改稿.2015/08/31...20111126日...
> 近年、芸能界追放の表現が普通に使われるようになった
芸能スポーツに興味のない俺でさえ、
ぼんやりにもネットを閲覧していると、その手の文言の繰り返しが目に止まる。
はっきり言って、
もう少し具体的に、その経緯と、どこの局で出禁になったのかを示しておかないと
人権問題に発展しかねない。
(‥むしろそういう展開の方がおもしろいのか?)
> ‥かの江戸時代
自藩を去った者を、他藩でも召し抱えさせないようにと
大名同士で手を回すとした封建社会の阿吽があった。
自藩との関係を軽視して発ち、ぬけぬけと他藩に仕えようとする侍に対し
お家の恥やよからぬ噂を未然に摘むとした思惑も混ざり、
自らの持つ権威を見せつけんばかりに、プライドを懸けた藩同士の連携にあった。
‥人権上、そのような風習の痕跡には問題がある。
単一民族としての空気のままにあるにせよ、
それが普通だと思うような有り様では、とても民主社会とも国際社会とも言えない。
どんな商売でもそこは同じかも知れないが‥だからといって、
「捨てる神あれば拾う神あり」の世の情けまでを遠ざけようとの徹底は、人としてどうかと思う。
> いい加減、その辺のきめ細かさの必要に気が付いてはどうなのか?
村払いに、村八分。
日本独特の感もあるそれは、昔の日本では各地で普通に行われてきた。
多民族間の争いとは無縁に置かれた一方で、そのような習慣を身についけていたのが日本人でもある。
‥それは明らかに、表現と自由の否定の類いだ
多民族社会から見れば、仲間同士でも頼れないとした違和感にしか映らない。
それが心情的に普通だというのなら、日本の上層社会は未だに封建体制にしかあれて居らず
基本的人権もなんちゃっての理解程度でしかないと謳っているようなものだ。
「‥芸能界は代表格でそうです」と、自ら墓穴を掘っているようなものだ。(半分そうらしいけど)
マスコミは不思議なことに、自分たちのそういう違和感には目もくれず、
政治家叩きと同様に必要な精神であるとばかりに、芸能人全般に対しても同じ態度を取るようだ。
そこは明らかに‥言論の自由に平等を語る資格があるのかどうかさえ自らに問う姿勢を欠いている。
> 何様のつもりにあるのだろうか?
‥信用を失した者への抗議うんぬんまでを取り下げる必要はないと思うが、
その腹いせとしての追放表現は、幼稚な感情にしか映らない。
むしろ、自分たちの商売上の特権を私的活用した報復プレイだ。
其は明らかに、民衆に対するマナー違反でしかない。
「私たちは、時にこのように報道の権利を私的に活用しております」‥と言わんばかりのね。
また
それらに対し、何一つ疑問の声を挙げることなく、
「触らぬ神に祟りなし」を思って納得しているだけの社会性というのにもうんざりする。
‥お互いにやりようと言うか、成長が見られて然るべき部分だろう。
‥そんなにも皆して、恐怖の鎖で縛られていたいのだろうか。
> 芸能界追放の表現ほど、多くの面で震撼させるインパクトもあるまい。
なぜなら、そこが庶民にしてみれば夢の舞台にあるからだ。
その世界がそんな有り様なんて、お互いに夢の否定でしかない。(半分そうらしいけど)
ますは、放送禁止用語の一つとして「芸能界追放」の表現を自粛する所から見直すべきことだ。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 03:51
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