2015年06月04日

【日記】「戦争か?鬼城か?」それがAIIBの問い掛けだ

記稿.2015/06/04

> 米国は戦争を輸出してきたが、これからは、中国が鬼城を輸出する番だと勘違いしている


 過去の絨毯爆撃と違う点は、上から目線の高層マンション群がニョキニョキと建てられる点だが‥
 その結果、大地に残されるのは、どちらも廃墟である点に変わりはない。

 どちらも同じことだが

 片づいちまってる廃墟と片付ける必要に追われる廃墟との差はどうしようもない。
 (‥不発弾だ地雷だなんて意味で考えれば、どちらも片付いていない廃墟だ)


> どちらにも共通することは


 お金や権力を笠に着る側が、自分たちの能力をひけらかすことだけを優先し
 結果、その実的対象となる住民との会話が無いことだ。

 破壊するだけ破壊するのも
 造るだけ造るにしても、会話が無いがゆえにどちらも役に立つところがない。

 会話がもたらされると、利益に結びつかないし
 また反対にべらぼうな追加予算を強いられかねない。
 そう言った部分での会話を正面からする気がまったく無いから、害にしかならない。


 そもそもにして必要な物事とは、

 文化や伝統なんかではない、今を生きる上での智慧だ。
 頭から教えなければならないような教育観ではない、自分の人生を構築する上での展望だ。
 無駄に競争を強いるから、誰しもは自らの器に物足りなさを感じ無理をすることになる。
 そんな無理は、単に自己の破壊にしか結びつかない。つまりお互いの破滅だ。
 (すべきことが確かなら、何事もなく、文化も伝統も残されていくことだろう)


 ‥世界銀行だがIMFだかAIIBだか知らないが

 まさに、そいつらの満面としたツラの皮に書いてあることは、
 俺がお前のカネを使って、誰かに貸し付ける権限と金利をよこせと言っているだけである。
 ‥そんな言い分を知らずに認めては、自らの心に地雷を仕込んで荒野に立つのと同じだ。

 「腐った鯛に群がっても、腹を壊すだけである。」
posted by 木田舎滝ゆる里 at 18:26 | Comment(0) | 厭競問答 | 更新情報をチェックする

2015年02月09日

【川柳】厭競九唱

1-3)記稿.2015/02/09

|資本マネー人々夢見て崖っぷち

|汗ぞ死す市場競技は家畜小屋

|不祥事や資本競技のドーピング

|やつれても残る冬枯れまだ散れぬ

|這ってでも木守り喰らい息つなぐ

|生活や滋養教養つり合いを!

|最後までシードが利いてる菊の御紋

|競争の用を存ぜぬ地球かな

|掌上や自ら掃かずんば檻のまま
↓/稚草を味わう/↓
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2015年02月03日

【考察】雇用報酬をすべて申請認可制にした場合の思考

1-9)記稿.2015/02/03

> 例えば、雇用報酬をすべて申請認可制にしたとしよう。(給与金額自由認可)


 無論、これは非現実的なアイデアだ。
 会社の純利益を前提にしない「俺はこれだけ」「私はこれだけ」を言い合う仕組みには無理がある。
 しかし、思考の訓練として、どのような心理がそこに芽生えるのかを推し量るには
 条件を無視して思考してみるのも一興だ。

 ※ ただし是は、一会社経営の独自案とし、社会的国家的な取り組みでは無いとする。
 それゆえ、会社が倒産しないように、経営側が社員のケツを叩くのは相変わらずとなる。
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2015年01月25日

【詩】厭競主義

1-2)記稿.2015/01/25

 反戦主義とは言うが、厭戦主義とは言わないそうだ
 厭戦【えんせん】とは、厭戦気分のように気分の扱いにしかならないそうだ
 ならば、反競気分では生煮えだから、厭競主義とは言えそうである

 俺の中にある異常なまでの厭競【えんきょう】の精神をそう表現できるだろうか


 ‥俺は、厭競主義者である。
 競争が前提でしかあれていない社会に対して断固反意を示す、憎悪を露わにせん

 資本主義社会に於いて競争しない由を己に宣誓していると言うことは、
 実生活面に於いて、まともに活動する手段を持たぬ体質にあると言うことだ
 実際に‥其を徹底することは、生きていく上でとても奇妙としか言いようがない


 ‥奇妙と言えば奇妙である
 人生に目標など湧いてこず、そのきっかけとなる付き合いや出会いを得ることもなく
 ただただ、毎日が厭生【えんしょう】に過ぎゆくのだ


 とにかく現代社会の在り方・取り組み・表現・不公平のすべてが気にくわなかった


 それぞれに難癖を付けては拒絶し、繋がることのない繋がりに気がついた頃には負け組だった
 そこに道があったのだ、たしかにそこに道が伸びていた

 その道を歩いて行く上でも、
 まわりのいろいろとしたうらやましきを絶つ上でも、
 厭競の精神は、俺の中で異常なレベルで必要だった


 ‥ただ単に競争が嫌いなんかではない
 競争に意味が無いからこそ、そこに参画している怠惰な社会状態を
 徹底的に憎む程の集中が求められていた

 どっちが怠惰とか、そんな言い合いをする気は無い

 皆が勤勉だけであっても、地球を壊しかねないほどの勤勉なんか糞の役にも立たぬのだ
 そうだ、ただ憎たらしいだけの感情などなかった
 ‥真面目であることに異を唱えるだけの論など持ち合わせてはいない

 原因を論破して正しき方向を指し示せる程の知恵には、ほど遠かったのだ

 そうだ、世の中が勝手に反転していたなら、俺はただの馬鹿たり得ただけだったろう
 社会がスッと世直る程だったなら、素直に俺の厭競はただの偏屈の負で終わったはずである
 そこに何の執着もない、あるのは太々しさだけだったことになる


 ‥しかし、世の中はそうには成らない事情を抱えていた


 なんにせよ、俺の厭競ゆえの太々しさと釣り合わないからだ
 ‥釣り合わない代物が、どうして居座るばかりに続くだろうか

 「俺が解放されていないのに、どうして世の中の方が勝手に解放されようか?」

 俺ばかりではない、誰しもの中にそれは居続けたままだ
 そんな状態で、お互いがスッと世直るほどの鏡似性など成り立つわけがない
 そこに理解が及んだのなら、もはや止まるまい、止まるわけもない
 止まるべきは、狂った風が止んだときである
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posted by 木田舎滝ゆる里 at 00:20 | Comment(0) | 厭競問答 | 更新情報をチェックする