは、志に余裕のない証拠だ。


 ‥なぜかその鍵を手にするのに、お金は無用にもかかわらず
 「幸福になりたい」呪文を唱えることで、無駄に愛と力(お金)を欲するようになる。
 それらを目的にせずとも、何らかの欲に囚われることになる。実に面白いもんだ。

 それはようするに

 リラックスこそが至福への最大公約数であることを理解していないからだ。
 しかし、多くの者はリラックスをすぐに忘れ去り、気持ちの上では餌的な感情の方を好むのだ。
 ‥いわゆる幸福感に類似した物欲へのモチベーションである。


 逆から読めば、幸福感は必ずしも幸福を満たさないと言うことである。
 むしろ幸福感とは消費でしかないのだから、消耗品の類いであることが理解できる。
 消耗するからまた欲しくなる。
 ‥幸福とは、ある意味で繰り返せることが便利さとしての売りになっているわけだが
 そこを理解する者は少ない。
 その証拠に、貪ろうとする‥蓄えようとする‥失えば、過去に戻ろうともする。

 そもそも、少し達観するだけで、分け合うことに至福を感じるものだ。
 そう感じられる心の姿として、リラックスがたしかにそこに居るのだ。


> リラックスを保たずして、至福など無い


 「では、リラックスを保つにはどうすれば良いだろうか?」
 「自然同体・天地人同体への試みでもあり、整いでもある」

 ‥答えはすでに解いている。
 リラックスできている事への感謝と至福に注目することである。
 それを意味する言葉を共有すれば良い。

 そうだ、其を「至遊」と名付けよう。
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2015年04月27日

【詩】何事も写真の如く、真実を語り嘘をつく

記稿.2015/04/27

物事の一側面を映し出し明快に語るもの‥それが写真
されど写真は正直でもあれ、嘘つきでもある

‥物事の一側面だけで、何を語っているというのだろうか?
何も語ってはおらぬ
何も語ってはおらぬがゆえに、騙してもおらぬ

見る側にしても、騙されているわけではない

見る者が勝手に思い込み、それを真実だとして受け取るのだ‥それだけだ
受け取った内容に深刻な問題性が無ければ、まぁ大事にはならぬ

‥ところがどうだろう
人は多くの物事を一側面だけで判断しがちである、其は危うし
かといって、疑う心ばかりを教えられても人は育たぬ


「ではどうする?」
話は簡単だ、「一側面だけを見るな!」‥そう教えれば良い


何事も物事を見る時‥まずは、何らかの一側面からだけだ
同時にいくつもの側面から見ることができたとしても、カッコイイわけではない
むしろ、同時に見ようとしすぎても危うし

自身の混乱は、原点を見失う元になる
見失う確率を少しでも回避するなら、一つ一つの流れから感じ取ることが肝心だ

「ならば‥好いではないか」
思い込みの渦中を彷徨っていたとしても、それもまた有意義なことである
目覚めた後で、反省すれば良い
それをするかしないかという日々の差はとても大きい

そう思えぬところに、人に進歩なんかこれっぽっちも起こり得まい


‥ところがどうか
なぜか、人は自身の未熟な溺れ障りに対して、とにかく脆い
反省をすればするほどに、自己を卑下し、尊ぼうとはせぬ‥其も危うし
もっとも‥其もまた思い込みの渦中と言うことになる


「本当の自分は、どこに在るのか?」
‥それこそ、一側面一過性を見ようとしているだけの本性だ


人という存在は、
一過性の時の中を過ごすことはできても、同時性の時の中では思い込むことができない
思い込むことができなければ、人に味わいは存在しないだろう
味わいが存在しないと言うことは、感情の発達が促されないと言うことになる
感情を豊かにし、人として完成度を高めたければ、思い込みを恥じることなく受け入れるべきことだ

「物語を見よ、すべては思い込みが扉の前に座っているではないか」

‥そうだ、思い込みの渦中にこそ、克服すべきあなたが居ることになる
否、あなたの課題が座っているということか‥

一つの扉の前に、足を止めた自身の期待なり思い込みが、どう受け止めようとしているのか‥


「何事も‥写真の如く、真実を語り嘘をつく」




真実だけを見ようとして、真実だけを支持しようとも、満ちること無し
物事の陰に隠れたうそを知らずしては、ますます満ちること能わず
渦中に溺れ彷徨うを嫌おうとて、思い込みなくば、学び疎く人生を得ず

自他の思い込みのパターンとその鏡似性を心得し者は、至遊(じゆう)にて立てり
地に足を付けて生きるとは‥思い込みの選択、道筋の味わいということになろうか

本質に於いて、思い込みを恥じて生きることは、無味な味わいなり
ならば‥他者の思い込みを見て、愚かと批判するは、さらに無味な味わいと言えようか

所詮、馬の耳に念仏、他者の思い込みをとやかく言っても始まるまい
彼の者に必要なのは、その思い込みの中での経験なのだから‥等しく吾も然りであろうぞ
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2015年02月18日

【哲学】搾取の原理から考えるエネルギーマナー

1-4)記稿.2015/02/18

 小さい力を基点に大きな力を得る。(エネルギー科学)
 安く買って高く売る。(商売)
 人の心の闇を突っつくに最適な状況を演出し、闇を大きく見せて標的を翻弄する。(人心操作)
 相手の弱いところから切り崩して勝つ!(戦術)


> これらに共通していることは、少ない労力で大きく得るとする思考である。


 ここで注目すべきは、エネルギー科学のそれである。
 科学的にエネルギーを取り出す上で、極当たり前だと思われてきた考え方の中にも
 搾取に通じてしまう手段とそうではない手段とがある‥ここでのテーマはつまりそうなる。
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