↓2)向宜詠吟.2020/03/29
|感動とは、普段何も考えていなかった己への屈辱である
|屈辱こそ、個人差の許容で定義が変わる大宇宙である
|大宇宙にルールなんてねぇ、それこそが真に科学である
|科学とは、大いなる感化力を以て、常識に思い込ませる魔法である
|「感化されるとは何か?」‥即ち、汝の過去に断捨離をもたらす否定だ、其を侮辱とも言う
|汝の存在価値に微かにも希望を欲すれば、こう屁理屈を付けることになる「あれは魔法だった」
|魔法に絶対的な効力などない、だからこそ解けるのだ「振り返ってみるべし汝の恋歴を」
|ならば問え、人生における諸々に対して、汝から発し得ていない事柄の多くは幻に過ぎぬと
|ならば貪欲にも抗え、人生におけるすべては私から発し得た創造現実だったと
|創造現実たる思惟から踏み外れた申し開きこそ、最大の屈辱、敗北、失態、後悔、無知である
‥誰かのせい、言い訳の多い世界ほどお気楽にも感動たるに依存する
‥そしてその手の屈辱をダイレクトに与え合うことにお熱で無警戒だ
‥まさに不誠実の入り交じる大合唱だ
‥何しろ多くの者らは他者の現実に共感するだけで、あとは好きか嫌いかの勝手にある
‥そんな好き勝手含みの大合唱がトレンドになると、台頭するのが人類勝利の掛け声だ
‥そんな掛け声は、今度は大合唱を競争に推し進めている
‥競争をやり合えばやり合うほどに、多くの者らが切り替え下手にならざるを得ない
‥見よ、コロナウイルス禍での汝らの行動の有り様を
‥購買量が増えれば棚の減りも早くなる(即ち販売する側の何も考えていない姿の露呈だ)
(過競争の末に在庫を抱えない流れが、禍競争になっただけだ)
(マスクの必要量は一日辺り億枚なんだぞ、解っているのか?)
(誰しもいざというときの為の備え・心構えなどできていない、どうしようもなさの実態だ)
(まさに屈辱に片寄った感動の追求の姿にしかなかった)
(そのような似非世界だった)
‥そこここに見られる社会禍に、蓋をしてきた者らは、何を以て感動にあるかを知らぬままに
感動を与える・得ることの本質(誠実)を置き去りに、似非文化を招来し続けるのだ
‥ならばそのような似非現実の消え逝く姿を演じて、素の復興する感動を与えざるを得まい
|感動が生きているぞと微笑みつ 現実あっぱれ日々の漲り
> うた詠み終わります、ありがとうございました。
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posted by 木田舎滝ゆる里 at 13:23
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