2011年02月26日

【参考】横文字の長音符を1記号1音1調子と思い込む日本人

改稿.2015/08/29...20110226...

 日本語を話せる外人さんの苦手はカタカナであると聞く。
 「それはなぜか?」


> そこに、日本人特有の英会話をマスターできない盲点あり


 日本人は英単語の発音に対して、
 発音記号のすべては同じ長さで発生するものと思いがちである。
 ‥特にカタカナで長音符が付いている場合に、その思い込み傾向は甚だしいかと。

 実際にネイティブの発音を注意深く聞けばわかると思うが、

 誰も長音符の長さに対して、1記号1音1調子での発声をしちゃいないのだ。
 それはすべての発音記号に対しても同じだと思う。
 (尤も、こんなことを語る著生の英会話はさっぱりだ)

 それでも、この予想を以て、
 外人さんのカタカナ苦手を逆さに考えてみるに
 ‥あながち的外れではないなと思った要素に気がついた。


> そもそも、発音記号からして1記号1音1調子であるなどとのお断りはどこにも書かれていない


 全部バラバラなのだろう。それが横文字の感覚に思われる。
 1単語の中における1音分と思えようとも、実は2分の1とか3分の1程度にあるのはざらで、
 ‥ネイティブにしか分からないツボがあるのだろう。

 そもそもにして表記と発音がまばらだし、デザイン的だし、好き嫌いの要素を挟む傾向を持つ。
 日本語のような実用性を重んじた相互対応になっていない。

 coffeeの発音にしても、
 「どうしてカフィーなどとカとコの両方に聞こえてくるのだろうか?」

 ‥これはつまり
 日本人の耳が、イロハの発音に置き換えて聞き取ろうとする癖にあるからだ。


> 実際の外国語の発声という奴は


 イロハに置き換えてみようとも、微妙に独特で割り切れない響きをしており、
 しかも発音のそれぞれの音の長さや調子については
 ネイティブにしかわからない‥そんな感覚を思わせる独特さを持つ。早口になると尚更だ。
 そこの所を差し引きして耳に流し込むべきかと思う。
 ‥であればこそ、ネイティブには、どこどこ訛りかが聞き分けられるということになる。


 そこで予想されるのは、”What time is it now?”の塩梅だろう。


 「掘った芋弄るな」を聞き分けられる地域とそうでない地域とがあるということだ。
 「掘った芋弄るな」は、ジョン万次郎が住んでいた地域での発声の特徴的な聞こえであり、
 ‥必ずしも、全米や全世界で通用するとは限らない。

 実際、時代を経た影響もあると思われるが、通じたり通じなかったりの両方があると聞く。

 聴くにせよ、話すにせよ、
 数をこなして経験値を稼ぐしかないのが、外国語の特徴と言うことか‥


> ‥逆から言えば


 外人からしてみて日本語も、詰め込んで慣れて覚えるしかないとの感覚にあるのだろう。

 ところが日本人にしてみれば、日本語は、色々とした諸事情が絡むことから、
 歴史を掻い摘まんで理解しておかないと、なかなかに使い分けできるものではない
 ‥という事情を知っている。それはまた詰め込むばかりに何の意味があるのかと思う節になっている。

 また、

 外人が日本の外来表記(カタカナ)を覚えようとすると、途端に困惑することになるのは、
 それは自分の国の発声と比較するからだ。そこにあるギャップに戸惑うのだろう。
 多分そこには、アナログをデジタルに置き換えるに等しいぐらいの違いがあるのだ。
 ‥そのぐらい、割り切れない部分での聞き分けをしているということになる。

 その点、日本人は発音よりも文意の理解に始終する。
 ‥そりゃもう、自己の意見主張よりもきちんと相手の言い分を理解することの方に趣がある。
 ‥どちらかと言えば、恥ずかしくない発音よりは、恥ずかしくない書に通じているのだ。

 (横文字の方が発音に複雑さが絡むことから、そういうわけには行かない事情を持つ)
posted by 木田舎滝ゆる里 at 12:09 | Comment(0) | 考察 | 更新情報をチェックする

2011年02月07日

【考察】腸内寄生虫は宿主の食好しだいで凶暴に肉食化するか?

改稿.2015/08/31...20110207...

> 戦後、ほとんどの日本人は大量の発がん性物質を体内に取り込んでいる。
> かつてDDTと呼ばれたノミやシラミを根絶やしにするために用いられたアレである。


 DDTの発がん性が、ベトナム戦争当時に使用されていた薬物と同様に、
 その症状の発生が、時間差で世代を超えて伝達してしまうほどの薬害にあるかないかは不明。
 ‥多くの日本人はそんなことを忘れてしまうほどに、平均的かつ健康的な時代を経ている。

 それでも、DDTは、曰わく付きの怪しい物質である。

 ※ 第一次大戦中に生産された大量の塩素ガスを、赤字のお化けにしてしまわない為に、
 過剰なまでの戦略的措置が、ベトナム戦争にまで続いた研究開発からの代物。
 (‥もっと深刻なレベルで癌との関連が疑われるような状況が生じたとておかしくはない)


> では‥なぜ、何がそんなにまで病状を押さえ込むことができたのだろうか?
> そこで推論してみた。


 ‥ノミやシラミを押さえ込んだ後
 日本人の多くは、なぜか大量の腸内寄生虫に悩まされることになった。(特に若年層)
 なんでも、茶碗一杯に丸々と出るわ出るわの話だったと聞く。


> そんなにも‥どうして田畑に寄生虫の元が発生したというのだろうか?


 ‥江戸時代はどうだったろうか?
 江戸時代の人糞は日常のリサイクルとして畑にまかれていた。
 しかし、江戸時代の話にその手の記録を聞き及ばない。

 たまに見られる内容と言えば、
 大量の寄生虫に腸内を食いちぎられて死んだという話ぐらいだ。
 ‥その手の話にしても、いつの時代にもある不注意の程度で、流行るほどではない。


 「なぜ、腸を食いちぎられるまで深刻化する者とそうでない者とが居たのだろうか?」
 「その違いはなんだろうか?」


 野生動物でも、好んで寄生虫を押さえる効用のあるものを食べることで
 体内での寄生虫の活性化を抑え込むという。
 (‥中にはそれとて、寄生虫の養分に利用されてしまう生態も見られる)

 そう考え行くと

 当時の寄生虫の大発生には
 ウジ虫療法と同じような効果がもたらされていたのではないのか?
 ‥との推論が立ちそうである。


> つまり


 DDTの散布で腸内に生じた悪性腫瘍のできはじめを、
 寄生虫たちが食べていたことで、表立った癌化が起こらなかったとの推理になる。

 当時は食べられるものが限られていた。
 その手の食べ物には寄生虫の食欲を刺激させるような状況には置かれていなかった。

 ‥そう考えると、少し後の時代からの癌問題は、
 その後の寄生虫退治に用いられた農薬による影響もありとした考えも成り立つ。
 (南洋の原爆実験による魚類への影響も絡むので正確なことは言えない)

 ただし

 その境目を厳密に感じられる事ができたのは当時の医者だけである。
 実証的なレベルでの議論は難しいように思われる。
 また、当時の生活の質的向上の移り変わりを知らなければ判断は付かない。

 当時の食肉と言えば、まだまだ高価なものだった。
 癌に冒されるような話は一般庶民には寝耳に水だった。

 ‥その割には、白血病はやたらとテーマにされて映画にもなったほどだ。
 その主題歌がかの『翼をください』だったと記憶している。
 (南洋の原爆実験の魚類からの汚染物質摂取の影響も否定できない)


> 人が肉食化すると腸内が荒れる
> それの自然界の医者として腸内寄生虫は存在してきた‥との考えがここでの意見である。


 肉食→腸内に寄生されている→荒れた腸内細胞に腸内寄生虫が食いつく。
 慢性化のなれの果てとして、数が増し、宿主の腸を食いちぎるほどに至る。
 ‥かように推理できるだろうか。


 豚などはきれい好きの生き物であるにも関わらず、血から何から何まで寄生虫だらけだと聞く。
 だが、豚自体の病気の要因に、腸内寄生虫が一番に上るような話は聞かない。
 ‥其は、共生関係の作用する視界にあると思う。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 17:20 | Comment(0) | 考察 | 更新情報をチェックする

2010年10月17日

【考察】蛇の本能

改稿.2015/08/18...20101017...

> ニュースで、ペットシートを呑み込んだヘビの件を見ました


 ‥そのヘビ
 ペットシートの上に居たヒヨコを呑み込もうとして、ペットシートまで呑み込んでしまったのです。
 手術の映像で、ヘビの胃からペットシートが摘出されていました。
 そのペットシートの端っこの方に、なにやら見慣れた茶色が確認できました。
 つまりそいつがヒヨコのなれの果てというわけだったようです。


> そこでこんな事を思いました


 ‥ヘビを人物像としてみた時
 そもそも手も足もないから一度喰らいつけば、
 うまかろうがまずかろうが、満腹だろうが、胃袋がはち切れそうでも、最後まで呑み込むしかない。
 噛み砕く・噛み切る・選り分けるという経過上での行為に選択支がないからそうでしかあれない。
 ‥それは、一匹いようが何万匹いようが同様で、互いに分け合うことができない。

 呑み込む事しか選択支にないと言う事は、そういうこと。

 腹が減れば呑み込むだけ。性的に衝動が起これば絡みつくだけ。
 ‥その代わり、ニオイ、動的な者、手頃な体温にしか反応しないという本能が備わる。


 まさに、触らぬ神に祟りなし。獲物として姿を捉えられたが凶です。
 それがヘビの食事事情だったことになります。


> そんな感じに考えていくと、蛇にまつわる賢さとは


 一撃必殺の可能性の高さが重要で、そのように用意周到に備える性格ということになります。
 それこそ、自らの食事光景を敵にさらすなんて有り得ず、密やかに済ますことが大事です。
 ‥まさに、悪事の象徴っすね。

 まぁそう考えていくと

 ペットで飼われて、飼い主に姿をさらして食事をしている蛇は猫を被っていることになります。
 ボスが居るとおとなしく良い子に見えていても、
 鬼の居ぬ間に洗濯とばかりに、一時的に本能が解放されたということでしょうか。
 ‥まさに良くできた人の皮を被った蛇っすね。


> 自分がそんな性格の人ほど、如何に以て態度で、第三者管理を主張するんすかね?


 上位の存在に見つめられていると、本能が減衰する。
 ‥自覚しているということにもなりますね。
 ‥でも結局は、本能を満たしたくなるわけですね。
 ‥他の選択支を選びようがない定めと言ったところでしょうか。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 13:30 | Comment(0) | 考察 | 更新情報をチェックする

2010年09月18日

【夢考察】テレパシーは脳をモニターにする

1-2)改稿.2015/08/21...20100918...

> 何日か前、へんな夢を見た。


 夢の内容はすっかり忘れてしまったが
 頭頂に電気的な刺激が伴ったテレパシーのような感覚だけははっきりと覚えている。

 テレパシーのようなその内容は
 “Bravo Baby!、Bravo Baby!、Bravo Baby!‥”
 ‥を耳にタコができるぐらいに繰り返して来た。否、頭にタコかな。

 その感覚が実に不思議で

 人体のツボで言う所の頭頂から脳下垂体に通じた経路が
 まるでアンテナの導線になったかのように、電気的なシビレでジンジンした。
 ‥頭頂あたりが、スピーカーになったかのように、「ブラボーベィベー」と繰り返し聞こえた。


 そんなふうに聞こえたのははじめてだ。


 ‥たまに妄想的に、耳に聞こえたり、頭に聞こえたりはある。
 といっても、空耳のような程度で一瞬だ。それにあまり好いメッセージに無かったりする。

 しかしこのときは違った。
 目覚めの状態に向かっていたせいか、尚更に良く覚えていたわけだが、
 目が覚める感覚が強まるに従って、そのスピーカーの感覚も強まったのを覚えている。
 その強制的な刺激のせいで目が覚めたと言ってもいい。通信のような何かに思えた。


> それにしても、“Bravo Baby”って、どういうニュアンスなのだろうか‥(気になる)
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posted by 木田舎滝ゆる里 at 05:47 | Comment(0) | 考察 | 更新情報をチェックする

2010年08月18日

【考察】今時のロシア主義

1-3)改稿.2015/08/26...20100818...

> NKH番組 33ヵ国共同制作
> 「民主主義」―世界10人の監督が描く10の疑問シリーズ第六回:ロシア“愛国者の村”


 その村はモスクワの南東に位置し、ドゥラコヴォ村と呼ばれる。
 「この村こそロシアの理想」と称して、ロシアの政治家らが絶賛しているとかなんとか‥

 村の管理人はミハイル・モロゾフを名乗り、愛国主義者&実業家&神父だという。

 そのミハイル・モロゾフの弁舌が実に達者にあった。それゆえ
 今時のロシア政府の推し進めようとしているロシア主義の代弁に適うものと見て、
 ‥参考とばかりにメモを取った。
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posted by 木田舎滝ゆる里 at 17:47 | Comment(0) | 考察 | 更新情報をチェックする

2010年07月19日

【参考】山で魚を育てる時代に思うこと

改稿.2015/08/28...20100719...

 今や、山中で様々な魚の養殖が試みられる時代です。
 うなぎ、ふぐ、えび、ピラルク、チョウザメ‥などなど
 ‥そこで、こんな風に思ったのです。


> 思考1:


 稲作地帯である東・東南アジアでの水耕が減れば減るほど、近辺の魚貝の数に影響を与え、
 そこで起きている食物連鎖の連動から、同時多発的に魚介の数が減少に転じているのでは?


> 仮に上記した思考1が正しいとします。


 ‥ならば、私たちのしていることは、
 養殖という技術開発力を得る試みにおいてこそ、生態への理解を得る上で正解かも知れないが、
 とても無駄の多い選択をしてしまっているのではないのか?‥という疑問に苛まれることになります。

 ‥反対意見として、考えすぎの意見もあるかと思います。

 しかし、山や森が海を養っているとされる理解は曲げられません。
 山や森がそうであるならば、人の行う水耕もまた一役買ってきたと考えるのがここでの姿勢です。
 (‥要因は複合的ですので、絶対的影響としては小さいだろう点も予想されます)


> 思考2


 江戸時代‥地元でタンパク質をまかなうための手段としても水耕は欠かせなかったはずです。
 何はともあれ、水耕と共に、水性生物が寄って来るのです。これを活かさないという手はありません。
 ‥ドジョウだったり、タニシだったり、そういう生き物を捕って頂くのです。
 ‥意図的にも、その手の生きものも共に育つような工夫をしていたと考えるべきかと思います。
 (逆を言えば、他にタンパク質の確保ができたなら、陸稲もありということです)

 また

 それらの生き物を食べに鳥類が寄って来ます。
 鳥類の糞が田畑をはじめとして、山や川に巻かれ、雨に流され、海にまで届き、
 ‥バランスに適った豊富なプランクトンが発生し、海の生態系もより豊かだったと思います。

 人口の面で言えば、今と比べれば漁獲量も消費規模も小さかったでしょう。
 技術の面でも、艪漕ぎの船で行ける距離には限りがありました。
 魚群探知機などなかったわけですから、資源回復する力にも差はあったと思います。

 しかしどちらにせよ、
 生態循環として、アジアの水耕が世界に豊かな魚礁を提供してきたとする仮説に
 否定的な影響を与えません。


> 尤もここでの意見は


 魚貝養殖に対しての否定的な見解ではなく、
 それの目的と期待への方向性が、非効率よりに傾いてきているのではないのかとの疑問です。

 ハッキリ言ってしまえば

 土地利用としての在り方が、人類の技術よりにありすぎても人類は生きていけなくなるのだと
 ‥まぁそういう解釈をして頂いて結構です。
posted by 木田舎滝ゆる里 at 17:22 | Comment(0) | 考察 | 更新情報をチェックする