2019年05月26日

【詩】意味なんて無い、用があるだけだ

↓3)向宜詠吟.2019/05/26

「人生に意味はあるだろうか?」

否、意味なんて無い、用があるだけだ
もとい‥用があってこの世に居るのだろう


「転生に意味はあるだろうか?」

意味なんて無い、用を見出しているだけだ
見出したから、生まれちまって居るわけだよ
用が無いと心底思ってたら、そこそこで果ててるだろうよ

とにかく‥残念にも転生に意味なんて無いからね


「核実験に意味はあっただろうか?」

意味はあっただろう、しかし用なんて無い
核分裂と言う奴が如何なる代物なのか‥そりゃ科学者の好奇心は募っただろう
やらかしたのが「軍の統制」もとい「資本の要請」にあったにせよ
知りたいと思うヒトの好奇心に蓋はできない
誰だって知りたいと思うのが本音だ

だが、それが危険極まりない代物だとの確認が果たされたなら、もはや用は無い
用があったとすれば、それは資本の回収が大筋だろうよ
(そりゃ回収したくなる仕組みにしかなっていないからね)

‥用は無いけど、お互いに脅しには使えるなどと考える輩にも用は無いと思うが
意味はあったとするのがここでの見解だ


「人類の性能テストに意味はあっただろうか?」

意味はあっただろう、しかし用に及ぶほどに無いらしい
用ができたなら、実験者や計画者側からの転生があってもおかしくない
用ができるほどの細かい点までを知り尽くしたいと思ったなら、そりゃ降りてるかも知れないが
そういう筋の話は、都合もあるだろうからなかなか明らかにされることがない

つまり

テストや試験に意味を見いだす側という奴は、至って見ている側である
現場担当になるほどの用を感じ得ないのが概ねの気質に思われる

されど、テストを行うには、テストに用を見出す存在がいないことには始まらないのである

しかしそもそものそれは
どのような用だったかの記憶を失って
なお実行できるかどうかなんてテスト用件を含んでいるわけだから
用があったことなど、とんと知らんのが通常だ

多くが別の用を見出して、生きることを凌いでいるのが実際だろう

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2019年05月22日

【詩】笑顔下克上

↓2)向宜詠吟.2019/05/20


テレビの中の人たちは常に笑っている
テレビの向こう側には、常にわくわくした世界が有るものとして誘われる


「でもそれは本当だろうか?」


世界はいつもドロドロの小競り合いだし
経済はいつだって不景気におびえているし
政治からして格差の保障しか創造できちゃいないし

そもそものテレビの画面の世界からして、出演できるかできないかの下克上である

そうだ‥自由×正義とは、暮らしの成り行きを賭けた抗争である

それの割合の多い日常を
さも問題なさげに覆い隠さんばかりの笑顔は、本当に素敵と言えるのだろうか?
どうにも怪しいじゃないか


‥前向きかも知れない
‥でも勝ち嗤っているだけかも知れない
玉石混交にキャラクターが居て自由とばかりに誇らしげでも
中にはとても筋違いな‥「失言」なり「炎上」という魔物が雑ざっていたりする

どうしてそんなにも雑ざってるんだよ
そもそもの自由の方向性をその程度にしか解釈していないからだろう‥

別に「完璧にあれ」とは誰も思っちゃいやしない
わざわざ「余計なことを言うな」とした空気に酔いたいだけのところがある
それはそれで、無知なままに自惚れていたいだけにあるのだろう‥


‥だが、それら魔物を否定する感覚こそは
自由の前に「尊重」があるべきであり、自由が一番には成り得ないとした「同意」ゆえなのだっ


そもそもは、笑顔がないのでは始まらない


笑顔がない事で、息が詰まるし、何事にもモチベーションが上がらないわけだけれども
テレビの向こうの世界とこちらの世界には
テレビを遠ざけたくなるきっかけとしては、十分すぎるほどの隔たりが有る

‥そうだ、この世の‥もといテレビの笑顔ほど曲者もない‥

でも誰しもは笑顔に飢えている
テレビの受け売りだろうと、手にしてみたい欲求に誘われる


だからこその主張が、テレビに見られる象徴としての華やかさと云うことなのだろう
そして、それが象徴であればあるほどに真に受ける人も多い
(もとい、魔に魅入られるばかりだろう)
だからだろう‥誰しもは、世の中が素敵になることよりも自分が素敵になることを優先する
それが自由だと云わんばかりにである

それはそう

この世は人気取りゲームだから頑張らないと生きていけないと云わんばかりだ

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2019年04月14日

【詩】与え切るとは、待つことである

向宜詠吟.2019/04/14


「与え切るとは、待つことである」


あなたが賢さにうぬぼれたいと思っていたなら
どうしようもなくあなたの前でお馬鹿を演じて
どんぐりの背比べと思しき足らずな愚かさでさえ、賢く思い込ませて上げることである

‥では、彼の者はいつになったら、自らの思い込みに気が付くだろうか?
(実に骨の折れる待ち時間である事よ)


あなたが強さにうぬぼれたいと思ったらなら
どうしようもなくあなたの前でひ弱さを演じて
どんぐりの背比べと思しき足らずなムキムキでさえ、マッスルさを思い込ませて上げることである

‥では、彼の者はいつになったら、自らの思い込みに気が付くだろうか?
(実に骨の折れる待ち時間である事よ)


あなたが狡さに溺れていたいと思ったなら
どうしようもなくあなたの前で脆弱な世界を演じて
どんぐりの背比べと思しきイタチごっこでさえ、一時の興奮を思い込ませて上げることである

‥では、彼の者はいつになったら、自らの思い込みに気が付くだろうか?
(実に骨の折れる待ち時間である事よ)



主よ、あなたが本当に正者たる存在なら、わたくしに忍耐をお与えくださることでしょう
主よ、あなたが本当に公平たる存在なら、皆の者に忍耐をお与えくださることでしょう
主よ、あなたが本当は腹黒いだけの存在なら、皆の者に不道徳をけしかけるばかりでしょう


‥どちらにせよ、主は傍観者に過ぎない
主の待ち時間はそれこそ永遠である
傍観者の気まぐれを真に受けている内は、汝に誠の神の宿ることは無い

それは即ち、他人の目を気にせず 且つ 配慮する至遊(じゆう)を理解することである

ならばこそ、「待つところが無い」とした感覚は、ヒトとして自然体とは言い難い‥と言えようか


‥くだけた言い方をするなら
「待つ気持ちを破いた恋など、どうしようもなく腐っている」
とでも付け足しておこう



> うた詠み終わります、ありがとうございました。




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2019年03月21日

【詩】私たちは、それを「失敗」と呼んでいる

向宜詠吟.2019/03/21


失って、踏みにじられて、いつの間にか‥「報われたくて生きている」
どうしてそんなにまで思い詰めただろう


自分の思いつきが、力量が‥太刀打ちできなくて
「絶望」を拒絶するがあまり‥また一つ、自分にうそを付く

「希望」を振りまいても、現実はどうしようもなくかなわない
何一つ楽しみも無い、生き甲斐も無い
何か一つ‥それらしきを見つけるのがそもそもの精一杯‥

‥その一つに
‥どうしてか、どうしようもなく
‥しがみつきたくなる衝動がやって来る

‥なんてみじめさだけだろうか‥(そこには笑顔が無い)


そんな風では、誰からも相手にされることはない
でもだからと言って、どうしようもないほどの渇きが襲うのだ

そしてまた、一つ‥「絶望」を見つけることになる

「希望」の中で生きていたい
どうしたら、そうなれるだろう‥



ヒトは、常にそんな空気を常日頃から醸しだしている

時として落ち込むと、いつもそうだ
希望通りに行かないと、いつもそうだ

なんと「幼い」
否、それこそが「無垢」と言うべきか‥
否否、自分のことしか頭に無い「エゴイスト」だっ

だってそうだろう

‥「希望」の中で生きていたい、そこには、想定外を好まない性質がある
そもそも、どうして想定外が訪れるのかを問うところがない
こまごまとした面倒はすべてお任せで居たい‥「あなたはそんな顔をしている」
そういうことは、すべて考えないで生きていたいと願っているままと言うところだろう


想定外をどうにか克服することが「希望」たるなら
なのに、お任せの心待ちでしかないなら、そりゃ望んでいるのは「絶望」だよ

‥そんなのはどうにも、「モルモットの構え」だからね‥

ここは「笑顔」のところなんて頭でわかっていても、本音ではスルーバスだったりする
そんな他人の反応を気にしてビクビクしなくてはならない‥なんてのは
それだけ「希望」を欲張りしようとしているからさ


(希望は、いっぱいに有った方が好いと思っている)
(本当に?)


‥だってそうだろう
想定外を克服することが「希望」たるなら
希望の中で生きていたい通りに、無理難題ばかりが押し寄せてくるんだよ

それを見逃したり、自分のペースにできなかったりすると
自分にどうしようもなく腹が立って、腹が立って、自分にうそを付く
さらには八つ当たりに、丸投げだよ


そして自己嫌悪を繰り返し、「絶望」を突っ走る


どうにも見ていると、ヒトって実際そんなパターンばっかだよ
バっカみたいに、そんなのばっかのパターン落ちさ

まるで、想定外を愉しまないルーティンな日常こそを、しあわせだと思い込んだままだ
そうだ、私たちは其を「都市化」と呼んでいる‥もとい「都会砂漠」だ


‥だってそうだろう
愚痴を吐いてる時なんて、大抵が「想定内でやれっ」て事の要求だよ

そんなのは、瞬間瞬間に、臨機応変なモノの見方を見つけられないって事に尽きるだけなんだよね

とくに欲張る必要は無いんだ、欲張ろうとする癖から直さないとコツはやって来ないからね
天使がささやかないというか何というか‥そんな感じさ



‥もう一度確認しておこう
希望を求めすぎても、希望はやって来ない
まとめてやって来られても手が回らないのが普通だからね
だから、一つに絞らせるためにも絶望が与えられるのだ
普段から私たちは、それを「へま」「ドジ」「失敗」と呼んでいる

そして

それの揚げ足を取ることしかできないおつむなら、それこそ希望なんかやって来ない!!



> うた詠み終わります、ありがとうございました。



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2019年03月16日

【説】井の中の蛙を‥気にする余りに蛙としての本懐を忘れる

↓2)向宜弁論.2019/03/16


「退屈」とは、何もしたくない依存の裏返しである
「多忙」とは、何かしたい依存の裏返しである

片寄らなければ、お互いの用は間に合うはずだが‥
諸々とした都合がつきまとうがゆえに、分離と好き嫌いにハマったままだ

‥依存とした状態に等しくなると
‥又そのような習慣を続けると、脳の反応が怪しくなる
‥「退屈」と「多忙」の二択しかないと思うようになる

脳にして、白黒とはっきりしていた方が落ち着くのだろうが
それは決して「私らしさ」をもたらすとは限らない
集団でそうなろうなら
それは常識へと定着し(思い込み)、やがては、民族的傾向にまで結びつく


そしてそう‥意味不明な伝承的偏見(重々しき不可解)にまで到達する


‥さほど依存したいわけでもないのに
依存に等しくならざるを得ない状況を作り出している侵犯こそ「競争」だ
昔で言えば「下克上」である‥その結果の「上下主義」である

今や、常に「便利の向上」になければならないとの思い込み競争が
こまごまとしたリスクを拒絶する性質を呼び覚ます

この時、一生懸命とされてきた概念も置き換わる(否、すり替わる)‥

持続・継続こそが「一生懸命の本懐」だったはずが
諸々とした技術台頭の末に、より積極的に成果を要求されるようになった
それもこれも生き残るために(否、何事にも未熟が付きまとうがゆえに)

そうだ、未熟を前提としているのが人類であるはずなのに、頭脳主義の音頭を真に受ける
そうだ、どいつもこいつも「名声に酔いしれたい症候群」だよ


‥「名声」がやってくるのでは無い、信頼を背負わされるだけの話だ‥


器に適っていれば、「痛快」かもしれないが
器に適っていなければ、「苦痛」なだけだよ
どちらせよ、「痛み」が絡むのだ

‥そうだ、その通りにそこには「格差」が巻き起ころう‥

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2019年03月07日

【詩】自分の命の価値

向宜詠吟.2016/05/24...20140429...

大金を騙し取られて
その挙げ句に自分の命を絶つ‥

「そんなにも安いのか!?」
「お前さんの命は、そんなにも安いのか!?」

騙し取られた挙げ句に、自分の命を断ったとは
自分の命の価値を、その値段以下だと宣言したも同じこと‥

「悔しかったのであろう?」
「情けなかったのであろう?」

ならば、恥を晒して生きるも仕方あるまい
生きる価値の方が、ずっと値打ちがあるのだからな



多額の借金を抱えての倒産‥
なんとも情けなく惨めなことだ

ならば、腹を切るも致し方あるまい
それだけの命を賭けて注ぎ込んでいたのだという
メッセージにはなるだろう

しかし、

生き恥を抱えて生きる事からの逃げであるのなら
なんの意味も無きこと‥
首を吊るなどという行為はそんな印象だ

「お前の命は、絶望より軽いのか!?」
「お前の命は、希望より安いのか!?」

絶望・希望なんぞより、ずっと値打ちがあってこその命である

希望が無いと生きられないなどの言い訳は、
汝の命の価値を見失っている寝言でしかあるまい
そのような心根の洗い流しが、今ここの不幸の流れぞ

希望が欲しくば、今ここからの切り替えを試みるべきである



「そもそもどうして立身などするのだろう?」

何にせよ、立身につまずいて今を迎えたのである
ならばそれは、その始めこそ
歩み新たにできたからだったのではないのか?
ならばこそ、何度でも立ち向かえば良し
そのうちに希望が板に付こう

希望など欲するなかれ
諦めが悪ければ、そのうちに自らが希望と化するのだ
そのせっかくの機会を不意にするとは何事だろうか‥



> うた詠み終わります、ありがとうございました。
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2019年03月06日

【詩】私たちは人類ゲームに生きている

向宜詠吟.2019/03/06


ゲームの目的は楽しむことだ
人生ゲームの目的は、自らの手でしあわせを勝ち取ることだ

どちらともに
上がれないのでは詰まらない


行き詰まらないためにも手順を考える必要がある
その手順の仕方を考えずに端折ると、途端に行き詰まる
でも適当にやらかしているのが人類だ

それを自由とか愛とか言葉にして自慢げだ


しかしそれにしても、どうして適当にやらかすのだろう?

その行き詰まりこそが、ゲームながらの醍醐味でもあるからだろう
未知なる探求を推し進めるには、失敗続きの方がエキサイトできる
簡単なゲームでは詰まらない


しかし、トコトン行き詰まったからには切り替えが欠かせない

なのに人類は切り替えが下手くそだ
それはもうどうしようもない
優先順位としても、まずは「愉快」にあること、次に自分にとっての「お得」と来たもんだ

どうしようもなく行き詰まっていると分かっていても
切り替えなんて‥その又次の次のさらに次、いつまで経ってもありゃしない


しかしながら、私たちのしているゲームはそんな小さな規模ではない
高らかに「人類ゲーム」をしているのだ

そうだ「人類ゲーム」だ

全体として行き詰まったら、詰まらなくなるのは当然だ(勝ち負けではない)
全体として行き詰まったなら、手順を、殊更に慎重に慎重になって模索する必要がある

でも馬鹿だから、いつまで経っても適当に取りかかろうとするばかりにある
競争だとか、かけひきだとか、好きとか嫌いとか、体調がどうとか‥やる気がどうとか‥


それもそう、人生ゲームだとしか思ってない


‥意識が高いか低いかの差をゲームで語るなら
あなたが人生を、「人生ゲーム」と思っているか、「人類ゲーム」と思っているかの差と云うことになる


そうだ、私たちは「人類ゲーム」に生きている‥




> うた詠み終わります、ありがとうございました。



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2019年01月19日

【詩】正座は一番に簡単な筋トレ

向宜詠吟.2019/01/19


正座は筋トレ
一番に簡単な筋トレ

「どこを鍛えているかって?」

‥それは体幹‥
背筋を真っ直ぐに保つ筋力
背筋を真っ直ぐに保つ気力
背筋を真っ直ぐに保つ気概

座禅じゃ無くてもいい、それが正座だ


正座が習慣だった江戸の武士は
階級的な自惚れを抱いていたにせよ
正座たる習慣が、正座たる心得が、一線を越えるような邪に免疫を保ってきた

背筋をしっかりと伸ばして、無心に正座をしていると、なぜか心落ちつく


‥ところがどうだ
今や正座と言えば、どこ吹く風の体罰モデルだろう
文明開化を唱えて以来、次第に退化してきた
その顛末こそがカウチポテトな生活スタイルだ

ああ、情けない
ああ、なんと残念なザマだよ
どいつもこいつも一線の越え方を覚えはしても、越えぬ落ち着きを欠いている

だからこそ正座だ
一番に簡単な筋トレと思えばいい
それこそ簡単な話だろう

そこから遠ざかったままを日本人とは言い難い
「そうは思わぬだろうか、そこのスマホくんっ」



> うた詠み終わります、ありがとうございました。



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2019年01月05日

【詩】不自信謳歌

向宜詠吟.2019/01/05

成功しない自身だけはある
失敗続きでしかない自信だけはある
他人と繋がれない自信だけはある

他人に頼るなと言うのなら、影に潜み続けられる自信だけはある
(頭など誰が下げるものか‥)


誰に好かれることも無く、又好きになる機会を得ることも無く
唯、枯葉のように、散り転がるだけの腑抜けであることのなんと自信家
(着ていく衣裳もないから呼ぶんじゃねぇ)


恐れることなど何も無い、唯そこには退屈なだけの鬱積に散り埋もれる日々があるだけだ
そのように散り埋もれられる自信家に恐怖など有るわけが無かろう
(ああ、退屈だっ)


唯、ひたむきに、退屈が散り積もるという以外に語る言葉を持ち得ない


「あなたの心の底に潜む恐怖こそ『私』なのだよ」



> うた詠み終わります、ありがとうございました。



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2018年03月11日

【詩】美しさこそが癒やしなら

向宜詠吟.2018/03/11

美しさに癒やしが伴うと思うなら
そう思うままに、清く正しく生きれば善い

‥ならば、だだ衝動に駆り立てられて
美しきを貪りたいだけの者を「穢らわしい」と言うは当然の解釈だよ
貪ることを推奨するばかりの世の流行りに、癒やしなんかありゃしないさ

その証拠に

次から次に即席に「美」を披露するばかりに疲弊しきっている
癒やしの伴わぬ美しさなどなんの価値も無い

そこにあったにせよ、汝自身が清く正しくない‥まだまだとの鏡似性という事だろうよ

程ほどにしか克己せず、身を清く保つのもそこそこでは、安らぎも遠のこう
否、そこそこで満足出来るはずだよ
より目映き癒やしを求める必要もなかろう

‥そうで無いというのなら、汝には嘘がある(それだけだ)

斯様な嘘を積み重ねては、癒されることも程ほどで、程ほどの輝きだ
それでも感謝をしていれば多少はマシかも知れないが
己の清さ正しきの磨き上げを欠いたままに、汝の内側より安らいでくるなどとは、ほど遠きこと
ならば、どうして「人の為に」‥などと口にできるだろうか?
美しさこそが一番の癒やしにあるのだろうに‥

そうでないから、いつまで経っても「恥ずかしい」ままだ


お互いがお互いを当てにするだけで
一人一人の内側からは、一向に、癒やしのオーラの発せられる所が無い
なんと残念なお互い様だろうか
斯様な世間を見渡せば、常に生傷の絶えない毎日が在るばかりだよ

一人一人、清く正しくを自分なりに積み重ねないのでは、穏やかなる世など訪れようもないのだ!




> うた詠み終わります、ありがとうございました。
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