2015年09月01日

【刮目】一番に金の掛かるのが女、二番が戦争

1-4)記稿.2015/09/01

> 一番に金の掛かるのが女、二番が戦争


 これが何を意味するかはもうおわかりだろう。
 「女の価値観がすべてを制する。」

 ところで、その女どもはどうだろうか?


> 今時の女は平和の象徴たり得るだろうか?
> ‥どう考えたって今時で言えば、嫉妬と妬みの象徴にしか見えてこない。


 一番に金の掛かるのが嫉妬と妬みなら
 世界はどこに行っても、言い争いが巻き散らかされているということになる。
 まさに資本主義も終末で、戦争論が台頭を始めんばかりだろう。
 ‥でもまぁ、そこまでは行きすぎた酷さには至らず、ギリギリで交わされている模様。

 「では、この先に未来はあるだろうか?」
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2015年08月30日

【刮目】恋愛=欲情=幸福感は偽である

1-2)記稿.2015/08/30

> 恋は盲目とは言うが、その恋が幸福をもたらすとは限らない。


 「では、その感覚はなぜやって来たというのだろう?」
 ‥誰しもがそこに運命なんてものを担ぎ出す。

 幼少の頃はなんだかんだと、だんまりでも過ごせていたことが
 思春期を経ると、それを口にしないのは損だということに気がつき始め、
 ‥色々とした諸事情が絡み始める。


 昔はどうだったかは知らないが
 現在の教育環境から来る抑圧は、どうしようもなくそこのインパクトを大にしている。
 (‥不思議と誰しもがそう感じている模様)

 否否、社会の仕組みからしてそうなんだ。

 しがらみという奴に対して
 あれこれとしたジレンマを猛烈に感じるのもまた恋愛の最中にまとめてやって来る。


> もしてかして‥これは鏡似性ではないのか?
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2015年08月14日

【刮目】防衛とはどこまでを指すのか?

1-3)記稿.2015/08/14

> 自衛権という名の徹底抗戦では、先の戦争時代と何も変わるまい


 防衛と言ったって、何が目的なのかを示す必要がある。

 ・戦争を止めるためなのか?
 ・相手を退散させるためなのか?
 ・強すぎる相手に背を向けない事なのか?
 ・適当に威嚇して蹴散らす事なのか?
 ・交戦意欲のない次第をアピールして、納得してもらえるように努める事なのか?
 ・泥沼化しても尚、正当防衛を主張して、敵が諦めるまで付き合う事なのか?

 ・犠牲が多くなったら諦めるのですか?
 ・予算が出せなくなったら諦めるのですか?
 ・手に負えないと分かってから、開き直るのですか?
 ・反対する者が居ないなら、トコトン攻められ続けて滅びるまで抗うのですか?

 「一体全体、専守防衛の前提はどこにあるのですか?」
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2015年07月29日

【刮目】正義と先手と堂々巡り

1-3)記稿.2015/07/27

 正義はいつも後手に回っている。
 それはそうだ。正義が悪を倒すというだけの存在でしかないのなら
 敵がどのように動くのか‥それの影も形も無い状況では、なんら対策を立てようがない。


> では‥正義が日々の日常において先手を打つとは、どのような様を言うのか?
> それを私たちが知らないのでは、真の正義なんぞいつまで経っても成り行くまい


 ‥まぁ、難しく考える必要はない。
 ポジティブに好きなことをすれば好いだけのことだ。
 でも、調子こいてりゃすぐに周りに迷惑なことを始めちまっているのが、未熟者らの流れとしてある。

 それは誰が考えても正義ではない。むしろ悪だ。
 (悪の概念なんて、言ってしまえばそんなもんだ。だから勝ちゃ善いと口癖にもなる)
 (無駄に力が強いと言うだけで、誰も文句を言えなくなるからな)


> そうだ‥先手を取ろうとしてポジティブに生きようとしても、次のステップで混乱が生じる


 一歩間違えれば、それはそのままに悪としての攻撃の様になるだろう。

 ‥そこで、だからこそ
 人様に迷惑を掛けてはいけないとして、盲目的かつ保守的に生きる選択が始まることになる。
 その結果、息苦しくなり、ストレスを溜めて破壊的な自己像へと癒着もしていく。
 (一般的な善悪の悪の概念はこちらだが、事の原因はここに於いてまったくの自分に帰結する)


 この段階で目に余る悪性と言えば、未熟者のエスカレートに暴走、あと真似したがりのわがままだ。


 自分のしたいことをお互いに押さえ込んでいるから
 解放されがちな誰かや何かを見て、自らに取り入れようと切望が高まり真似も始まろうか。

 (‥流行りと真似は、その時、自分をどの程度押さえ込んでいたかの点で異なる)
 (流行りは素直に廃れるものの、真似には意固地なところがある)
 (意固地には勘違いが付きまとう‥そもそもの真似は入り口なのであって出口ではない)
 (しかし、意固地ゆえに出口がそのままに続いていると思い込んでいる)
 (己に取り入れんとしている事の次第が如何様な器かは、流行り廃りで見る客観的姿勢も大事だ)

 (それとの付き合いに、死に場所を見つけたのなら誰も止めはしない)
 (‥尤も、この世の敵と判断されれば、話はまったくの別だ)


> 自分を押さえ込んでいると、主体的に何かをするということにスイッチが入らない


 オリジナルのアイデアを探そうとしても見つからないのは、この点に帰結する。
 アイデアという奴は、自分の必要における延長に続いている。
 自分に必要なことは、ある程度誰かと共通しているものだ。

 ‥その共通を事細かに感じ取って、独自の形に訳せるかどうかは、
 「誰にもわかりやすさと使いやすさを」‥とのこだわりを、どのように理解しているかにある。

 だってそうだろう。

 それが正義としての先手を打つという響きだからだ。
 「他に何がある?」


 ‥まぁその前に、色々と自分から進んでしてみないことには始まるまい。
 何でもかんでも至れり尽くせりのサービスに溺れていては、気がつけば総員退化への道のりだ。
 「見よ!」滅びる貴族のパターンがそこにある。
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2015年07月25日

【文学観】正義と悪、ライバルとの確執

1-2)記稿.2015/07/25

 「なぜ正義は少数精鋭なのか分かるか?」
 それは、民衆の覚悟に大したところが無いからだ。

 「なぜ悪が細切れにしか戦力を投入できていないのか分かるか?」
 それは、民衆一人一人にとって注目すべきは身の回りのことでしかないからだ。
 何を好きこのんで、お人好しにも他者の理想や野望に参加する必要があるだろうか。


> これは、民衆をその気にさせて、一つの目的に投入させる事が如何に大変かを物語る


 つまり、正義と悪の拮抗とは
 お互いにどれだけ民衆からの支持を得られているかの内訳でもある。
 ‥ゆえに、決着がいつまでも付かないのなら、お互いの支持に差が無いことの現れに他ならない。

 正義をどんなに買いかぶってみても、民衆からの支持に悪とのその差が無い。それが真相だ。

 否、民衆は正義も悪も支持などしていない。
 支持すべきは、自分勝手な都合ばかりである。
 民衆の自分勝手な都合の比率が、概ね似通うなら正義なり悪なりの所業もまた拮抗するということだ。


 ‥斯様な有り様の中に、民主主義を持ち出しても何の役にも立つまい。

 (民衆自らが、お互い自分勝手に繰り返す平和や幸福への妄想からして夢のまた夢でしかない)
 (否定と肯定が拮抗していれば、問答無用でゼロサムゲームにしかならない)
 (‥だからこそ民主主義だとしても、そう主張する者ほど斬新なアイデアを持てていない)
 (‥とどのつまり、先送りするばかりを「民主的な寛容」とでも表現するのだろう)
 (結果、浮かばれる者と浮かばれない者の固定化を胎み、その割合に変化もまた生じず見えてこない)
 (‥統計的に何の変動も見られないということは、実は最低無力な成果を意味する)
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2015年07月20日

【刮目】ブドウ王長澤鼎VS.フリーメイソン

1-3)記稿.2015/07/20

> 禁酒法は長澤鼎を葬り去るためだったと断定できる


 ‥まったくノーマークだったが、時期が被ってる。
 第二次大戦を計画していた奴らが、米国本土のど真ん中に日本人の大富豪の健在を
 野放しにしておけるわけがない。(日本人へのイメージ像として後々面倒に思われたはずだ)

 ‥長澤鼎の死去3ヶ月前に禁酒法が廃止された。

 鼎は、結婚して居らずワイナリーの跡継ぎは血筋では無かったようだが、
 鼎の死後まもなくして死んでいる。これは葬り去られたと思われる。そう考えてもおかしくない。
 その結果、鼎のワイナリーはただの牧草地になり果て、忘れ去られたという。

 仮にもワイン王の名をほしいままにして、ワイナリーごと忘れ去られるのは、実におかしな話だ。
 つまり当時、米国に博愛と自由なんか無かったという証だ。(あったのは能力と実力の容認だけ)

 問題の焦点は、その禁酒法が自分への攻撃であると鼎自身が気がついていたかどうかだ。
 ‥なにしろ、その間に米国は、中国人やら日本人移民の排斥を併せて決行している。
 ‥どう考えたって、明らかな鼎個人への攻撃だ。そうだったとしか思えない。
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2015年07月13日

【歴史認識】沖縄戦って‥ホロコーストだよね

記稿.2015/07/13

> 知れば知るほど、なにをどう見たって、沖縄戦はホロコーストだ!


 「彼らはなぜ投降しないのか?」

 これは、正義を鵜呑みにした米兵の一般的な台詞だ。
 彼らは、自分らのしちまってたことを相当に理解できていなかった‥としか言いようがない。

 「彼らには帰る家も家族も無かったのでしょうか?」(元伍長インタビューでの発言)

 ‥何をぬけぬけと
 お前らが、蹂躙しちまったんだろうがww、ボケ!!
 (沖縄の南端の崖まで追い詰めておいて、そんなこと口にしてんじゃねぇww、この鬼!)


> ‥普通に考えて見ろ


 無差別に攻撃を仕掛け、自分たちを殺しに来ている連中に
 身を預けたいと思えるなら、それは相当のお人好しか相当のマヌケだ。
 ‥そこを客観的に理解できていないというのなら、相当の情弱だ。

 それほどに国際法を信用できるなら、お前らがまず戦場のど真ん中で白旗を立てて見ろ。

 ‥お前らの仲間が見境なく撃ちまくったように、その後の安全の保証なんてどこにも無い。
 その上、ひ弱な精神の集まりであることを証明せんばかりに
 悪夢に苛まれて狂気に発砲まかせな腰抜けらが、そこそこに含まれていたんだろうが‥
 それこそ国際法の遵守なんてどこに保証があるというのか。


> 其を「ホロコースト」と呼ばずに、何と言うのだろうか!
> 沖縄戦の全貌は、そう表現するに価する惨状だった‥


 彼ら自身も自覚してこう言っている。
 この世のすべての地獄を集めた戦場だったと‥

 「集めたのは、お前らじゃないか!!」
 「はじめからホロコースト(沖縄人の殲滅)が目的だったんだろう!!」


 それを正義の侵攻だと思い込んでいるところの異常を、自分たちでまったく理解できていない。
 (真に正義ならそんなことしやしないぜ)

 ‥そこを反省することのない連中と手を組まざるを得ない日米同盟。
 ‥どうしてそんな連中との集団的自衛権を前提にするのだろうか?


> 国民が想定していない法律には先手を打ってくるくせに
> 国民が求める法律には、前向きに善処する台詞しか吐かない


 そんな不誠実を通そうとせんとばかりは
 ‥沖縄戦をホロコースト認識していながら、それへの謝意の一切を示さない米国主義そのものだ。
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2015年06月19日

【刮目】資本のインチキに倣うのか?それとも正すのか?

1-2)記稿.2015/06/19

> 資本主義とは、発行権>債権>労働者で表すことのできる三すくみの特性を有する。


 このような構図の中で、支配者として絶対を安堵するには
 まずは発行権を牛耳り、発行権を握った側が、労働者特有のカードを切らせないことである。
 それはつまり、鎮圧力の絶対に投資を続けることにあった。(戦争を仕合うのは兵隊さん)

 また

 発行権の意味を曖昧にして伏せることで、債権>労働者の対峙に置き換えることを目指した。
 (今や法に守られて、兵隊さんほど食いっぱぐれずの職もない。筋力維持するのもまた職務)

 しかし

 発行権>債権側の横暴は、誰がどう見てもフェアーでは無い。
 (誰しもは具体的なことを知らずとも、そこに不可解な疑問を抱くものだ)


 ‥そこで、さらなる保険として、混乱を下げる為の画策が謀られた。

 人権の立場から労働組合を認めるも、それは表面的に認められただけだった。
 気付かれないように自分たちの息の掛かった者を、労働組合内に送り込み、論の焦点を変えさせた。
 それゆえ、見せかけだけの対立劇場を演出するに留まって来た。
 ‥それは、政治とマスコミの間でも繰り返し執りなさて来た。
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2015年06月17日

【刮目】親爺なる響き

記稿.2015/06/17

 江戸時代の長屋文化をよくよく考えてみれば
 これこそが現代の核家族の原型になったとも思える。

 江戸は地方とは違い、出稼ぎ者の集まりでもあった。
 江戸生まれが三代続けば、江戸っ子なんて定義があるにせよ、
 火事も多かったし、そこそこの邸宅を構えて代々続くお家事情が、庶民の暮らしだったとは思えない。
 ‥どちらかと言えば、そういうのは地方に多かったことになる。

 言うならば庄屋だが
 江戸には様々な大名屋敷があったことから、江戸における名主のインパクトは薄かったように思う。

 そんなこんなで、家督を長男に言い渡して隠居する親爺像は、
 いつの間にか、そんな江戸の風情の中で、ひっそりと親爺から親父に変わったと言えるだろう。

 しかし地方ではまだまだ親爺の権限が強かった。
 ‥現在で言えば、脱サラ年齢に達する頃合いに
 家督を長男に譲って自分は悠々自適にしたいことを始める。それが親爺だ。

 親爺は若旦那よりずっと物事が見えていたから、誰が見ても貫禄十分だった。
 その上、孫に優しい。親爺の立場は不動だった。そんな御仁が大勢のご時世でもあった。


> ところが、文明開化が始まると次第にそれは形を変え始めた。


 大家族などと言ってみても、それは地方の文化だった。
 江戸を始めとした人の集まる都市部には、先進的にも核家族がちらほらしていた。
 それが明治になると急激に増え始めた。
 ‥江戸時代以上に繁栄すると思い込んで新都に人が集まってきたからだ。

 でも、期待通りにはならなかった。

 ‥都会でそんななら、地方にも影響が及んだことになる。
 それでも地方の場合は、上に立つ者が入れ替わったぐらいのことで
 親爺のインパクトが崩れ去るほどでは無かった。
 それにしても庄屋の家からお手伝いさん衆が消えはじめ、身内だけの大家族へと変わりはじめた。


> 大東亜戦争が終わり、減反が始まると共に親爺はすっかり消える。
> それ以降‥親爺に見て来た名残を、どこか親父として言い表すのが一般的になった。


 減反は、一次産業では食っていけなくなった社会事情を象徴している。
 その結果、地方から若者が流出し、そんな核家族世代の中で親父が一般的になった。
 ‥だが、それも昭和と共に逝ってしまった。

 バブルが崩壊→終身雇用が崩壊→グローバル間での競争が激化

 時代が平成に変わると共に、決定的に、親父はオヤジに変わった。
 オヤジには、何の威厳たる響きが無い。それこそ、ただのオヤジだ。
 ‥男が大黒柱たる時代が終わったさびしさでもある。


 しかし、親爺への郷愁は「中小企業のおやじ」として、まだまだいくらか健在だ。
 ‥それでも、いくらかでしか無いであろう。

 グローバル主義に圧倒されるようになり、「中小企業のおやじ」もまた減っている。
 男同士でもそんな社会はつまらないものだ。女から見れば尚更だろう。

 でも、女はそんなつまらなくなっているにも係わらず、自衛に積極的だ。
 女は自衛するものが有ろうと無かろうと、とにかく自衛には本能的に積極的だ。
 ‥結果として、そもそものつまらない原因の張本人である資本経済になびいたままだ。
 (今の世の大黒柱はカネだからな‥実質そいつは債権と呼ばれている)


> おカネの有るか無いかを基準にすると、社会も暮らしもつまらないものになる。


 「‥では、親父は何を持っていたのだろうか?」

 庄屋を基準に置くなら
 土地との繋がりになる。自給自足の暮らしとも言えるだろう。
 コメ=お金でもあったわけだが、コメは食えてもカネは食えねぇ。
 戦後しばらくは親爺は居たんだから、自給自足こそが自負を支えてきたことになる。

 ‥商売にしたってそうだ
 外からの注文を承るだけの仕事と
 自給自足のわらじを履いている者との間には、明らかに親爺ほどの差がある。
 その差は、どう考えたって‥カネでは手の入らない感触だ。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 23:52 | Comment(0) | 刮目/2015 | 更新情報をチェックする

2015年06月11日

【刮目】ザ・世界人権宣言にツッコミ

記稿.2015/06/11

(第一条・仮訳文)
すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。
人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない。


(木田舎滝訂正・第一条)
すべて生命は、生まれながらにして自由である。
ただし人間は、尊厳と権利について、平等を担う上での理性と良心を授けられており、
お互いに且つすべて生命に対し、慈しみの精神をもって行動することが求められる。





(第七条・仮訳文)
すべての人は、法の下において平等であり、
また、いかなる差別もなしに法の平等な保護を受ける権利を有する。
すべての人は、この宣言に違反するいかなる差別に対しても、
また、そのような差別をそそのかすいかなる行為に対しても、平等な保護を受ける権利を有する。


(木田舎滝訂正・第七条)
すべての法は、人の自由に、基本的秩序原則を示すものであり、
是により、すべての人は、法の下において公平に置かれる。
また、この宣言に違反するいかなる差別・偏向・批判・そそのかしに対しても、
すべての人は、平等に保護される権利を有する。並びに、等しく裁きを受ける義務を有する。





(第十二条・仮訳文)
何人も、自己の私事、家族、家庭若しくは通信に対して、
ほしいままに干渉され、又は名誉及び信用に対して攻撃を受けることはない。
人はすべて、このような干渉又は攻撃に対して法の保護を受ける権利を有する。


(木田舎滝訂正・第十二条)
何人も、当人の私事、家庭環境、家族、地域、組織、資本、権力、若しくは通信を介して、
他者の生存をほしいままに干渉し、または、名誉および信用を攻撃する行為を認めない。
すべて人は、先に示すような干渉または攻撃に対して、法の庇護を受ける権利を有する。
また、犯した者は、法の裁きを受ける義務を要する。





(第十三条・仮訳文)
1.すべて人は、各国の境界内において自由に移転及び居住する権利を有する。
2.すべて人は、自国その他いずれの国をも立ち去り、及び自国に帰る権利を有する。


(木田舎滝訂正・第十三条)
1.すべて人は、各国の境界内において良識に基づき移転及び居住する権利を有する。
2.すべて人は、自国その他いずれの国をも穢さずに立ち去る義務を要する。又同じくして、毀損を受けずして自国に帰る権利を有する。



> 人権宣言だからと言って、人以外への配慮が伺えないのは、もはや時代にそぐわないかと‥
> そんなのは誰がどう考えたって、人間勝手の権利宣言‥否、戯れ言だ。


 日本国内で憲法改善どうのこうの騒ぐ前に、世界基準の修正から入れや。
 そうしないとただ単に二度手間だし、日本の理念が理解されずに孤立する流れにも成りえ
 ‥手段的自衛権などと言う言葉で弄ぶことが国会の仕事と言わんばかりにしかならない。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 16:35 | Comment(0) | 刮目/2015 | 更新情報をチェックする